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日蓮大聖人・池田大作

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水に浮かぶ影  

「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第22巻)

前後
1  私はどういうわけか、毎年毎年多忙になり、読書も思うにまかせない。書に親しむことは、人生の最も楽しく意義ある習性と心がけてきたつもりであるが、なにせ多忙である。話題になった書物は、一度は目を通そうと思っても、なかなかその本を開くことのできない昨今といってよい。
 そんな私への配慮でもあろうか、年若い友人などが、懇談の折、ベストセラーの内容をかいつまんで話してくれたりする。 昨年であったか、こんな話も聞いた。
 ある著名な作家が“乱塾時代”と呼ばれる現代の世相を扱った本(城山三郎著『今日は再び来らず』講談社)のなかに、特異な一組の母子が登場する。小学五年の男の子とその母親。彼女は息子の人生コースには、東大文一→大蔵省→総理しかないと決めている。息子も固くそう信じている。そのコースに乗るには、学校だけではとても間に合わない。母子そろって、塾選びに東奔西走を繰り返す。彼女は、息子が塾の元旦講座を受けるためには、大晦日から、夜を徹して席順取りに並ぶ労を少しも厭わない。
 その物語は、この母子がさまざまな曲折を歩んだあげく、息子は大学を三年浪人、母親も当初の覇気などみる影もなくやつれていく姿で終わっているそうだ。
 この話をしてくれた若い友人は「いわゆる“教育ママ”と呼ばれる人の典型なのでしょうか」と苦笑していた。
 私は正直いって“教育ママ”というような言い方をあまり好まない。どこか、高みから見下ろすような、睥睨的な響きがあるからだ。現代のような教育危機の時代に、なんとか、わが子を立派に育てていこうというお母さんたちの必死の苦労は、その身になってみなければわからないかもしれない。しかも、社会の荒廃もあって、そこに多くの歪みが生じがちである。その歪みにしても千差万別であって、画一的に“教育ママ”などという言葉でくくることはできないと、私は思っている。
 しかし、この小説にはやや極端なかたちで描かれているにせよ、こうした傾向が強まっていることも事実のようだ。多くを語る必要はあるまい。連日のように報道される“子らの世界の悲劇”は、学校教育や家庭教育のかかえている問題の深刻さを、大人たちに垣間見せているから。そして、その黒々とした底辺に、学歴社会という“亡霊”がさ迷っていることも、多くの人びとの警告するところである。
 私は亡霊と言った。たしかにそれは、現実社会における一つの亡霊なのではあるまいか。譲って言っても、人生真実なるものの、影の部分にすぎないのではなかろうか──。
2  仏典に、水面に映った自分の影に翻弄される男の話が出てくる。
 この愚かな男は、あるとき、池のほとりに立って、池の中にさかさまになった自分の姿に仰天する。「助けて!」。わめき叫ぶ声を聞いた人びとが走り寄る。
 「皆さん、わたしはいま池の中にさかさまに落ちて死のうとしています!」(前掲『仏教説話百選』206㌻)と訴える。人びとは笑って諌めるが、男は聞き入れようとしない。それどころか、水面に浮かび映る多くの人影を指さして「あなた方こそよっぽど馬鹿ですよ。わたしひとりだけの災難ではなく、あなた方みんなも池の中に落ちているというのに……」(同前207㌻)と言い張ってやまない。村人から見放された彼は、それでもなお、自分が池の中に溺れようとしていると思いこみ、助けを求めつづけて、最後は悲嘆のあまり狂い死んでしまった、という。
 笑うに笑えぬ話である。
 この男の顛末は、思い込みということの怖さ以上に、影に脅える人生の愚かさを象徴していると思う。一流大学を出てエリートコースを歩もうとする息子とその母親。そこに繰り広げられる、一見きらびやかな見栄の世界。そうした夢を追うのもいいかもしれない。しかし、それですべてが満足の軌道に乗るかといえば、決してそうではないと思う。見栄にはかならず嫉視がつきまとう。そして、嫉視のまなざしは、永遠に見はてぬ夢を追いつづけるであろう。虚夢は所詮、虚夢でしかない。大地を踏ん張る足をもたぬ亡霊であると気づいたとき、わが人生の来し方はなんとも無残なものと化していくにちがいない。「東大文一→大蔵省→総理」にとりつかれた母親は、あの愚かな男を笑うことはできない。
3  私の恩師は、生前よく「みずからの命に生きるべきだ」と強調してやまなかった。ああ見られている自分、こう見られている自分、それに一喜一憂し、焦ったり、劣等感で卑屈になったり、束の間の有頂天にひたってみたり……。そこには、自分でなければ生き栄えていくことのできない真実の生の実感はない。それでは水面に動くあの男の影と、少しもちがわないからである。
 まず、腰をすえ、深く息を吸い、みずからの足元を見つめてみたいものだ。そして、他人の思惑など気にせずに、自分の道を一歩一歩、着実に歩むことこそ、賢明な生き方ではなかろうか。 みずからの命に生きる──この平凡にして非凡な人生の真実に思いをめぐらすとき、私の網膜には、厳しくも温かい、わが人生にとっての恩師の慈顔が、さわやかに焼きついて離れないのである。

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