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日蓮大聖人・池田大作

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「生死一大事血脈抄」講義  

講義「諸法実相抄」「生死一大事血脈抄」(池田大作全集第24巻)

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68  「生死一大事血脈抄」を著された文永九年二月十一日という日について申し上げておきたい。この日は、奇しくも、日蓮大聖人が「立正安国論」において、また前年の九月十二日の竜の口法難の際にも、幕府に対して厳しく予言し警告されていた「自界叛逆難」、すなわち内乱が勃発した日であります。
 「今年二月十一日十七日又合戦あり外道・悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必ず仏法を破るべし師子身中の虫の師子を食等云云、大果報の人をば他の敵やぶりがたし親しみより破るべし、薬師経に云く「自界叛逆難」と是なり、仁王経に云く「聖人去る時七難必ず起らん」云云、金光明経に云く「三十三天各瞋恨しんこんを生ずるは其の国王悪を縦にし治せざるに由る」等云云、日蓮は聖人にあらざれども法華経を説の如く受持すれば聖人の如し又世間の作法兼て知るによて注し置くこと是違う可らず現世に云をく言の違はざらんをもて後生の疑をなすべからず、日蓮は此関東の御一門の棟梁とうりょうなり・日月なり・亀鏡なり・眼目なり・日蓮捨て去る時・七難必ず起るべしと去年九月十二日御勘気を蒙りし時大音声を放てよばはりし事これなるべしわずかに六十日乃至百五十日に此事起るか」と、事件直後の三月二十日に「佐渡御書」の中で仰せのように、大聖人の予言が的中したのであります。
 当時、京都の六波羅南探題だった時宗の庶兄・時輔が、弟の時宗を倒して執権の地位を奪おうとの陰謀をたくらんだことが発覚し、その一味とされた教時、盛直らを、時宗が先手をうって討滅したものであります。同族あい食む死闘が展開されたが、やがて時輔の一族が全滅して、戦いは終わった。これが「二月騒動」です。
 大聖人は、この内乱の勃発が間近いことを、すでに一カ月ほど前の一月十六日に、塚原問答の終了後、本間六郎左衛門尉に対して指摘し、警告されているのであります。
 したがって、大聖人は本抄を執筆されている時、騒然たる内乱に日本中が動揺していることを実感しておられたにちがいないと拝察されます。そのなかで悠然と永劫の未来を眺望しつつ、令法久住の血脈を残そうとされたのであります。
 また「桑門」とは、沙門のことであり、静志、貧道、勤息などとも訳します。善法を修して悪法を破すという意味で、出家して仏道を修行する者を言う。
 大聖人は、文永十年四月の「観心本尊抄」では「本朝沙門日蓮撰」とされており、また、同じ文永十年閏五月の「顕仏未来記」でも「桑門日蓮之を記す」としたためられております。
 「桑門」とは「扶桑沙門」の意味で、すなわち「本朝沙門」と同意で用いられているとも考えることができます。
 本尊抄で「本朝沙門」とされたのは、天台沙門に対する言葉であり、実は大聖人の強い御確信のうえからの表現であります。
 つまり本朝、すなわち日本国こそ、末法万年の民衆を救済される御本仏出現の地であることを示しており、末法における最高の善法を修し、悪法を破される日蓮大聖人こそ、まさにその御本仏であることを明かされているともいえます。
 以上、「生死一大事血脈抄」をとおして、私の感ずるままを述べてまいりました。
 最後に、我が同志よ、我が久遠の友よ、広宣流布の道を進んでいく私達の実践こそ、そのまま総じての生死一大事血脈なりとの、強く深い確信を持続して、新世紀を目指し凛々しく我が道をスクラム組んでいこうと申し上げ、講義を終えさせていただきます。

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