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日蓮大聖人・池田大作

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「御義口伝」  

講義「諸法実相抄」「生死一大事血脈抄」(池田大作全集第24巻)

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4  妙法はどこまでも「蘇生の義」
 ここで、「殺す」あるいは「害する」――総じて殺害ということについて、ひとこと申し上げておきたい。
 仏法とは、いかなる意味でも人を殺すものではなく、本源的に人を救い、生かすものであります。その点が、西洋中世に猛威をふるった”魔女狩り”等とは、根本的に異なるところであります。
 「釈迦の以前仏教は其の罪を斬ると雖も能忍の以後経説は則ち其の施を止む」と仰せのように、特に大乗仏教にあっては「殺す」ということは、厳しく戒められているのであります。
 ではいったい、何を殺すのか。御本尊への絶対の信という利剣をもって、我が生命に巣くう貪愛、無明の心を殺すのであります。
 真実の宗教は、史上、幾多繰り返された血なまぐさい宗教戦争に民衆をかりたてたりするものであってはならない。また、人々を自殺に追い込む哀音の宗教であってもならない。人々に、生きて生きて生き抜く力をわきたたせずにはおかないものであります。
 大聖人の仏法は、縁するすべての人々の生命を、貪愛、無明のや闇から、元初の太陽の赫々たる陽光に浴せしめるのであります。妙法が、一切を生かし、よみがえらせていく「蘇生の義」とされるゆえんもことにあることを、知っていただきたいのであります。
 更に「教主釈尊の如く仏身を感得するなり」とは、信心に徹することによって、教主釈尊、すなわち久遠元初の自受用身即日蓮大聖人の御命を、総じては、そのまま我が身に涌現できるとの仰せなのであります。「教主釈尊の如く」とは、教主釈尊のようにと、一往、拝することができます。
 しかし、「如は不異に名く」との御金言にみられるように、「如く」とは「異ならない」「等しく」と、より深く拝していくことが可能でありましょう。
 実に凡愚下賎の私どもであっても、唱題に励み、弘教に励むことによって、御本仏と等しい境界にまで達することもできるとの、甚深の御文と拝することができるのであります。誠に誠に、もったいない限りであります。
 金剛不壊、清浄にして無垢なる久遠名字の如来の生命が、まぎれもなく現在一瞬の我が生命に豁然とよみがえってくる――私は、感涙抑えがたしの思いを、いやまして深くするのであります。
 その大哲理を奉じた私どもであります。どうか、一段と勇猛精進の努力を奮い起こして、日々、苦難の社会との戦いを勝ち抜いていってくださるようお願いし、講義を終わらせていただきます。

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