Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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題目を流布し御本尊を建立  

講義「諸法実相抄」「生死一大事血脈抄」(池田大作全集第24巻)

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47  冒頭の部分については、講義の最初に触れておきました。最蓮房に対しては、「生死一大事血脈抄」「草木成仏口決」「祈祷抄」等、ずいぶん重要な法門をしたため、与えられております。なかでもこの「諸法実相抄」は、最も肝要な法門をしたためた、と仰せです。そして、こうしてみると、あなたもずいぶん不思議な人であると仰せです。末法御本仏である日蓮大聖人の身に当たっての法門、御本仏の御境界、実践をそのまましたためた御書をいただいている。きっと、地涌の菩薩の一員として、末法広宣流布に重要な使命を担っている人であろう、ということです。
 「日蓮もしや六万恒沙の地涌の菩薩の眷属にもやあるらん」とは、御謙遜のお言葉です。この背後には、外用は「一名上行乃至唱導之師」であり、本地は久遠元初の自受用身如来であり、末法の御本仏であるとの御確信が込められております。
 「南無妙法蓮華経と唱へて日本国の男女を・みちびかんとおもへばなり」――日本国と仰せでありますが、意は一閻浮提であり、未来永遠の衆生です。末法において南無妙法蓮華経によって、一切衆生を救わんとされた方は、日蓮大聖人しかおられない。ゆえに、大聖人が地涌の棟梁であり、末法の御本仏であられる。
 「まことに宿縁のをふところ予が弟子となり給う」――重ねて宿縁の不思議を述べて、使命の自覚を促されております。
 最蓮房に与えられた他の御書に、次のような一節があります。「只今の御文に自今以後は日比の邪師を捨てひとえに正師と憑むとの仰せは不審に覚へ候」――すなわち、最蓮房が日蓮大聖人にお手紙を差し上げて「これから以後は、これまでの邪師を捨てて、ただひたすら日蓮大聖人を正師とたのんで、仏道修行に励んでいきます」と誓いの言葉を述べたのです。これに対して大聖人は「不審に覚へ候」――あなたは、不思議なことを言いますね、と言われている。
 なぜ、このように言うのかということについて、続いて述べられているのですが、要約すれば「あなたとは、もともと師弟だったではないか。いま初めての契りではない。偶然の巡りあいではない」と述べられているのです。
 実は、この「不審に覚へ候」ということに、重大な仏法上の意味があります。最蓮房の表現は、表面的、常識的に考えれば、当然すぎるほど当然なのです。しかし、大聖人は三世にわたる仏法の達観のうえから、深く掘り下げられて、仏法の師弟を論じられたのです。
 私どもの立場において言えば、今世においてたまたま大聖人の仏法に巡りあえたと思うべきではないのです。もともと日蓮大聖人との師弟の絆によって結ばれた私達なのです。私達仏法兄弟もまた久遠よりの同志であり、兄弟でありました。それが、様々な姿、形をとりながら、この世に再び集いきたって、日蓮大聖人の末弟として広宣流布へと使命の道を歩んでいるのです。
 更に言えば、久遠は今にあり、今は久遠であります。ゆえに、現在に久遠の契りを結ぶ我らは、永遠に仏法兄弟の道を歩んでいくことを自覚したい。先の御文にも「三世各別あるべからず」とありましたごとく、現在の姿は久遠を映しだし、未来の私どもの姿を生命の鏡に浮かばせていることを確信します。
 ゆえに、ともどもに尊敬しあい、学びあい、励ましあい、異体同心の輪を広げていこうではありませんか。
 したがって、皆さん方も「まことに宿縁のをふところ」信心できたのです。それだけの力があり、それだけの責住があります。「この世で果たさん使命あり」です。
 「此の文あひかまへて秘し給へ、日蓮が己証の法門等かきつけて候ぞ、とどめ畢んぬ」――「秘し給へ」とは、一つには、当時の人々には大聖人の仏法の真髄が分からない、いたずらに不審を起こさせてはならないとの御配慮です。またしっかりと生命に刻み、とどめなさい、ということであります。
 「己証の法門」――大聖人の己心に悟った法門を書きつけた重書であることを、最後に述べられて、本抄を終わられております。
   (昭和五十二年一月「聖教新聞」掲載)

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