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日蓮大聖人・池田大作

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「種種御振舞御書」  

講義「諸法実相抄」「生死一大事血脈抄」(池田大作全集第24巻)

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3  苦難もまた人間革命の因
 学会の歴史にあっても、過去に、難を前にして敗残の姿をさらしていった残念な人々を、何人か知っております。
 私は、それらの実例をみて、常々痛感していることですが、それらの人々は、外から襲ってくる難に敗れたというよりも、むしろ己心との戦いにおいて挫折したといったほうが、真実に近いように思えてならないのであります。
 大聖人御在世当時に、おいても同様であったでありましょう。その弱い自分に打ち勝つことが、信仰の第一義なのであります。
 今は亡き吉川英治氏がその書の中で「波騒は世の常である。波にまかせて、泳ぎ上手に、雑魚は歌い雑魚は躍る。けれど、誰か知ろう、百尺下の水の心を。水のふかさを」(『宮本武蔵』中央公論社)と言った言葉があります。
 誠に波騒は世の常であります。そこにたくみに生きる小さい心の人間もいます。しかし、人間の本当の偉大さ、尊さは何か。自らの信ずる目的のために波騒を包みつつ、なおかつ悠然と師子王の歩みをなす人こそ、最も尊い人であります。
 我らの人生は、波浪に翻弄されていくような、はかないものではならない。また、波間を巧妙に泳いでいくような、世故にたけた名聞の道であってはならない。しょせん、どう過ごそうとも、一生は一生であります。
 ゆえに私達は、このかけがえのない一生を「浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり」の御金言のままに、決定の日々で我が人生の歴史書をつづっていきたいものであります。
 たしかに、釈尊にとっては提婆達多が、日蓮大聖人にあっては平左衛門尉が、第一の善知識でありました。
 しかし重要なことは、難に直面した時、それを善知識とするか、悪知識とするかは、我が一念にあるということであります。御本仏の心を推察するのは恐れ多いことですが、平左衛門尉を善知識と仰せられたのは、いつに御本仏日蓮大聖人の比類なき御境界、大慈悲であられました。
 総じて私どもにおいても、一念のいかんで悪知識も逆境も、ことごとく自身の成長の発条としていくことができるのであります。また、罪障消滅につながっていくのであります。苦難があるたびに、真実の信仰の核は、いやましてその力を凝縮させながら、新しい時代を切り開いていくに違いありません。
 その意味からも「今の世間を見るに人をよくなすものは……」うんぬんの仰せも、誠に道理であると拝することができます。味方同士のなれあいの平穏にひたっていては、人間であれ組織であれ、堕落するばかりであります。苦難につぐ苦難の峻険を踏破しぬいてこそ、嵐に揺るがぬ大樹のごとき境涯が開かれゆくのであります。
 「難来るを以て安楽と意得可きなり」と仰せのように、苦難こそ真実の平安であり、波乱万丈のなかに底光りを増していくものこそ、真金の人生であるといってよい。
 長途の旅を苦難と戦い、耐え抜いてきた人の顔には、つややかな輝きがあります。一回りも二回りも境涯を開き、その目や表情は、不屈の光沢を放ち、私達の内側に力強い何ものかを生じさせてくれるものです。
 どうか、皆さん方の一生もかくあれかしと祈りつつ、講義を終わらせていただきます。

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