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日蓮大聖人・池田大作

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「御義口伝」  

講義「諸法実相抄」「生死一大事血脈抄」(池田大作全集第24巻)

前後
2  この一節から、私どもは、信心の、そして人生の根本目的である成仏を目指す究極の姿勢を知ることができます。特に強く銘記したいことは、法戦のないところには、成仏は断じてありえないとの、日蓮大聖人の明確な御教示なのであります。
 すなわち「貪愛・無明」という生命の魔性から自身の内外に競い起こる様々な障魔に、敢然と立ちかい、戦い抜いてこそ「教主釈尊の如く仏身を感得」できる、成仏できる、との御本仏の仰せを胸に刻みたいのであります。
 さて、まずこの一節において、日蓮大聖人は、提婆達多を師として父の殺害、破仏法という悪逆の限りを尽くした阿闍世王をさして「今日蓮等の類いは阿闍世王なり」と仰せられています。ここには甚深の意味があります。
 歴史上の阿闍世王は、釈尊在世から滅後にかけての中インド・マカダ国の王で、のちに名医・耆婆の諌めもあって改心、仏法久住のために余生を捧げたことはよく知られております。しかし、ここで展開されているところの阿闍世王とは、歴史上の一人物というより、万人に通ずる阿闍世王としての生命の活動を指しております。
 阿闍世王とは梵語の音写で、未生怨と訳されております。すなわち「生まれる以前にすでに怨みを持つ」という意味ですが、このが”怨む”という生命の一断面は、誰もが持っております。
 ソクラテスの言葉に「最も深き欲望より、しばしば最も恐ろしき憎悪は起こる」とあります。
 我々の立場でこの言葉を読めば、欲望とは貪愛、無明であり、憎悪とは未生怨そのものでありましょう。この、恐ろしいまでに深く人間を蝕む生命の傾向性に、仏法哲理の光を鋭く照射し、どう克服し、人間革命し、成仏を目指すべきかを明かされたのが、この一節であります。
3  この上の文には「日本国の一切衆生は阿闍世王なり」とあります。
 この御文は、七百年の歳月を越えて、そのまま病める現代社会の根本原因を照らしだす明鏡とも拝することができます。
 殺人、暴力等の横行している現代の世相の荒廃をみる時、人々の生命の奥に潜む”怨”という魔性の根の深さを思わざるをえません。私どもも、もしこの大仏法を知らず、真実の和合僧に縁することができなかったならば、必ずやこの”怨”の生命に支配され、社会の揺れ動くままに、無明の淵をさまよっていたでありましょう。
 私どもが日々、汗を流し続けている折伏弘教は、この濁世の根本原因を撃ち、そこに歓喜踊躍の深い傾向性の流れをつくっていく尊い作業なのであります。ゆえに、様々な非難中傷の嵐が吹き荒れることは、当然の帰結なのであります。
 ところで大聖人は、ここで「日蓮等の類いは阿闍世王なり」と、全く正反対の阿閣世王を示されているのであります。これまさしく妙法によって蘇生した真実の阿闍世王なのであります。
 なぜならば、その時、南無妙法蓮華経の光明に照らしだされた未生怨の生命は、貧愛、無明を冥伏させる力となって、発揮されるからであります。すなわち、この内なる生命悪を断破する阿闍世王の生命は、不正を憎み、生存の権利を脅かすものと対決しつつ、民衆を厳護する果敢な闘志として昇華されるのであります。
 「南無妙法蓮華経の剣を取つて貪愛とんあい無明むみょうの父母を害して教主釈尊の如く仏身を感得するなり」と説かれているように、貪愛、無明という人間生命に巣くう根源悪を、南無妙法蓮華経という至高の生命をもって打ち破っていく――それこそ妙法の阿闍世王の姿勢であり、成仏への方途なのであります。
4  妙法はどこまでも「蘇生の義」
 ここで、「殺す」あるいは「害する」――総じて殺害ということについて、ひとこと申し上げておきたい。
 仏法とは、いかなる意味でも人を殺すものではなく、本源的に人を救い、生かすものであります。その点が、西洋中世に猛威をふるった”魔女狩り”等とは、根本的に異なるところであります。
 「釈迦の以前仏教は其の罪を斬ると雖も能忍の以後経説は則ち其の施を止む」と仰せのように、特に大乗仏教にあっては「殺す」ということは、厳しく戒められているのであります。
 ではいったい、何を殺すのか。御本尊への絶対の信という利剣をもって、我が生命に巣くう貪愛、無明の心を殺すのであります。
 真実の宗教は、史上、幾多繰り返された血なまぐさい宗教戦争に民衆をかりたてたりするものであってはならない。また、人々を自殺に追い込む哀音の宗教であってもならない。人々に、生きて生きて生き抜く力をわきたたせずにはおかないものであります。
 大聖人の仏法は、縁するすべての人々の生命を、貪愛、無明のや闇から、元初の太陽の赫々たる陽光に浴せしめるのであります。妙法が、一切を生かし、よみがえらせていく「蘇生の義」とされるゆえんもことにあることを、知っていただきたいのであります。
 更に「教主釈尊の如く仏身を感得するなり」とは、信心に徹することによって、教主釈尊、すなわち久遠元初の自受用身即日蓮大聖人の御命を、総じては、そのまま我が身に涌現できるとの仰せなのであります。「教主釈尊の如く」とは、教主釈尊のようにと、一往、拝することができます。
 しかし、「如は不異に名く」との御金言にみられるように、「如く」とは「異ならない」「等しく」と、より深く拝していくことが可能でありましょう。
 実に凡愚下賎の私どもであっても、唱題に励み、弘教に励むことによって、御本仏と等しい境界にまで達することもできるとの、甚深の御文と拝することができるのであります。誠に誠に、もったいない限りであります。
 金剛不壊、清浄にして無垢なる久遠名字の如来の生命が、まぎれもなく現在一瞬の我が生命に豁然とよみがえってくる――私は、感涙抑えがたしの思いを、いやまして深くするのであります。
 その大哲理を奉じた私どもであります。どうか、一段と勇猛精進の努力を奮い起こして、日々、苦難の社会との戦いを勝ち抜いていってくださるようお願いし、講義を終わらせていただきます。

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