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日蓮大聖人・池田大作

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「法門申さるべき様の事」  

講義「諸法実相抄」「生死一大事血脈抄」(池田大作全集第24巻)

前後
2  又御持仏堂にて法門申したりしが面目なんどかかれて候事・かへすがへす不思議にをぼへ候、そのゆへは僧となりぬ其の上一閻浮提にありがたき法門なるべし
 また、御持仏堂で法門を説いたことで面目をほどこしたなどと書かれていることは、どう考えても不審なことである。そのゆえは、僧となった身であり、そのうえこの仏法は一閻浮提第一の法である。
3  公家に召されて仏法を講じたのが大変な名誉であるとの三位房の文面に接して、大聖人は非常に残念がっていらっしゃいます。
 三位房については、資料もほとんど残っていないため、不明な点が多く、この御抄の対告衆と「聖人御難事」等に出てくる人物とが同一人物かどうかについても異説がありますが、一応、ここでは同一人物として話をすすめます。
 彼は京都遊学を許され、また桑ケ谷問答に活躍するなど学才に秀で、問答に巧みな、それだけ実力もあり、門下で重きをなしていた人物であった。ところが、一面、名聞名利の心が強く、臆病で、求道心が弱く、虚栄の心に支配されやすい人間であった。
 「聖人御難事」には「をくびやう臆病物をぼへず・よくふか欲深く・うたがい多き者」と、その根底を見抜かれ、どんなに仏法を教えても「れるうるしに水をかけそらりたるやうに候ぞ」とあります。
 法門への理解がいかに深く弁舌さわやかであろうとも、名聞の念厚く臆病で慢心が強ければ、成仏の道を踏みはずしてしまう。この重大な一点を、三位房の例は後世の私どもに教えています。
 大聖人は更に、あなたは僧となったうえ、一閻浮提で最も偉大な法門を受持している立場ではないか、と諭されている。
 ここで注目すべきは「一閻浮提にありがたき法門」との御文です。大聖人の仏法は、全世界随一、偉大な哲理と実践の宗教であることの大確信が躍如としております。
 三位房は、おそらく公家の前で説法して称賛されたことを、大聖人に報告してほめてもらいたかったに違いない。しかし、案に相違して、大聖人から厳しい叱責をうけたのであった。三位房の中にある名聞の心を、大聖人は感じられていたと十分考えられます。
 大聖人はいつも、あるゆる弟子の傾向性を知り、何とか本物に仕上げたいという一念に徹せられていた。ゆえに、その三位房の一言を逃すことはしなかった。面目をほどこしたという一言の中に、三位房の根底を、御本仏は見てとられたに違いありません。大聖人は、具体的事実から三位房の全体に流れる根性を打ち破られようとなされたのでありましょう。
 こうした大聖人のお撮る舞いの中に、事に即して弟子を薫陶するとともに、更に広く深く仏法を展開していく姿がうかがえるのであります。大聖人の仏法が、事の仏法であるといわれるゆえんが、ここにある。身近な行動、生活、振る舞い……そこに人間を見、仏法を展開していく大聖人の正道の生き方を、我らは決して見逃してはならない。
 なお、僧とありますが、この御文の教示は、広く折伏弘教に励む仏法指導者を意味されていると拝すべきことは、御文の趣旨からいって当然であります。
4  大聖人の仏法は人類を救う永遠の宗教
 設い等覚の菩薩なりとも・なにとかをもうべき、まして梵天・帝釈等は我等が親父・釈迦如来の御所領をあづかりて正法の僧をやしなうべき者につけられて候、毘沙門びしゃもん等は四天下の主此等が門まほり・又四州の王等は毘沙門天が所従なるべし、其の上日本秋津嶋は四州の輪王の所従にも及ばず・但嶋の長なるべし
 たとえ等覚位の菩薩であっても、何を気にすることがあろうか。まして梵天や帝釈は私達の親父である釈尊の領地を預かって、正法の僧を養う者とされているのである。毘沙門天王等は四天下の主で、これら梵天・帝釈の門番である。また、四洲の王等は毘沙門天王の家来である。そのうえ、日本秋津嶋は四洲の転輪王の家来にも及ばない。ただの島の長にすぎない。
5  この段は、日蓮大聖人の仏法が世界人類を救うべき、永遠の宗教であることを明かされたところであります。
 すでに、私どもが拝する大御本尊を「一閻浮提総与の大御本尊」と申し上げるように、御本仏日蓮大聖人の大慈悲と南無妙法蓮華経の法力は、全世界の民を、未来永劫にわたって潤していくのであります。
 たかだか、一国の民族を救済して事終わるような偏狭な仏法ではない。まして、一国の国教化を策して、権威や権力に安住するような宗教ではない。かつて、日蓮大聖人を国粋主義者に祭りあげたり、大聖人の仏法を鎮護国家の宗教ととらえようとする一部の人々があったが、それらの動きはむしろ、大聖人の仏法を狭く矮小化したものにすぎなかったのであります。
 例えば、日本に軍国主義が勃興しつつあったころ、ある他宗派から出した講義録では、この段の文中「但嶋の長なるべし、長なんどにつかへん者どもに」の部分と「上なんどかく上」の部分が抜けている。おそらく、当局から削除を要請されたのであろう。
 削除された部分が、いかに当時の日本の国家主義的見地から、つごう悪い言葉であったかは明らかであります。この削除の事実自体、大聖人の仏法を狭く矮小化した好例であるとともに、逆に、大聖人の仏法の世界性を象徴しているといえるでありましょう。
 それにつけても、鮮やかに思い出されるのは、初代会長牧口先生の激烈な戦いであります。牧口先生は軍事権力の狂乱の嵐の中で、敢然と日蓮大聖人の仏法の正義を貴かれ、正義に殉じられたのであります。
 この初代会長の壮烈無比な死身弘法の精神こそ、我が創価学会の永遠の魂であり、その精神を万代にまで継承していく責務が、私達にはあると常々思っております。
 ましてや、いまだに国教化や国立戒壇などと唱える者もあるが、まさしく先の大聖人の仏法の矮小化の亜流にすぎないのであります。
 この段の御文を率直に拝読したならば、日蓮大聖人の御境界の宇宙大の広さと崇高さに感嘆しない者がありましょうか。
 京都の公家の持仏堂で説法したことを名誉にも誇りとも思っている三位房の偏狭さと、権威へのへつらいを、日蓮大聖人は、宇宙大のスケールから、諄々とその非を説かれているのであります。
 三位房が持った仏法は「一閻浮提にありがたき法門」である。すなわち全世界随一の仏法であると述べられ、この妙法を持つ者の位がいかに尊貴であるかを教示されていくのであります。「設い等覚の菩薩なりとも・なにとかをもうべき」――一閻浮提の仏法を受持した者は、仏の境界と等しき等覚の大菩薩といえども問題にならないほど高い位である、との仰せであります。なぜなら、妙法は、三世十方の諸仏を成道させた根源の法だからであります。
 次に「まして党梵天・帝釈等は我等が親父・釈迦如来の御所領をあづかりで正法の僧をやしなうべき者につけられて候……毘沙門天が所従なるべし」とは、極めて重要な意義をはらんだ御文であります。
 まず「我等が親父・釈迦如来」とは、一往は、文上の釈尊でありますが、再往は、久遠元初の自受用報身如来を指すことは言うまでもありません。一往の辺からいえば、梵天、帝釈や毘沙門等の四天王の諸天善神は、釈迦如来から、正法を弘める僧を供養するために、その所領を預かっているのだと仰せであります。ここに重大な意義がある。すなわち、妙法を受持し、弘通する人間を供養するためにこそ、梵天、帝釈、四天王の諸天が存在しているとの仰せであります。
 そこには、人間を超越する神もなければ、人間から隔絶した絶対者もいない。まさに、人間仏法の宣言と拝してよいでありましょう。一国の王、権力者、貴族などは、この梵天、帝釈の眷属の、そのまた眷属にすぎないということであります。
 再往の辺でいえば、全世界、地球全体が、本来、妙法の脈打つ寂光土であり、久遠元初の仏の常住の浄土であるということです。
 「仏界は是れ尊極の衆生なり」(六巻抄一七㌻)とあるように、衆生の生命に真実の尊き輝きを発揮すること自体が、即仏なのであります。したがって、仏の世界とは、現代的にいえば、生命を至上とする世界ということであります。
 そこにおいて、梵天、帝釈、四天王等は、すべて宇宙、自然、社会の秩序を守る働きにほかならない。すなわち、これらの善神は、妙法の脈打つ常住の寂光土を守護する働きなのであります。
 それゆえ、これら善神が「正法の僧をやしなう」とは、宇宙の様々な働きが、妙法を受持し弘通する人の生命を守るように働くということであります。
 しかも、その働きを起こさせるのは、法を持つ一人一人の生命力であります。ゆえに、どこまでも人間が主役であることはいうまでもない。
 ここに、私は、日蓮大聖人の仏法において、真実の人間自立の哲理が説かれているのをみるのであります。
 また「其の上日本秋津嶋は四州の輪王の所従にも及ばず・但嶋の長なるべし」とは、常に一閻浮提、全世界の民衆救済という広大な立場に立たれた日蓮大聖人が、どのように日本国の権力者をみられていたかを明らかにされた御文です。何と雄大な視点でしょうか。私どもは、この大聖人の御境界を寸時も忘れずに、いつも大きく、ダイナミックに朗らかに、人生を闊歩していきたいものであります。
6  真の面目は御本仏の称賛
 長なんどにつかへん者どもに召されたり上なんどかく上・面目なんど申すは・かたがたせんずるところ日蓮をいやしみてかけるか
 その長などに仕える者達に「召された」とか「上」などと書くうえ「面目をほどこした」などというのは、あれやこれや突き詰めて考えてみると日蓮を卑しんで書いているのであろうか。
7  三位房が「上」に召されて「面白」をほどとしたと手紙に書いてきた。日蓮大聖人は、公家等の社会的身分をもった人間を有り難がり、その前で仏法を講ずることを名誉と思っている三位房の姿勢を、厳しく叱られているのであります。
 それは、一言でいえば、仏法を根本とすることを忘れ、社会的名誉を根本としてしまっているからであります。御本仏大聖人の弟子であり、妙法を持っているからこそ、最高の栄誉であります。
 「当体義抄」に「正・像二千年の国王・大臣よりも末法の非人は尊貴なり」とお示しのとおりであります。
 その精神に立てば、法を説く相手の身分や地位などは問題ではない。一庶民に法を説くのも、高貴の人に法を説くのも、全く同じであるというのが、日蓮大聖人の平等大慧の仏法であります。それを公家に説いたからといって「面白」をほどこしたと誇っているのは、まさに、日蓮大聖人の仏法の本意をゆがめるものであります。
 いったい、我々仏法者にとって、真実の「面目」とは何か――。私は、恩師の「青年訓」の末尾が思い出されてならない。「……愚人にほむらるるは、智者の恥辱なり。大聖にほむらるるは、一生の名誉なり。心して御本尊の馬前に、屍をさらさんことを」と。
 表現は若干激しいですが、我らの生き方の「面目」を、ものの見事に言いきられている。まさに三位房は「愚人にほむらるる」をもって「面目」をほどこしたなどと取り違え、名聞名利の道に踏み込んでしまっているのであります。
 日興上人が二十六箇条の「遺誠置文」に「学問未練にして名聞名利の大衆は予が末流に叶う可からざる事」としたためられているのも、こうした大聖人門下の違背の実例を目の当たりにされ、肺腑をえぐる思いで書かれたものでありましょう。
 我ら仏法者の「面目」とは、「大聖にほむらるる」こと以外にありません。その意味でも、日蓮大聖人の門下であることを何よりの誇りとして、生涯を生ききっていただきたい。
 思い起こされるのは、草創期の水滸会における恩師の指導であります。小説『人間革命』にも記しておいたことですが、一青年幹部の「故郷に錦を飾るとは」の質問に対して、恩師はその本質を鋭く見抜かれ次のように指導された。
 「君たちは、社会的に成功し名士といわれるようになることが、錦を飾ることだと思つてはいないか。一流企業の社長になるとか、大学教授になるとか、大臣になるとか、一応は世間にとって錦かもしれない。しかし、そんな錦は、いつどうなるものかわからない」と――。そして学会の幹部となって、広宣流布に挺身していく姿こそ「最高にして永遠の錦」であることを、万感込めて訴えておられました。
 何も恩師は、世間の名声それ自体を悪いといっているのではない。社会の信用をちえ、それが名声へとつながっていくことは、大切でもあります。しかし、それが最高の目的であると履き違えてしまうと、いつしか世間の風に侵され、名聞名利のとりことなって、ついに三位房の轍を踏む愚を犯してしまうでありましょう。
 御書にいわく「願くは「現世安穏・後生善処」の妙法を持つのみこそ只今生の名聞・後世の弄引ごせのろういんなるべけれ」と。
 すなわち、栄枯盛衰を常の法則とする人生において、生々世々に我が生命を飾り、福運の花を咲かせていくものは妙法以外にない、との仰せなのであります。もし「名聞」というならば、この生命の勲章こそ、何ものをもってしても代えることのできない、真実の「名聞」なのであります。
 またいわく「智者・学匠の身と為りても地獄に墜ちて何の詮か有るべき」と。
 いかに高き地位につき、名声をほしいままにしようと、生命自体が地獄の状態にあって、何のための人生でありましょうか。どうか皆さん方は、一生において、何が根本であり、何が枝葉末節の問題であるかを、鋭く見抜いていっていただきたいのであります。
8  虚飾におぼれず、初心を忘るな
 総じて日蓮が弟子は京にのぼりぬれば始はわすれぬやうにて後には天魔つきて物にくるせう少輔房がごとし、御房もていになりて天のにくまれかほるな
 総じて日蓮の弟子は京に上ると、初めは忘れないようであるが後には天魔がついて正気を失ってしまう。少輔房のようなものである。御房もそのような姿になって天の治罰を蒙らないようにしなさい。
9  当時、京都と鎌倉は、西国と東国を代表する中心地で、政治的にはそれぞれ公武二大勢力の拠点であった。もっとも承久の乱(承久三年=一二二一年)以降は、武士が朝廷に代わって実質的な支配階級を形成しつつあり、時代の流れは鎌倉のほうにありました。ちなみに、日蓮大聖人の御聖誕はこの承久の乱の翌年です。
 しかし、当時なお文化的には先進地域は西国であり、東国は後進の地域であった。朝廷の権威が失墜したとはいえ、西国には貴族社会を背景に伝統を誇る文化があり、武家達が京都の貴族文化へ抱くあこがれは、相当のものだったようです。それは京都への劣等感といってもよく、自分達の生活を卑しみ、教養のなさを恥じ、ただひたすら憧憶をもって京都を眺めていたようです。
 三位房の”京へのぼる”という行為には、こういう時代背景があったのです。当時の、今でいえばインテリに属する知識階級の精神の屈折した傾向を、日蓮大聖人は厳しく見抜き、指導されているのです。
 ちなみに「関東御成敗式目」(貞永式目)は、武家社会の初の成文法として画期的な意義を持つものですが、その制定の時、北条泰時が「式目」と一緒に京都に送った手紙に、興味深い一節があります。
 「……京辺には定めて物も知らぬ夷どもの書集めたる文とて笑はるる方も候はんずらん、憚り覚え候へ共……」
 これは、京都のあたりでは、(貞永式目が)何も知らない教養のない東国人(東夷)どもが書き集めた文章であると笑う人々もおられるであろう、それで気恥ずかしさも感じるのですが、という意味であります。時の権力者・泰時でさえ、京風へのこのような一種の遠慮を抱いていたのですから、一般の人々の考え方も想像がつくというものです。
 京都の宮廷生活を経験した女性の目には、百貨輻輳の商業、港湾都市にもなった政都鎌倉も「袋の中に物を入れたるやうに住ひたる、あな物侘し」と映ったようです。
 このような雰囲気を持つ京都に行くと、ともすると、それだけで何か、さも自分の教養が深まったかのような錯覚に陥りやすいことを、大聖人は指摘されているわけであります。何となく華やかな虚栄と虚飾の渦巻く王朝文化に、軽薄に酔いしれる人間の浅はかさを心配されているわけです。
 その京風に流されてしまった典型として少輔房の例を挙げておられる。少輔房については、どういう人物か不明の点も多いのですが、やはり三位房と同じく、大聖人門下で上京し、軟風におかされ、一説によれば、伊豆の法難のころから退転し、ついに仏法違背の徒となり、やがて横死した人物のようです。
 「天のにくまれかほるな」と、厳しくも温かく弟子の行く末を思ってお述べです。「天のにくまれ」とは、まさしく何をやってもうまくいかない、悲劇の人生となることです。仏法の軌道から外れた生き方、それは、自分自身の生命を破壊することにもなるのです。我が人生の運行はリズムを失い、胸中の天座の星は光を失い、暗雲の中に遠征を余儀なくされるのであります。
10  虚栄に流される三位房への叱責
 のぼりていくばく幾何もなきに実名をうるでう物くるわし、定めてことばつき音なんども京なめりになりたるらん、ねずみがかわほり蝠蝙になりたるやうに・鳥にもあらずねずみにもあらず・田舎法師にもあらず京法師にもにず・せう房がやうになりぬとをぼゆ
 京に上っていくらも経っていないのに実名を変えたということであるが、気違いじみている。きっと言葉つきや発音なども京なまりになったことであろう。鼠が蝠蝙になったように鳥でもなく鼠でもなく、田舎法師でもなく京法師にも似ていない、少輔房のようになってしまったと思われる。
11  「ネズミがコウモリになったように、ネズミとも、鳥ともつかずに」とは、誠に厳しい叱責のお言葉です。三位房の心には京へ上り、京で生活するうちに、東国の田舎者だと笑われたくないという一心が動いていたのでしょう。大聖人は、三位房のその報告の裏にあるこうした傾向性を鋭く見破られた。公家に説法して称賛をあび、得意げになって夢心地になり、表面ばかり変えることに腐心し、自らを失っていく三位房を、大聖人は心から哀れみ、大慈悲をもって叱られているのです。
 三位房が京に上って実名を隠岐の法皇の名である尊成と変えたのも、田舎出身を恥じ、それを隠す意図からだったのでしょう。その一瞬の心理の奥底をみてとられ、ズバリその心中にくさびを打たれているのです。
 日蓮大聖人がこの御書を御述作の文永六年は、その前年に蒙古の牒状が到来し、国中が騒然とする中で、鎌倉に弘教の足跡を力強く印された年です。いわゆる十一通御書をもって公場対決を迫られるなど、一段と激しく立正安国の正義を訴えられていた時です。それだけに三位房の軟弱さを、よけい心配されたのでありましょう。
 時代の動向も知らず、ただ一身に京都の貴族の称賛を求めて得意然としている三位房に、大聖人は、今はいかなる時か、今こそ我が門下なら民衆救済のために立って戦え、との思いを込めておられると拝したいのです。
 三位房、あなたは一閻浮提第一の法門を持っているではないか、苦悩の人々を救いゆく究極の使命を失うな、真実の門下ならば、今こそ誇りと襟度をもって立ちなさい――という大聖人の激しくも温かい烈々たる思いが、私には響いてきてならないのです。流行や華美に走り、仏法の革命的精神を喪失したならば、仏法者としての自らを放棄したにも等しいのです。
 ネズミがコウモリになったように、ネズミとも鳥ともつかず、あっちへ泳ぎ、こっちへつき……といった確信のない不安定の人生ほど、醜いものはない。ともかく、信念の道を生き抜き、誰が何と言おうと、状況がどう変わろうと、我らは我らの道を歩もうという確固たる姿勢が、最終的にその人の人生を飾るのです。
12  さて日蓮大聖人御自身は、弘教の場を鎌倉に定め、時代精神を呼吸しながら、民衆の真っただなかで行動を進められました。南都北嶺の仏教には一顧だにもされなかった。なぜか――。大聖人の胸中には、常に苦悩する民衆の姿があったのでしょう。だからこそ大聖人は、民衆仏法の巨大な一石を、当時の日本の社会的中心地・鎌倉の地に投じられたのです。
 このことは、ほぼほ同時代の法然が地方の豪族、栄西は神官、親鷲、道元が貴族の出身であったのに対し、大聖人が平凡な庶民の出であったことと無関係ではありません。
 御自身で、「民の家より出でて頭をそり……」と言われ、「日蓮今生には貧窮下賤の者と生れ旃陀羅せんだらが家より出たり」と宣言されているように、大聖人は末法の仏法の樹立と流布に、まさしく東国の辺地から立ち、時代精神の沸騰する鎌倉でこそ、力強い弘教を展開されたのでありました。
 それはまさしく「末法の仏とは凡夫なり凡夫僧なり」との仏法の究極をひっさげつつ、自身の悟達の境地と確信そのままに、現実に苦悩する民衆救済のために戦われた偉大な法師のお姿だったのであります。誠に気骨あふれた、末法の大法流布という大感情と大確信に立った崇高なるお姿がそこにある。まさしく庶民とともに歩む偉大なる世界をも包む御本仏のお姿ではないでしょうか。
 民衆救済を忘れ、権戚化し、あるいは貴族化した宗教は、やがて衰滅せざるをえないことは、歴史が鋭く証言しております。日蓮大聖人の仏法は、どこまでも民衆の苦悩を解決するため、民衆の中に生きていく仏法です。ゆえに、今日においても、もしいたずらに権威の座に安住して、いつしか庶民を睥睨するようなことがあったならば、三位房ならずとも、いつのまにか”現代の三位房”とならざるをえないと恐れますし、大聖人のお叱りを受ける結果となるでありましょう。
13  仏法は”真の地域主義”が根本
 言をば但いなかことばにてあるべし・なかなか・あしきやうにて有るなり、尊成とかけるは隠岐の法皇の御実名かかたがた不思議なるべし
 言葉はただ田舎言葉でいるがよい。(どっちつかずなのは)かえって見苦しいものである。(名前を)尊成と書いてあるが、これは隠岐の法皇(後鳥羽上皇)の御実名であり、あれこれと、不審なことである。
14  田舎者と笑われたくない、もともとの京の人間のように思われたい。そのために使う言葉もよ”京言葉”になったであろう三位房に対し、大聖人は「言をば但いなかことばにであるべし」と厳しく指摘されているわけであります。それは、東国の日蓮大聖人の弟子であるとの誇りを持っていけということとともに、虚栄の心を排し、どこまでも自分らしく、主体性をもって発言せよ、との御教示なのであります。
 ここに、一個の人間の言葉遣いからも、鋭くその生命の傾向性を見抜き、かつ細心の配慮を巡らせながら、仏道修行の根本姿勢を明示されている大聖人の、慈愛あふれるお姿を改めて痛感せざるをえない。
 しかし、日蓮大聖人は、三位房の言葉遣いを指摘されてはいるものの、それは決して、当時の京の言語を否定されているのではない。絢爛にして華麗な都の貴族社会に心を奪われたであろう精神の退廃を、戒めておられるのであります。ともかく、我々の広宣流布の運動とは、三位房のごとく、決して虚栄を追うような世界ではない。どこまでも、この現実の大地に深く根を張り、現実の荒波を力強く乗り越えて進んでいく生々しい宿命転換の戦いこそが、広宣流布であることを、強く申し上げておきたい。
 さて、三位房に対する日蓮大聖人の御指南をとおして、もう一点、重要な原理を学ぶことができる。それは”いなか言葉”という土俗性、すなわち庶民感情が息吹く地域をいかに大切にされ、また、その生活実感がただよう庶民の心をどれほどか慈しまれたかという、あくまでも地域主義に根ざした大聖人の仏法の大精神であります。
 私はこの意味からも、今日、私どもの進めている地域主義を根本とした信仰活動の正しさを、ともどもに確認しておきたいのであります。
15  日蓮大聖人の御書を拝するたびに、私はいつも庶民の哀歓の情に迫り、心のヒダまで知悉されている日蓮大聖人の、深き人間性に驚きを覚えるのであります。一人の老婦人が子供を亡くしたことに対するお手紙の中に込められているものは、自らが子供を亡くしたかのような気持ちが縷々と語られている。まさに大聖人は”人間の中に””生命の中に”徹底して生きられたのであった。民衆をこよなく愛され、人間が可能な限りの生きる力を発揮することに真実の喜びを見いだされていたのであります。
 ある時は、乱世に生きる武士の人生観に対し、生と死の問題を鋭くとらえられ、人情味豊かに語りかける姿も、まざまざとまぶたに描かれてくる。またある時は、四条金吾や南条時光に対して、あまりにも凡夫そのままの、人情の機微に触れられた数々の激励をされている。
 「いなかことばにであるべし」との一言の中にも、この現実の大地に生き、自然と人間の中に呼吸する極めて土着的なものを愛された御本仏の心情というものが、鮮やかにうかがえるのであります。
 この土俗性の中に普遍の妙法を輝かせたところに、大聖人の仏法の優れて偉大な特質があることを、決して見落としてはならない。抽象的、観念的な言葉を弄することは容易である。しかして、現に生きる一人一人の人間の存在の中に、宇宙をも包むであろう妙法の力を説いていかれた大聖人のお振る舞いは、まさしく宗教革命の何たるかを示すに十分でありましょう。
 真の地域主義とは、一口に言えば、普遍性と土俗性の融合のいき方であるといってよい。土俗性――すなわち庶民の生活実感に密着した習慣や風俗等を触発しつつ、その中に、人類、世界と通ずる普遍性の響きを通わせていく。そこに、人間が真に人間らしく生きていくための価値は昇華されていくのであり、我々の志向する地域主義もその一点に結実するのであります。
 御書にいわく「虚空の遠きと・まつげの近きと人みなみる事なきなり」と。「虚空の遠き」とは哲理の普遍性であり、「まつげの近き」とは足元であり、まさしく我らが生を営んでいる地域そのものの土俗性と拝せましょう。私は、卑近な譬喩を用いて述べられたこの御金言に、我々の運動の目指す地域主義の方軌が、見事に要約されていることに驚きを禁じえません。
 ともかく、大聖人門下の中で重きをなしていた三位房でさえ、権威、権勢にあこがれ、仏法の本義から外れていったということは、いかに大聖人の仏法を正しく実践することが難しいかを、端的に示しているといえましょう。真実の人間の在り方を示されたのが大聖人の仏法なのであります。
 我が創価学会の行動は、この大聖人の仏法を”人間のための仏法”としてより明確にし、すべての人々に平等に開いて展開しているのであります。それは日蓮大聖人の御精神にかなっていることは疑いない。
 そして今日、末法流布の大河の時代を到来せしめた評価は、何よりも世界を舞台にして活躍する地涌の勇者の姿が証明しているでありましょう。私どもは、この厳粛なる事実に大いなる誇りを持ちたいのであります。

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