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日蓮大聖人・池田大作

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題目を流布し御本尊を建立  

講義「諸法実相抄」「生死一大事血脈抄」(池田大作全集第24巻)

前後
2  末法流布の三大秘法の題目を、ほぼ弘め、同じく三大秘法の御本尊を建立したことを述べられております。それは、法華経の文の上から言えば、本化地涌の菩薩の上首上行菩薩がなされるべきことですが、凡夫僧である日蓮大聖人は、御自身がその上行の再誕であるという表現は避けて、その先駆けとして「先立て粗ひろめ」また「先作り顕はし奉る」と言われたのであります。
 この御文は、前に、天台、妙楽、伝教等は本化地涌でなかったために、題目を流布し御本尊を顕すことができなかったと述べられた文と比べ合わせてみれば、その元意は明瞭であります。
 大聖人が、いま現実に題目を流布し、御本尊を顕されているということは「先(まず)」「先立て」等と断られているにしても、資格なくしてできることではない。したがって、大聖人は、法華経との関連でいえば、本化地涌の菩薩の上首上行の再誕であり、いま末法という時に出現して、この大法を建立されているのであります。
 しかしながら、上行再誕というだけでは、日蓮大聖人の本地を明らかにしたことにはならない。今この文に「本門寿量品の古仏たる釈迦仏・迹門宝塔品の時・涌出し給ふ多宝仏」うんぬんとある御本尊の御図顕の持つ意味を知らなくてはなりません。
 釈迦、多宝、更に、久遠元初の無作三身如来である南無妙法蓮華経という”仏”の生命をあらわすためには、御自身の内に、その”仏”の生命がなくてはならない。
 事実、日蓮大聖人御自身「日蓮がたましひすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ」と仰せられているのであります。人法一箇の御本仏であるがゆえに、人法体一の御本尊を御図顕されたのであります。
 そこに、大聖人の「内証――内なる覚り」がある。「日蓮をこそ・にくむとも内証には・いかが及ばん」とは、日本国の上下万人が、どのように大聖人を憎み、迫害を加えようとも、末法御本仏としての、この御境界は、微動だにさせられるものではないということなのであります。
3  仏の智慧でも量れないほどの功徳
 さればかかる日蓮を此の嶋まで遠流しける罪・無量劫にもきへぬべしとも覚へず、譬喩品ひゆほんに云く「若し其の罪を説かば劫を窮むるも尽きず」とは是なり、又日蓮を供養し又日蓮が弟子檀那となり給う事、其の功徳をば仏の智慧にても・はかり尽し給うべからず、経に云く「仏の智慧を以て籌量ちゅうりょうするも多少其の辺を得ず」と云へり
 したがって、このような日蓮を、この佐渡が島まで遠流した罪は、無量劫という長い年月をかけても消滅させることはできない。そのことを譬喩品には「法華経の行者を憎む者の罪は、劫のあらん限り説いても説き尽くすことはできない」とある。また逆に、日蓮を供養し、また日蓮が弟子となり檀那となる功徳というものは、仏の智慧をもってしでも計り尽くすことはできない。その功徳を説いて薬王品には「仏の智慧で計ってみても、その功徳の多少を量り尽くすわけにはいかない」とある。
4  日蓮大聖人を憎み、迫害する罪の大きさと、大聖人を供養し、その弟子檀那となる者の功徳の大きさを示されているわけでありますが、このことは、とりもなおさず、久遠元初の仏であり、末法御本仏であるとの内証を示されているのであります。譬喩品の文は「斯の経を謗ぜん者、若し其の罪を説かんに、劫を窮むとも尽きじ」(妙法蓮華経並開結二四六㌻)とある文であります。
 また、功徳の依文とされているほうは、薬王品の「若し人、此の法華経を聞くkおとを得て、若しは自らも書き、若しは人をして書かしめん。所得の功徳、仏の智慧を以って多少を籌量すとも、其の辺を得じ」(妙法蓮華経並開結六〇三㌻)との文であります。
5  弘教の人は仏の使いとして仏の事を行ず
 地涌の菩薩のさきがけ日蓮一人なり、地涌の菩薩の数にもや入りなまし、若し日蓮地涌の菩薩の数に入らばに日蓮が弟子檀那・地涌の流類に非ずや、経に云く「能く竊かに一人の為めに法華経の乃至一句を説かば当に知るべし是の人は則ち如来の使・如来の所遣として如来の事を行ずるなり」と、に別人の事を説き給うならんや
 さて、本化地涌の菩薩の先駆けとして出現したのは、日蓮ただ一人である。あるいは、地涌の菩薩の中に入っているかもしれない。もし日蓮が地涌の菩薩の数の中に入っているならば、日蓮が弟子檀那も、本化地涌の流類でないわけがあろうか。法師品には「能くひそかに一人のためにでも、法華経のそしてまたその一句だけでも説くならば、まさにこの人は如来の使いであり、如来から遣わされて如来の振る舞いを行ずるものと知るべきである」と説いている。この経文は、決して日蓮やその弟子門下以外の人を説き示しているのではない。
6  地涌の菩薩の先駆けとして出現したのは、日蓮大聖人ただ一人である。あるいは地涌の菩薩の中に入っているかもしれない、もし大聖人が地涌の菩薩の数に入っているならば、師弟不二の原理からいって、大聖人の弟子檀那も、地涌の流類すなわち眷属でないわけがない、と仰せくださっているのであります。
 地涌の菩薩とは、人から言われて動くものではない。宇宙本然の妙法に生ききるがゆえに、大地から草木が本然的に生長していくように、自ら題目をあげ、社会のために、平和のために貢献していく生命なのであります。
 そして、大聖人の弟子が地涌の菩薩であるとの証拠として挙げられているのは、法師品の文であります。
 多少、前後を補って申し上げれば「若し是の善男子、善女人、我が滅度の後、能く竊かに一人の為にも、法華経の、乃至一句を説かん。当に知るべし。是の人は則ち如来の使なり。如来の所遣として如来の事を行ずるなり。何に況んや、大衆の中に於いて、広く人の為に説かんをや」(妙法蓮華経並開結三八六㌻)との文であります。
 すでに申し上げたように、法師品は、仏滅後の弘通を勧めて説かれたものであります。この文は、まさにこれを勧めて述べた言葉なのであります。そして、この釈尊の言葉にこたえて迹化の菩薩達が名乗り出たけれども結局、制止され、地涌の菩薩が、これにこたえる資格、力ありとして付嘱を受けたわけであります。
 したがって、末法今時、この法師品の文のごとく、妙法を説き、広宣流布に戦っている人は、地涌の菩薩の眷属である、また、そうでなければならないことになります。「日蓮が弟子檀那は、そのとおり実践しているではないか」――こう仰せられているのであります。
7  更に一歩掘り下げて「如来の使・如来の所遣として如来の事を行ず」ということが、すでに総じて仏と同格であり、無作三身の仏であることの証文であります。
 そのことを明らかにするために、”使い”ということについて一言しておきたい。
 一般的にいっても”使い”とは、使いを出した人の意思を代弁し、同じ資格において振る舞うという意義を持っております。
 例えば国と国とが平和条約を結ぶ場合、お互いに使いを出します。双方の合意によって条約文ができあがると、署名が行われる。そこに記されるのは使いの人の個人名であっても、それは一国の国民の総意を含んでいるのであります。
 仏法においても、同じであります。妙法を説き弘通していく人は、仏の使いであり、仏と同じ資格において行動していることになる。ゆえに、法華経では、仏の久遠の弟子にのみ妙法弘通の使命を託したのであります。
 このことは、逆に言うならば、末法今時に妙法を弘めている人、すなわち折伏している人は、仏の久遠の弟子である、ということになります。
 なお「能く竊かに一人の為めに」が、こっそりと説くことをすすめたという意味ではなく、たとえそのような弘め方であっても、ということであり、望ましい、より偉大な実践の姿が、堂々と説いていくことにあることは、法師品のこの経文の次の文からも明らかであります。
 時代により、また環境によって、公に実践し、弘教することができない場合もあります。しかし、常に折伏弘教の精神を忘れず、随力弘通していく人こそ、真の地涌の菩薩の流類であり、御本仏日蓮大聖人の本眷属であることを、強く確信していっていただきたいのであります。
8  ”覚悟の人”を諸天も賛嘆
 されば余りに人の我をほむる時は如何様にもなりたき意の出来し候なり、是ほむる処の言よりをこり候ぞかし、末法に生れて法華経を弘めん行者は、三類の敵人有つて流罪死罪に及ばん、然れどもたえて弘めん者をば衣を以て釈迦仏をほひ給うべきぞ、諸天は供養をいたすべきぞ・かたにかけせなかふべきぞ・大善根の者にてあるぞ・一切衆生のためには大導師にてあるべしと・釈迦仏多宝仏・十方の諸仏・菩薩・天神・七代・地神五代の神神・鬼子母神・十羅刹女・四大天王・梵天・帝釈・閻魔法王・水神・風神・山神・海神・大日如来・普賢・文殊・日月等の諸尊たちにほめられ奉る間、無量の大難をも堪忍して候なり、ほめられぬれば我が身の損ずるをも・かへりみず、そしられぬる時は又我が身のやぶるるをも・しらず、ふるまふ事は凡夫のことはざなり
 ところで、人というのは、余りに人からほめられると、どのような困難にでも耐えていこうとする心を発すものである。これはほめられる言葉によるのである。「末法の世に生まれて、法華経を弘める行者には、俗衆増上慢、道門増上慢、僣聖増上慢という三類の敵人があって、迫害、弾圧が加えられ、そのために流罪、死罪にまで及ぶのである。けれども、これらの大難に耐え、乗り越えて法華経の弘通にあたる者には、釈迦仏は慈悲の衣をもって覆い、諸天は供養をし、あるいは肩ににない、背に負うて守る。また大善根の者である、一切衆生のためには大導師である」と、釈迦仏、多宝仏、十方の諸仏、菩薩、天神七代、地神五代の神々、鬼子母神、十羅刹女、四大天王、党天、帝釈、閻魔法王、水神、風神、山神、海神、大日如来、普賢菩薩、文殊師利菩薩、大日天、大月天等の諸尊達にほめられるものだから、日蓮も無量の大難をも耐え忍んできたのである。ほめられれば、我が身がそこなわれるのもかえりみず、また、そしられれば、我が身が破滅するのも気づかずに振る舞うのが凡夫の常である。
9  日蓮大聖人が凡夫のお立場で、流罪、死罪等の大難に遭いながら、それをものともせず今日まで弘教に励んでこられたのは、なぜであったかを述べられたところであります。
 それは、一言で言えば、法華経で、釈迦、多宝以下、仏、菩薩、諸天らが、最大限の言葉で、末法に法華経を弘める者を賛嘆してくれているからであるというのであります。別な言い方をすれば、一切法華経に身を任せたということであります。
 釈迦、多宝以下がほめた言葉とは「末法に生れて法華経を弘めん行者は……」から「……一切衆生のためには大導師にであるべし」までです。カッコをつけて持読していただければ、分かりやすいと思います。
 この言葉の中で「衣を以て釈迦仏をほひ給うべきぞ」とは、真の仏弟子としての資格を与え、更に言えば、仏の子として大慈悲をもって包容してくださるということであります。
 諸天が供養し、肩にかけ、背中に負ってくれるとは、周囲の条件についてあらわれてくる変化の功徳であります。
 「大善根」とは福徳を積むことであり、「一切衆生のためには大導師にであるべし」とは、智慧が豊かになる、社会の中にあって、真実の民衆の指導者、智慧者になっていくであろうということであります。
 これは、折伏の功徳を仰せられた御文と拝すべきであります。
10  このあと「釈迦仏多宝仏・十方の諸仏・菩薩・天神・七代・地神五代の神神・鬼子母神・十羅刹女・四大天王・梵天・帝釈・閻魔法王・水神・風神・山神・海神・大日如来・普賢・文殊・日月等の諸尊たち」がほめる、とあります。これについて、少々申し上げたい。
 まず、一言にして言えば、妙法を持つ人にとっては、宇宙であれ、自然であれ、人であれ、すべてその人を守り働く運行、リズムになるということであります。
 「釈迦仏多宝仏・十方の諸仏」のおほめがあるとは、全宇宙の仏界、諸仏が法華経の行者を守るということであります。誠に頼もしい限りであります。その人の行くところ、すべて妙法のリズムにかなった人間革命の世界が開かれていくのであります。またすべての人々が、その人の仏界の生命に感応して心の底から味方となり、呼吸を合わせて、見事なハーモニーを奏でていくことができるということでもあります。
 なかでも「釈迦仏」とは、自身の生命に仏智が涌現することを意味しております。また「多宝仏」とは客観世界で、その人の生活、環境に、福徳に満ちみちた実証が示されていく姿をあらわしております。「十方の諸仏」とは、周りの一切の人々の仏界をあらわしております。
 また「菩薩」とは、自然、社会を含めた慈悲の働きがあらわれて、その人を守るということです。その人自身の生命にそなわった、人々を救い楽しませていく菩薩界の一切の力があらわれることはもちろんのこと、慈悲を根底とする社会的指導者達も、賛同をし、その人のもとに喜んで仕えていくということであります。
11  一切の生命活動が支え、守り、働く
 「天神七代」とは、国常立尊くにのとこたちのみこと国狭槌尊くにのさつちのみこと豊斟淳尊とよくむぬのみこと独化神どっけじん三代と、夫婦一組で一代である泥土煮尊うひじにのみこと沙土煮尊すいじにのみこと大戸之道尊おおとのじのみこと大苫辺尊おおとまべのみこと面足尊おもだるのみこと惶根尊かしこねのみこと伊弉諾尊いざなぎのみこと伊弉冊尊いざなみのみこと偶生神ぐうしょうじん四代です。
 「地神五代」とは、天照大神あまてらすおおみかみ天忍穂耳尊あまのおしほみみのみこと瓊瓊杵尊ににぎのみこと彦火火出見尊ほこほほでみのみこと鸕鷀草葺不合尊うがやふきあえずのみこと五柱いつはしらの神です。これらは人王の以前の神々とされていますが、それら天地の神々も、すべてが諸天善神として働くとの仰せです。
 「天も知る、地も知る、人も知る」という、古の言葉にも通ずる内容であります。
12  「鬼子母神・十羅刹女」は有名であり、説明の必要もないでしょうが、法華経以前は悪鬼であったものが、法華経では善鬼として連なっています。善の生命を食う働きが、悪の生命を食って善を助ける働きへと転じているのであります。したがって、妙法を持った人々にとっては、不幸を滅する働きとしてあらわれてくる。
 「四大天王・梵天・帝釈・閻魔法王」等はすべて、宇宙、自然、社会の秩序を守る働きに名づけられたものです。社会で言えば、いわゆる世間の指導者、ないしはその人達の持っている力をさしています。
 「水神・風神・山神・海神」等は、自然の恵み、働きです。水にも、風にもそれぞれの独自の使命と力があります。山には山の生命があり、海には海の生命があります。そして、それらもすべて、妙法の生命活動としてのあらわれであります。したがって、それらもすべて、妙法を行ずる人を守る方向へ、守る方向へと動いていく。風強く、波高き日々であっても、妙法を持った人が厳然と守られていくことは、数々の体験が証明するところであります。
 また「大日如来」とは、法華経に座した大日如来であり、言わば生命力の一分の表現でありましょう。「普賢」は学理、「文殊」は智慧をあらわしております。学理と智慧の光にも包まれていくのです。「日月」は日天、月天であり、太陽の生命力、月の働きであります。日天は、万物を生長させ、人々に燃える生命力を与えます。月天は、万物の安らぎの象徴であり、人々に安定と静かな光を投げかけます。
 このようにして、一切の生命活動、森羅万象が、妙法を持つ人を支え、守り、包容し、また手足となって働いていくとの仰せであります。
13  なお「無量の大難をも堪忍して候なり」とありますが、「堪忍」とは堪え忍ぶことです。裟婆世界にあって何かをなそうとすれば、堪え忍ばなければならない。それほど大変な世界でもあります。
 したがって、同じく堪え忍ぶのであれば、妙法流布のための堪忍であっていただきたい。一時はそれこそ大変な、生命がけのときもあるかもしれない。しかし、妙法の堪忍であれば、必ず諸仏、諸天の加護があらわれるのは絶対に間違いないというのが、御本仏日蓮大聖人の悟りの御説法なのであります。
 また「ほめられぬれば我が身の損ずるをも・かへりみず、そしられぬる時は又我が身のやぶるるをも・しらず、ふるまふ事は凡夫のことはざなり」との御文は、日蓮大聖人の御一身に当てはめて述べておられますが、凡夫というものの人情の機徴を、実に鋭くとらえられております。
 ほめられでも、そしられでも、我が身を傷つけ、痛めていくのは、凡夫の習いであるようであります。ほめられて一生懸命になるのは「我が身の損ずるをも・かへりみず」のほうであります。これは、骨身を惜しまない気持ちになるということです。「我が身のやぶるるをも・しらず」というほうが、愚かのゆえに、そしられて自らを破滅にいたらしめるということであります。
 これを敷衍して言えば、誤解があってはなりませんが、私どもの広宣流布という戦いにあっても、人を賛嘆し、その努力、功績を心から称えていくことが、より以上の勇気と自信をもって前進していくために、大事な点であるということも言えるでありましょう。
14  貫こう「日蓮が一門」の生涯
 いかにも今度・信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給うべし
 どのような困難に遭遇することがあっても、今度こそ、強盛な信心を貫いて、生涯を法華経の行者として生き抜き、日蓮が一門となり通す覚悟を決めなさい。
15  この段から以下は、弟子の信仰の在り方、末法の広宣流布への方軌と実践方法を説かれています。まずここは「法華経の行者」「日蓮が一門」となりとおしなさい、と根本的な決意をうながされているのです。あまりにも有名な御文であります。成仏の要諦も、日蓮正宗創価学会の根本精神も、この一文の中にあるといっても過言ではありません。
 「いかにも今度・信心をいたして」とは、何としても、この一生涯、信心を貫きなさいということです。この「いかにも」という表現に、大聖人は万感の思いを託されているように思います。というのは、私どもは、無始以来、生死流転の回数もまた数えきれないほどであります。元品の無明に覆われた生死の流転は、闇中の遠征のごときものであります。
 今「妙法」に巡りあい、久遠の御本仏にお会いできたということは、これまでの闇に包まれた生死流転を転換し、燦たる妙法の太陽の光明に照らされた、晴れ渡った常寂光の空のもと、美しい花の咲き乱れる楽園を常楽我浄と遊戯しゆく”本有の生死”へと開く希有の機会なのであります。
 ゆえに「いかにも今度」と言われ、たとえ何があっても、どんな事態に遭遇しても、この一生を信心しぬいていくことを強調せられているのです。どうか「いかにも今度」という一句を、深く胸に収めていただきたい。
16  「法華経の行者にてとをり」とは、”法”を中心にした立場であり、「日蓮が一門となりとをし給うべし」は、”人”を中心にした立場で仰せられております。別して「法華経の行者」とは、日蓮大聖人お一人であり、大聖人の御一身のために法華経は説かれたといって過言ではないのです。そして、大聖人お一人が法華経の一切を身に読みきられて、正像二千年の釈尊の仏法に区切りをつけ、末法万年の闇を晴らす御本仏として御出現になったのであります。
 この御本仏日蓮大聖人の魂塊をとどめられた御本尊を受持しきることが、私どもにとって総じての「法華経の行者」としての実践を貫くことになるのです。しかし、その根底は、あくまで「日蓮が一門」という自覚でなくてはならない。そうでなければ、真実の「法華経の行者」でもない。
 「日蓮が一門」の自覚に立つということは、具体的な私どもの実践に約して申し上げれば、我が同志の、広宣流布への異体同心の世界に生ききることであります。なぜかならば、日蓮正宗創価学会は、御本仏日蓮大聖人の生命である御本尊を根本にした、広布実践の団体であるからであります。日ましに種々の障魔の厳しき現象をみても、御書のとおりなのであります。
 ゆえに「日蓮が一門となりとをす」とは、日蓮正宗創価学会と運命をともにしていくことに通じていくのです。
 しかも、この「日蓮が一門」という根本が欠けては、たとえ御本尊を護持しても何にもならないのです。「生死一大事血脈抄」という重大な書にも「信心の血脈無くんば法華経を持つとも無益なり」と仰せのとおりであります。信心は即実践であります。ゆえに、行躰即信心とも述べられている。また、この「日蓮が一門となりとをす」の「なりとをす」ということが大事です。実はこれ自体が、即、成仏に通ずるからであります。
 成仏というと、何か特別な理想人格になるように思われがちですが、それは色相荘厳の釈尊の仏法の範疇です。日蓮大聖人は、凡夫即御本仏であられるから、この仏法は偉大なのです。
 そこに仏法の真実がある。ありのままの人間性の中に、偉大な光を放つ仏法であるがゆえに、私どももそれに連なっていくことができるのです。
 私達にとって成仏とは、この世で最も尊い御本尊を受持し人生を全うしきることが、即、仏の生命とあらわれるということです。更に言えば、何があっても「日蓮が一門となりとをす」と決めた人生そのものが、すでに仏界に住した生き方であります。
17  大聖人と同じ精神で折伏弘教
 日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや、経に云く「我久遠より来かた是等の衆を教化す」とは是なり、末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり
 日蓮と同意であるならば、本化地涌の一分であろう。地涌の菩薩と定まったならば、釈尊の久遠の弟子であることは疑いの余地はない。なぜかならば、涌出品に、「私は久遠の昔から、これらの人達を教化してきた」と説いているからである。末法の世において、妙法蓮華経の五字を弘める人は、男であろうと女であろうと差別すべきではない。皆、地涌の菩薩の出現でなければ唱えられない題目なのである。
18  「日蓮と同意」とは、大聖人と同じ心、同じ精神ということであります。「法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし」た時、この身口意の三業によって初めて、御本仏日蓮大聖人と同意となることができるのであります。
 これは師弟不二の原理でもあります。不二とは、而二不二の義で、一往は二である。すなわち師と弟子という立場の相違は厳然としてある。だが、再往、その奥底においては、不二、すなわち全く同じであり、等しいということであります。
 この師弟不二が、仏法の師弟観の真髄なのであります。ゆえに、日蓮大聖人のお心を我が心とし、大聖人の御精神を自己の生命を賭けた使命としていく「日蓮と同意」の人こそ、真の日蓮大聖人の弟子であります。口先や形式だけの人は、やがては大聖人のお叱りをうけることでしょう。
 「上野殿御返事」には「日蓮生れし時より・いまに一日片時も・こころやすき事はなし、此の法華経の題目を弘めんと思うばかりなり」と述べられております。「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」とは、この大聖人と同じく、広宣流布の使命に立ち、責任を持っていく人こそ、地涌の菩薩であるという御文であります。そして、もし地涌の菩薩であることが決定的であるなら「釈尊久遠の弟子」であるととも、また疑う余地はない。なぜかならば、法華経涌出品に、地涌の菩薩が出現した時、驚いた弥勒菩薩の質問に答えて「我久遠より来かた是等の衆を教化す」、すなわち久遠の昔から教化してきた弟子であると述べられているからであります。
19  この「釈尊久遠の弟子」の「釈尊」とは、一往は法華経本門の教主釈尊でありますが、再往の辺を拝すれば、久遠元初の自受用報身如来であり、末法御本仏日蓮大聖人であります。日蓮大聖人は、久遠よりこのかた、地涌の菩薩を教化してこられたという意味です。
 以上のことを結論づければ、日蓮大聖人と同意ならば、地涌の菩薩であることは決定的であり、それはそのまま日蓮大聖人の本眷属なのであります。この御文を、現実社会において読まれた方が、初代会長牧口先生であり、二代会長戸田先生であった。戸田先生は、獄中において、自ら地涌の菩薩の眷属であり、御本仏日蓮大聖人の本眷属であるとの自覚に立たれたのです。
 私達は、この戸田先生という偉大な人格をとおして日蓮大聖人の仏法を知り、広布の道を進むことができるようになったのです。この妙法広布に生きる人がいかに尊いかは、あまりにも明瞭であります。またそうした人々に対して、いかばかりか御本仏の御称賛があることでしょうか。
 さて、この「釈尊久遠の弟子」ということを生命論のうえから言えば、「釈尊」とは我が生命の内なる釈尊であり、南無妙法蓮華経如来であります。地涌の菩薩が、釈尊の久遠の弟子であるということは、上行、無辺行、浄行、安立行等の地涌の生命が、奥底の南無妙法蓮華経如来という本源に根ざした働きであることをあらわしているのであります。
20  男女平等に地涌の菩薩の眷属
 「末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり」
 この末法の世に妙法蓮華経――三大秘法の南無妙法蓮華経を弘める人が地涌の菩薩の眷属である、との仰せです。したがって、いかなる立場の人であれ、どのような境遇の人であれ、自らの使命のままに仏法弘通に挺身する人は、みな平等に最高の人生を歩んでいるのであります。仏法を”弘める人”こそ尊いのであります。経文には「当に起って遠く迎うべきこと、当に仏を敬うが如くすべし」(妙法蓮華経六七二㌻)とあるとおりであります。ゆえに、仏法弘通に活躍する人を睥睨したり、非難、中傷することは、最も罪が重いといわなければならない。
 「男女はきらふべからず」とは、言うまでもなく、男性であろうと女性であろうと、等しく地涌の菩薩であるということにおいて、全く差別はないとの仰せであります。
 男女の差別という問題は、社会的次元で、その役割と待遇の差別としてあらわれます。たしかに、男性にしかできないとまではいかなくても、男性に向いていて、女性向きでない仕事もありましょう。待遇は、その仕事に対して決定されるべきもので、男性だから、女性だからという理由で差をつけられるべきものではありませんが、それを前提としたうえでの個人差は、当然あってもやむをえないでありましよう。
 しかし、最も根本的な問題は、人格の尊厳にかかわる次元で差別がつけられている場合に起こってくるものであります。そこに関係してくるのが、宗教の持っている男女観であります。
21  過去の多くの宗教は、原始的諸宗教は別にして、共通して男性中心的であったと言わざるをえない。キリスト教もイスラム教も、その神は男性であると考えられる。
 仏教もまた爾前経を根本とした諸宗派は、男性が中心であった。これらに対し、日蓮大聖人は「男女はきらふべからず」と仰せられ、妙法を弘める人は、すべて等しく地涌の菩薩の眷属であると断定されているのであります。
 すなわち、宗教的使命と資格において、男女の間に全く差別はないとされることにより、人格的価値の真実の平等観を打ち立てられているのであります。ここにも、日蓮大聖人の仏法の内包する近代性と、人間の尊厳を裏づける偉大な原理があることを、どうか深く確信していっていただきたいのであります。
 「皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり」とは、いかに題目を唱えることが難しいかということであります。地涌の菩薩でなければ、題目を唱えられないのです。
 まず、人身を受けるということさえまれであります。人間についての、仏法上の一つの定義は「聖道正器」ということであります。人間であればこそ、聖道(みずからの成長を目指す四聖、究極するところ仏界、すなわち成仏への宗教)を歩んでいくことができるのであります。
 まさしく、宗教は、人間生命の核心であります。この核心を失えば、人間は溌剌たる生命の光を失い、硬直化するに違いない。
 しかし、そのなかにあって、本当に偉大な宗教に遭遇することも、なかなか困難であります。私どもは、その意味で、誠に「唱へがたき題目」を唱えていることに、感謝の気持ちが込み上げてきます。
 ともに「地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目」とは、たとえ、いかなることがあっても「但南無妙法蓮華経なるべし」の御金言のままに、題目を唱えきっていくことであります。
 更に、菩薩の本領は「誓願」ということにある。そして、地涌の菩薩の誓願とは「法華弘通」にあります。ゆえに、我々も地涌の菩薩の眷属である以上、心から周囲の人々を幸せにしきっていくという誓願の唱題が大切です。厳しく言えば、誓願なき唱題は、地涌の菩薩の唱題ではないのであります。
22  広宣流布実現への大確信
 日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや、剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし
 ゆえに、日蓮がただ一人、まず南無妙法蓮華経を唱え始め、そこから二人、三人、百人と次第に唱え伝えていったのである。このように広宣流布は、これから未来においてもまた同じ方式をもって成していくのである。この広布の方式は、涌出品において、六万恒河沙という多数の本化の菩薩が、大地から現れてきた地涌の義と全く同じである。その上に、広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱える時がくるのは大地を的とするように確実なことである。
23  妙法流布の原理を示され、広宣流布実現への大確信を述べられた、有名な御文です。
 南無妙法蓮華経は、日蓮大聖人まずお一人が唱え始められ、そこから二人、三人、百人と「唱へつたふる」ようになった。未来においても、同じ原理である、との仰せであります。
 この御文は、非常に深い意味が込められております。
 一つは、この前の「皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり」を受けて、総じては、題目を唱える人は、すべて地涌の菩薩であるけれども、その弘まっていく原理は、まず一人が立ち上がって唱え始め、そこから二人、三人、百人と広がっていく。必ずそこに総、別があるということであります。
 この別してのお一人が、言うまでもなく御在世においては、日蓮大聖人御自身であります。しかし、それは御在世のみならず「未来も文しかるべし」と仰せであります。
 次元が異なりますが、創価学会においても、初代会長牧口先生が入信し、折伏に立ち上がられたところから二人、三人、百人と「唱へつたえ」、約三千人にまでなった。
 戦後は、第二代会長戸田先生が、東京の焼け野原に立って、折伏弘教を決意し、そこから二人、三人、百人と「唱へつたえ」て、現在の盤石な大勢力にまでなったのであります。
 私どもは、この”一人立つ精神”を正しく受け継いでいくことを絶対に忘れてはならない。
 ともかく、最初の一人が肝心なのです。それが一切の淵源となって広がっていくというのは、広布の絶対の在り方と確信していただきたい。
 「新池殿御消息」にも「そもそも因果のことはりは華と果との如し、千里の野の枯れたる草に螢火の如くなる火を一つ付けぬれば須臾に一草・二草・十・百・千万草につきわたりてゆれば十町・二十町の草木・一時にやけつきぬ」とあるとおりです。
 たった一本のマッチが、大火となっていきます。その一本が重要なのです。
24  次に「唱へつたふる」ということであります。「唱へ」とは自行であり、「つたふ」とは化他であります。
 「三大秘法抄」に「末法に入て今日蓮が唱る所の題目は前代に異り自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」と仰せのように、自行と化他の両方を兼ね備えた実践でなければ、大聖人門下の正しい在り方とはいえないことを知っていただきたい。
 また「唱へつたふる」を自行、化他に分ける意義については、「御義口伝」の「涌出品一箇の大事 第一唱導之師の事」に、次のようにあるのに照応しているのであります。
 「御義口伝に云く涌出の一品はことごとく本化の菩薩の事なり、本化の菩薩の所作としては南無妙法蓮華経なり此れを唱と云うなり導とは日本国の一切衆生を霊山浄土へ引導する事なり」うんぬんと。
 「唱へ」は唱導の”唱”であり、「つたふ」は”導”に対応します。自ら唱えるとともに、これを一切の人々に伝え、導いていこうとする人こそ、地涌の菩薩といえるのであります。
 「未来も又しかるべし」――いつの時代にあっても、絶対に変わらない根本原理が、これなのであります。
 どうか、日蓮大聖人の仏法を信じ、学会精神を継承した皆さん方も、おのおのの立場で、一人立って「唱へつたふる」真実の地涌の菩薩の眷属であっていただきたい。
25  全ての世界で大切なが一人立つ実践
 ”一人立つ”とは、自分の家庭、職場、地域等、自分自身がかかわっている一切の世界で、妙法の広宣流布に全責任を持っていくことです。最も身近な、そして地味な活躍に真の仏法があり、広布があることを忘れないでください。御本仏日蓮大聖人の御使いとして、今ここに、自分はいるのだと自覚することです。
 どのような立場であれ、一人一人が自分自身だけの、他の誰とも交代することのできない人間関係を持っております。家族、職場、様々な友人関係等々、すべてについて、必ずその人独自の世界を形づくっている。それが、妙法のうえからみれば、自身の国土であり、自身の眷属であります。そこに、妙法流布の責任と資格とを持っているのは、その人一人だけであるということです。
 ゆえに、一人立つという原理が大事なのであります。そして、おのおのの世界、国土にあって、そこから立ち上がっていくのが「地涌の義」であります。
 なお、この御文は、広宣流布は必ず民衆の大地から盛り上がって成就していくことを述べられたものです。広宣流布は、決して権力によるものではない。「未来も文しかるべし」の強い御確信の金言を深く拝すべきであります。
26  「剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」
 「大地を的とする」とは、絶対に外れるわけがない、ということです。したがって、この御文は、必ず広宣流布し、日本のあらゆる人々が、日蓮大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経を唱える時がくるとの御確信であり、予言であります。
 「日本一同に」とは、あらゆる立場の、あらゆる仕事にたずさわる人々ということです。政治家も、教育者も、あらゆる職業の人々、家庭の主婦、学生も、すべての人が妙法を信受し、仏法を研鎖して、人生に価値を創造し、社会に貢献していくようになる。この姿を「日本一同に」と言われているのであります。
 ただし「日本一同に」と言われたからといって、日本だけということではありません。それは「一閻浮提に広宣流布して」と、法華経の文にも、大聖人の諸御書にも述べられていることから、明らかであります。
 しかし、強い意識を持って広宣流布のために取り組んでいく対象は「日本」であるという御教示が、特に「日本一同に」と一言われるお言葉の中に含まれているとも考えられます。その意味で、私どもとしては、日本の広布実現こそ、世界の平和と人類の幸福のために、妙法の力が利益していく源泉であると確信していくべきであります。
27  「法華経に身をまかせる」人生を
 ともかくも法華経に名をたて身をまかせ給うべし、釈迦仏多宝仏・十方の諸仏・菩薩・虚空にして二仏うなづき合い、定めさせ給いしは別の事には非ず、唯ひとへに末法の令法久住の故なり、既に多宝仏は半座を分けて釈迦如来に奉り給いし時、妙法蓮華経の旛をさし顕し、釈迦・多宝の二仏大将としてさだめ給いし事あに・いつはりなるべきや、しかしながら我等衆生を仏になさんとの御談合なり
 ともかく法華経の行者となって、名をたて身命を賭していきなさい。釈迦、多宝、十方の諸仏、菩薩が集まり、虚空会の儀式において、宝塔の中で二仏がうなずき合い、定められたことというのは、別のことではないのである。ただひとえに、末法万年のために法華経を令法久住させることであった。すでに、宝塔の中で多宝仏が、釈迦仏のために半座を分けて譲った時、妙法蓮華経のはた旛をさし顕し、釈迦、多宝の二仏が大将として、その上で定められたことに、全くいつわりのあろうはずはない。それは実に、末法の我等衆生を、この妙法蓮華経をもって仏に成そうとの御談合であったのである。
28  信心の究極の姿勢は、法華経に名を立て、身をまかせることです。
 「ともかくも」というお言葉に、一切を究められた日蓮大聖人の、無限の慈悲を感じます。この御心境は、痛いほど胸に迫ってまいります。凡夫である私どもに対し、浅智や、邪智や愚かさのために、退転していくことを強く戒められているのです。
 戸田先生が「私の悩み」と題して、次のように書かれたことがありました。
 「この私の悩みは、信心に強く立つものが少ないことである。また、初信の者が、大御本尊のご威徳を信ぜずに、退転することである。これらの者は、なんと浅はかな者であろうか。清水のごとく、こんこんとわき出る功徳の味を、味わいきれずに、死んでしまうのである。なんと、かわいそうなことではないか。私の胸のなかは、キリで、もみこまれる思いで一杯である」(「大白蓮華」巻頭言昭和三十年九月号)と。
 少々の人生の荒波に、敗北しゆくほど悲しむべきことはない。現代的に言えば、月へ行くにも軌道がある。その軌道を踏みはずしたならば、永久に帰ってこられないのです。同じく、生命にも宇宙に通ずる根本軌道というものがある。それを踏みはずせば、永劫に闇の流転となってしまう。”ともかく私の言っていることを信じて、法華経に身をまかせなさい”との御心境が、この「ともかく」のお言葉ではないでしょうか。
 「法華経に名をたてる」とは、この妙法の広宣流布に生きることを、何よりの誇りとしていくことであります。それぞれの仕事において名を立て、信頼される人になっていくことは、もとより大事であります。だが、永遠の生命観に立った場合、最も根本的かつ永続的な栄誉とは、仏法の広布のために、どれだけの仕事をし、貢献したか、ということです。その栄誉のみが、時とともに永遠に輝いていくのです。
 「法華経に身をまかせる」とは、我が人生の究極の依処を御本尊におくということです。それは具体的には、日々の勤行、広宣流布のための活動を実践しぬいていくことです。「法華経に身をまかせ」た人生ほど強く、偉大なものはない。宇宙大の法理と力のうえに、我が人生をおいていくことになるからです。
29  なぜ「法華経に名をたて身をまかせ」るべきか――それを、次の「釈迦仏・多宝仏」以下に述べられております。
 一言にして言えば、法華経の儀式と説法の目的は、末法の私どものためである、ということです。でなければ、仏法は空論になり、観念の世界の遊戯に終わってしまう。仏法究極の哲理といえども、しょせん、私ども一人一人のために説かれたものです。
 先にも申し上げましたが、法華経は、在世衆生の代表である声聞への授記のあと、法師品、宝塔品以下は、釈尊滅後の弘通を誰がするかを主テーマに展開されております。
 すなわち、宝塔品、提婆品での釈尊の諌暁――呼びかけに応じて、勧持品、安楽行品で迹化の菩薩達が名乗りをあげますが、涌出品で釈尊は「止みね善男子」としりぞけ、本化地涌の菩薩を召しいだす。そして、この本化の菩薩についての弥勒達の疑問に答えて、久遠成道の寿量の説法があり、神力品で本化への別付嘱、嘱累品で総付嘱が行われるのであります。
 したがって、この一往の文上の流れでみれば、法師品のあとの宝塔品で多宝の塔があらわれ、釈迦、多宝二仏並座のもとに行われた法華経の犠式は、地涌の菩薩に末法の妙法弘通の使命を託すためであったといえます。これが「唯ひとへに末法の令法久住の故なり」と言われている一往の義です。
 これは、しかし、一往文上の辺であり、化儀の側面であります。再往文底からみれば、実はこの中に、末法の衆生を成仏せしめるべき、末法流布の法体が明かされている。すなわち、家の設計図と家そのものとの関係のごとく、この法華経の二仏が多宝塔中に並座し、虚空会において「妙法蓮華経の旛をさし顕し」「さだめ給」うた儀式が”そのまま”三大秘法の御本尊のお姿をあらわしているのであります。この本文では「妙法蓮華経の旛」と言われているのがそれであります。
30  この御本尊こそ、末法に流布される法体であり、一切衆生を末法万年尽未来際にいたるまで即身成仏させる秘法であります。「末法の令法久住」の文の元意はここにあります。ゆえに「併ら我等衆生を仏になさんとの御談合なり」と仰せられているのであります。
 すなわち、この御本尊こそ、八万法蔵の仏法の結論であり、法華経という宇宙根本の法理を事実のうえに作動させた当体であり、この大仏法のコースを歩んでいくならば、成仏は間違いないと言われているのです。
 なお、御本尊の相貌に約して言えば「妙法蓮華経の旛」とは、中央の「南無妙法蓮華経 日蓮」をさし、「釈迦・多宝の二仏大将として」がその左右にしたためられている仏界の代表を意味しております。
31  生命の姿あらわす「虚空会」
 日蓮は其の座には住し候はねども経文を見候に・すこしもくもりなし、又其の座にもや・ありけん凡夫なれば過去をしらず、現在は見へて法華経の行者なり又未来は決定として当詣道場なるべし、過去をも是を以て推するに虚空会にもやありつらん、三世各別あるべからず
 もとより日蓮は、法華経説法における虚空会の儀式の座にいたわけではないが、経文によって見るならば、その時の様子は少しもくもりなく明らかである。あるいはまた、その会座にいたのかもしれないが、凡夫のことであるから過去のことは分からない。しかしながら、現在は明らかに法華経の行者である。その現在から推し量れば、未来においては間違いなく仏の果報を得るであろう。更にこのことから過去を推察していけば、おそらく虚空会の儀式にも列していたと考えられる。ということは、過去と現在と未来との三世の生命は、それぞれ別のものであるわけはないからである。
32  ここは、日蓮大聖人のお振る舞いが法華経に説かれているとおりであり、したがって、未来は間違いなく仏であると、深い御確信を述べられたところであります。
 示同凡夫のお立場ですから、あの法華経の「虚空会」の儀式に、地涌の菩薩として連なっていたかどうか、という過去のことは分からない。ただ、経文をみれば、その時の様子はハッキリしているし、今の御自身の振る舞いが「法華経の行者」として、地涌の菩薩の振る舞いであることも、誰一人として否定できない事実の問題である。
 したがって、このことから過去を推察するに「虚空会にもやありつらん」――おそらく連なっていたであろう、と仰せであります。
 大聖人は、血脈書、あるいはそれに準ずるような御抄――例えば「三大秘法抄」などにおいては、間違いなく霊山において、虚空会において付嘱を受けた等と言われておりますが、一般の御書では、あくまで客観的に論じられております。
 過去にどうであったか、ということは、凡夫の知ることのできない問題であって、いたずらにそういう論議をすると、かえって神秘主義におちいり、誤解させてしまう。本抄のように、経文にどうあるか、そして大聖人の現実のお振る舞いがどうであるか、その照合から過去を推測する、このいき方は、今日の科学や実証的な歴史学のとる方法と相通ずるものといえましょう。
 「三世各別あるべからず」――過去と現在、現世と未来が、全く無関係で、バラバラであるわけはない、ということです。「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」と、仏法は教えております。現在の、誰もが見ることのできる事実を根本にして、そこから過去を知り、未来を知っていく――これが仏法のいき方です。
 その根底には、いかなる原因が、いかなる結果を生ずるかという、厳然たる法則性に対する透徹した眼がある。ゆえに、仏は三世を知っているとされるのであって、決して神秘的な、超能力的なものではない。「仏法は道理なり」という御教示を、深く胸に刻んでいただきたいのであります。
33  ここで、もう一つ申し上げておきたいのは虚空会の儀式ということです。
 経文のうえでは、前にも述べたように、法華経の見宝塔品第十一から嘱累品第二十こまで、虚空に浮かんだ多宝塔中に釈迦、多宝の二仏が並座し、大衆もみな、虚空に住在して説法が行われたことを言います。
 だが、これが三千年前のインドで、現実に起こった事実であるということは、とうてい納得できない。大勢の人々がそのままで空中に浮かぶということ自体、あまりにも非現実的であるし、多宝の塔についても、高さ五百由旬、タテ、ヨコ二百五十由旬と記されている。五百由旬とは、計算の仕方によっても違いますが、小さいほうでとっても、地球の半径の長さになる。
 では、法華経に説かれていることは、空想の産物であって、ただの作り言にすぎないのかと言えば、それは大きい誤りであります。これを、どのように考えるべきか、という問題であります。
 端的に言えば、釈尊が自ら悟ったところのものを説くのに、虚空会の儀式という形でしか表現することができなかったがゆえに、このような超現実的ともいえる形式をとったのであります。
 戸田先生が、法華経の荘厳な儀式をさして「釈尊己心の儀式である」と言われたのは、この意味であります。
 虚空会の儀式が、釈尊の悟ったものをあらわしているということは、虚空会の儀式自体が仏の悟りの当体、すなわち、法体をあらわしているということであります。この仏の悟りの法体を、釈尊は虚空会の儀式としてあらわし、天台は一念三千の法理として示し、日蓮大聖人は、御本尊として、末代幼稚の凡夫が、即座に受持できるようにしてくださったのであります。
 したがって、大聖人はここで釈尊の法華経について論じられているので「過去をも是を以て推するに虚空会にもやありつらん」と仰せられておりますが、更に我々の立場にあてはめて拝すれば、御本尊を受持し、日々、勤行し、唱題していること自体、日々、虚空会に連なっていることに通ずるのであります。
 更に、生命論から言えば、我が生命そのものが虚空会であります。我が色心の作用を起こしている根源は、まさしく虚空であります。しかし、その虚空とは、単なる”無”ではない。無限の創造性と力感に満ちみちた生命の場であります。
 また、永遠の生命そのものが虚空会であります。霊鷲山会が、虚空会の儀式とあらわれたということは、まさしく、生命の永遠であることを説こうとしたものです。
34  御本仏の御境界を吐露
 此くの如く思ひつづけて候へば流人なれども喜悦はかりなしうれしきにも・なみだ・つらきにもなみだなり涙は善悪に通ずるものなり
 このように思いつづけてくると、現に流人の境遇にありながら、生命の奥底から喜悦が限りなく溢れてくる。世情のことは、うれしさにつけても涙、つらい時にも涙というように涙は善悪に通ずるものである。
35  法華経を身をもって読みきられた、御本仏の絶対的な御境界を吐露された御文であります。
 誠に日蓮大聖人の御文は、名文であります。読むたびに、私達の胸中に、慈父の響きと、広布の大感情が込み上げてまいります。しかも大聖人の文章は、いわゆる机上で作られた美文ではない。文は生命なり、文は境涯なり――としみじみと痛感させられるのであります。
 あの流罪の地・佐渡において、地獄のどん底と思われるような御生活にあって、なお全宇宙をも包まんばかりの御境界で、お手紙をおしたためになる御心境は語るすべもないほどです。
 古の天平時代より、江戸時代にいたる一千余年聞にわたり佐渡へ流罪された人は、無数でありましよう。そのすべては、悲哀と激憤と苦痛と忍従と――更には呻吟の声が大地に刻まれてきたといってよいでしょう。しかし、ただ一人、大聖人のみが澄みきった秋の青空のごとく、また陽光を浴びた春の大海のごとく、淡々たる御心境で「喜悦はかりなし」と叫ばれています。
 世にいう哲人、賢人、文人も、ひとたび悲惨な生活におかれるや、天を仰いで恨みを隠し、地に伏して嘆きを深くしたのであります。しかし、最大の悲哀の中で、最も強く生ききられた大聖人は、まさしく生命の革命劇を、歴史のうえに燦たる光をもってとどめたものと言えると思います。
 この大聖人の御心境を深くかみしめながら、何回も何回も繰り返しながら拝読し、私達は、大聖人の叫びを胸中に響かせていこうではありませんか。
36  「此くの如く思ひつづけて候へば」とは、法華経が、せんずるところ、日蓮大聖人お一人のために説かれたものであったということであります。あの荘厳な虚空会の儀式、釈迦、多宝の二仏並座、十方分身の諸仏の来集等々、すべて「末法の令法久住の故」であり、「我等衆生を仏になさんとの御談合」であった。すなわち、一往は上行再誕、再往は本地久遠元初の自受用報身としての日蓮大聖人御自身のために行われた儀式であり、諸仏の来集であった。ゆえに、これほどうれしく、ありがたいことはない、とのお言葉なのです。
 「なみだ」とは、崇高なる大感情の表現です。抑えても抑えられない、また外的条件がどんなであれ、それを突き破ってわきあがってくる偉大な感情の噴出を「なみだ」によってあらわされているのであります。
 「流人なれども」――今、大聖人のお立場は、流人という、誠に厳しく、つらいものである。これは、相対的次元の幸、不幸の現象です。その次元では、この世で最も不安定な、不幸な姿であられる。しかし、内心の胸中に確立された御境界――絶対的幸福の次元では、この世で誰よりも豊かで、広大かつ不動の幸福を満喫されているのであります。
37  この相対的幸福と絶対的幸福という点について一言、申し上げておきたい。
 それは、絶対的幸福とは、相対的幸福の延長線上にあるものではない、ということです。これを、もう少し分かりやすく言いますと、経済的に豊かになり、健康で、周りの人々からも大事にされ……等々の条件が満足しているからといって、必ずしもそれが絶対的幸福ではないということです。
 相対的なものは、どとまでいっても相対的です。どんなに資産家であれ、有名人であれ、社会の激変によって、一夜にして貧乏の、どん底に陥る場合も少なくありません。また、どんなに健康であっても、一瞬にして重体となることもある。たとえ、そうした事故や災難等、何にもなくとも、次第に年をとってくれば、誰しも、様々な病気が出てくるものです。
 ゆえに、相対的幸福を形成しているものは、自己と環境的条件との相関関係にすぎないのです。簡単な例で言えば、なにかを食べたいという自己の欲望と、それに対応するご馳走が出てきたという環境的条件、このお互いの関係によって生ずるのが、相対的幸福なのです。
 これに対し、絶対的幸福とは、自分が心に決めた使命感、目的観と、それを実践しているという事実との間の関係で出てくるものであり、生命自体の充実感、満足感です。これは、有為転変する周りの条件に支配されるのでなく、自らの意志で決定できるものです。したがって、絶対的となりうるのです。
 更に、これを掘り下げて言えば、その自分の定めた目的観、使命感が、宇宙とともに不変常住の法に合致していることが、絶対的幸福の完壁な要件であります。
 したがって、無始以来、常住不変の妙法を固く信じ、広宣流布という自ら決めた目的観、すなわち大願に生き、実践しぬく心にこそ、真実の絶対的幸福が築かれることを、どうか皆さんは強く確信してください。とともに、それこそ、人間として最も尊い生き方であることを、最大の誇りとしていっていただきたいのであります。
38  弟子の決意を込めた「如是我聞」
 彼の千人の阿羅漢・仏の事を思ひいでて涙をながし、ながしながら文殊師利菩薩は妙法蓮華経と唱へさせ給へば、千人の阿羅漢の中の阿難尊者は・きながら如是我聞と答え給う、余の九百九十人はくなみだを硯の水として、又如是我聞の上に妙法蓮華経とかきつけしなり、今日蓮もかくの如し、かかる身となるも妙法蓮華経の五字七字を弘むる故なり、釈迦仏・多宝仏・未来・日本国の一切衆生のために・とどめをき給ふ処の妙法蓮華経なりと、かくの如く我も聞きし故ぞかし
 釈尊の滅後に、千人の阿羅漢が集まって、仏の教えの結集にあたった時、ありし日の釈尊を偲ぶにつけ、様々な感慨に涙しながら文殊師利菩薩が妙法蓮華経と唱えると、千人の阿羅漢の中の阿難尊者は感涙にむせびながら「かくのごとく我聞きき」、と答えたのである。そこで他の九百九十人の阿羅漢達は、我が師を慕う涙を硯の水として「如是我聞」の上に妙法蓮華経と書き付け、妙法蓮華経が釈尊の説法の真髄であったことを確認しあったのである。日蓮もまた同じである。このような流罪の身となったのも、妙法蓮華経の五字七字を弘めるからである。釈迦仏、多宝仏の二仏が、未来の末法万年の日本国の一切衆生のためにこの世に留め置いた妙法蓮華経であると、私も聞いているからである。
39  ここは、経典結集のありさまを述べられたところですが、「如是我聞」ということについて申し上げたい。
 この言葉は、あらゆる経文の冒頭にあり、その経文の骨髄をあらわした題目を受けた言葉です。「是くの如く我聞きき」と読みます。私は釈尊の説法をこのように聞いたという意味です。
 文殊師利が妙法蓮華経と唱え、阿難が如是我聞と答え、他のすべての人が妙法蓮華経如是我聞と書きつけたということは、そこにいたすべての人々が、釈尊の説法の真髄は妙法蓮華経であり、妙法蓮華経を如是我聞したと一致して述べたということです。
 この如是我聞ということは、ただ単に聞いたというような簡単な言葉ではない。もっとずっと強い主張が込められています。天台大師は『法華文句』で「我聞とは能持の人」であると述べている。つまり「仏法の教えの真髄はこうだと私は確信する。したがって、この経文のとおりに仏法を実践し、身をもってこの経文を証明していきます」といった決意が込められた言葉です。
 日蓮大聖人も「釈迦仏・多宝仏・未来・日本国の一切衆生のために・とどめをき給ふ処の妙法蓮華経なり」と如是我聞されたと仰せられております。
 ゆえに妙法流布のために、種々の大難を受けて法華経を証明され、末法万年の一切衆生のために、御本尊をお遺しくださったのです。
 この日蓮大聖人の仏法を、私達のためにとどめおかれた人間革命と世界平和の根本法であると、信徒の立場で如是我聞されたのが、まさしく牧口初代会長であり、戸田二代会長でありました。如是我聞されたがゆえに、広宣流布のために獄中で亡くなられ、また生き抜かれたのであります。これこそ、学会精神の骨髄中の骨髄であることを生命に刻み込んでいただきたいのであります。
 更に、釈尊なきあと、文殊師利、阿難をはじめ弟子達が、涙を流して仏の教えを繰り返し、涙をもって経文に記したということは、仏の大慈悲に対する無量の感慨をあらわしております。そして、この弟子の大感情が、仏法を未来へ流れ通わしむる原動力となったということでもあります。
 大聖人もまた、釈尊、法華経に対する報恩感謝と、一切衆生への大慈悲の涙をもって、末法万年弘通の大白法を建立されたのです。「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもなが流布るべし」と仰せられているのは、この意味であります。
 私どももまた、御本仏日蓮大聖人が忍ばれた苦難に、心から報恩感謝を申し上げ、偉大な仏法に巡りあえた大歓喜をもって、仏法を語り、未来へ、全人類に流れ通わしめていこうではありませんか。
40  仏法のため涙する尊い一生を
 現在の大難を思いつづくるにもなみだ、未来の成仏を思うて喜ぶにもなみだせきあへず、鳥と虫とはけどもなみだをちず、日蓮は・なかねども・なみだひまなし、此のなみだ世間の事には非ず但ひとえに法華経の故なり、若しからば甘露のなみだとも云つべし、涅槃経には父母・兄弟・妻子・眷属けんぞくはかれて流すところの涙は四大海の水よりもををしといへども、仏法のためには一滴をも・こぼさずと見えたり
 佐渡流罪という現在の大難を思うにつけても涙、未来の成仏を思って喜べばまた涙が溢れてくる。鳥と虫とは、いろいろに鳴くけれども、涙は流さない。日蓮は泣かないけれども涙のとどまる暇がない。この涙は世間のことで流している涙ではなく、ただひとえに末法の法華経・南無妙法蓮華経のゆえである。この涙は甘露の涙とも言えるであろう。涅槃経には、父母、兄弟、妻子、眷属に別れて流す涙は大海の水よりも多いが仏法のためには一滴の涙も流していない、とある。
41  「現在の大難」とは、佐渡流罪です。もちろんつらいといえばつらい。しかし再往、この大難は法華経の行者として受けている大難である。「未来の成仏」は、現在こうして法華経の行者であることからも、絶対に間違いはない。それを思うと、涙がとめどもなくあふれでくるとの仰せです。
 涙は、奥深い心の思いをあらわすものです。この一つをとってみましでも、日蓮大聖人がどれほど甚深無量の思いで、一瞬一瞬を過ごしておられたかが推察されるのであります。
 「鳥と虫とはかけどもなみだをちず」――鳥や虫は、様々な音色で鳴き、その幾種類かは鳴き音で有名です。しかし、そこには鳥自身、虫自身の深い思いといったものはない。「日蓮は・なかねども・なみだひまなし」――大変有名な御文ですが、この一節こそ、御本仏日蓮大聖人の大慈悲をあらわしているところです。
 「此のなみだ世間の事には非ず但偏に法華経の故なり」と述べられていますが、日蓮大聖人の涙は、つらいとか、苦しい、悲しいといった世間のことで流す涙ではない。ただ法華経を流布して末法万年の一切衆生を救おうとして流す涙である。「若しからば甘露のなみだとも云つべし」――甘露とは、古代中国の伝説で、理想的な世の中で天が降らせる甘い露と言われ、そこから、あらゆる人間の苦悩を癒し、不老不死をもたらすものとされています。日蓮大聖人の流される涙が三大秘法の大御本尊として結晶し、人々の生命をうるおし、悩みを除き、不老不死の生命を与えてくださっていることは、私どもが身をもって知っている事実であります。
 涅槃経の文は、三世の生命観のうえから、我々が永遠の生命の流転の中にあって、世間のことでは、いやというほど涙を流すけれども、仏法ゆえに涙を流したことは一度もないというのです。これは仏法に巡りあうことが、いかに難しいか、また、たまに巡りあっても、真実の大信仰心を起こす人が、いかにまれであるかを述べたものです。
 日蓮大聖人の御一生は、仏法ゆえの涙の連続であられた。私どもも、仏法のために涙する尊い一生を送ろうではありませんか。
42  法華経の行者となるは過去の宿習
 法華経の行者となる事は過去の宿習なり、同じ草木なれども仏とつくらるるは宿縁なるべし、仏なりとも権仏となるは又宿業なるべし
 今こうして、法華経の行者となったということは、過去世において法華経を行じていたから、その宿習によって今また法華経の行者になっているのである。例えば、同じ草木であっても仏と作られるのは宿縁によるのである。また仏であっても、権仏と作られるのは宿業によるのである。
43  今こうして法華経の行者、実践者となったということは、今世において、たまたま法華経に巡りあったといった浅い縁ではない。過去世において法華経を行じていたがゆえに、その宿習によって、今また法華経の行者になっているのだと仰せです。
 例えば、非情の草木であっても「仏とつくらるる」――御本尊とつくられる草木もある。牢獄の格子となる草木もある。
 宿縁なりと表現されたのは、草木の場合、自ら意識し、働きかけることはできません。どういう人に巡りあうかという、それ自体に宿した縁によって、何になるか、つくられるかという、それぞれの立場をあらわしてくるのです。
 すべて、過去、現在、未来にわたる因果の理法で、一つの結果には、必ずそれをもたらす原因がある。同じ仏といっても、小乗教の仏もあり、権大乗教の仏もありというように、みな使命が違う。仏としての力が違う。これもぜんぶ宿業、すなわち過去世における行為によってもたらされたものであるということです。
 私どもは、今、このように日蓮大聖人の本眷属として、南無妙法蓮華経の広宣流布に励んでいます。この確固たる人生に比べ、世間の生き方は、相対的なものです。
 例えば、淡雪は、太陽の光にたちまち溶けてしまう。蜃気楼もまた、すぐ消え去るでありましょう。根無し草の波のまにまに漂う姿も、あまりにも不安定であります。有為転変の無常の人生の中に、埋没しゆく生き方は、何と弱く、幻のごとく、はかないものでありましょうか。
 有名の二字に酔いしれた人の、ひとたび名聞の皮がはがれたあとの惨めな姿、権力の座から一転して脱落していった人の、何と小さな一瞬の”修羅の傲り”のごとき姿などを見るたびに、その根の浅さ、底の浅さはあまりにも悲しい。
 これらの有為転変の、無常の諸相の奥底を流れる妙法の淵源に、我が身をすえた人生こそ、最も光輝に包まれたものである、と確信すべきでありましょう。
 我は地涌の菩薩の眷属なり、この自覚に立たれた戸田先生の叫びの中に、無量の恩師の思いが、私の胸にこだましてくるのであります。
 私どももまた、こうした自身の使命に目覚めれば、無限の力がわいてくるはずです。
 私が頂戴した戸田先生のお歌に「古の奇しき縁や萌え出でて 咲けや雄々しく大和桜と」という一首があります。今日の創価学会を築いてきた先輩達は、皆「古の奇しき縁」を強く自覚して戦ってこられました。
 皆さんも、今こうして、日蓮正宗創価学会の一員として活躍していることは、過去の宿習であると決めて、自己の使命を果たすため、しっかりと励んでください。そこにのみ、所願満足の人生があることを確信していただきたい。
44  仏法は行学を実践する人の中にある
 此文には日蓮が大事の法門ども・かきて候ぞ、よくよく見ほどかせ給へ・意得させ給うべし、一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ、あひかまへて・あひかまへて・信心つよく候て三仏の守護をかうむらせ給うべし、行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし、南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経、恐恐謹言    五月十七日  日蓮 花押
 本抄には、日蓮が説き明かすところの重要な法門を書き記しておいた。だから、よくよく理解していきなさい。そして生命の奥底に刻んでいきなさい。根本は、一閻浮提第一の御本尊を信ずることである。発心に発心を重ねて、信心強盛に釈迦・多宝・分身の三仏の守護を得られるよう祈っていきなさい。そして、その信心を根本に行学の二道を励んでいきなさい。行学が絶えるようなことがあれば、仏法は滅んでしまうのである。自身も行学の二道に励み、人をも教化して共に修行していきなさい。行学は信心からおこるものである。信力をふるいおとして一文一句でも仏法を語っていきなさい。南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経、恐恐謹言。
    五月十七日    日蓮 花押
45  「日蓮が大事の法門」ということについては、講義の最初で述べたとおりです。仏法の肝要であり、末法流布の大法は何かということ、大聖人が末法の御本仏であること、更に大聖人の弟子の信心の在り方はいかにあるべきか等、まさしく大聖人の仏法の大事が凝縮されております。ゆえに「よくよく見ほどかせ給へ・心得させ給うべし」と念をおされているのです。
 「よくよく見ほどかせ給へ」とは、深く理解していきなさいということです。「意得させ給うべし」とは、生命に刻んで、この御書どおりの振る舞い、実践をしていきなさいとの御教示です。「一閻浮提第一の御本尊」です。大聖人の仏法が一閻浮提第一であり、大御本尊がその肝要中の肝要であることは、絶対に間違いありません。
 あとは我々の信心です。ゆえに「あひかまへて・あひかまへて・信心つよく候て」です。
 信心は、成り行きでいつか深まってくるものではない。「あひかまへて」とは、発心をしなさいということです。何があろうとも、よし、これを転機に御本尊根本に一歩前進していこう、という勇敢な信心が大切です。その信心のあるところ、釈迦、多宝、十方の諸仏の守護が、厳然と働きをあらわしてくるのです。
 自身にあっては、仏界の涌現という、最も根底的な生命の変革がなされるというのが、釈迦仏の守護にあたります。功徳に満ちあふれた生活の実証が多宝如来の守護です。十方の諸仏の守護とは、周囲の人々が正法に目覚め、相互に尊敬しあっていく、理想的な人間共和の社会が現出するということです。
 「行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず」以下は、しっかり暗記していただきたい。この御文の「行学」ということについては、様々な機会に申し上げてきました。そこでここでは、ただ一点だけ申し上げておきます。
 それは「行学たへなば仏法はあるべからず」ということです。仏法は行学の中にある。行学の実践をする人間の振る舞いの中にあるということです。経文や書物や文字の中にあるのではない。仏法は、御書を学び、大聖人の教えどおりに実践する一人一人の生命の中にあらわれるのです。
 その仏法の大運動を展開している人間と人間、信心と信心の錬磨向上の中にこそ、現実における仏法直道の脈搏があることを知らなければなりません。「我もいたし人をも教化候へ」――自行化他の信心です。自分だけ信心していればいいというのは、大聖人の仏法の本格派の実践者ではない。自分も実践し、人にも教え、伝えていくのです。
 「行学は信心よりをこるべく候」――行学の基となるのは信心です。逆に言えば、信心は必ず行学とあらわれる。この信・行・学の三つが、大聖人の仏法の実践の永遠の規範なのであります。
 「力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」――随力演説で、自分の境遇で、自分の全力を出して折伏し、一文一句でも仏法を語っていきなさい、ということです。
46  ”一切衆生を救う”との大確信
 追申候、日蓮が相承の法門等・前前かき進らせ候き、ことに此の文には大事の事どもしるしまいらせ候ぞ不思議なる契約なるか、六万恒沙の上首・上行等の四菩薩の変化か、さだめてゆへあらん、総じて日蓮が身に当ての法門わたしまいらせ候ぞ、日蓮もしや六万恒沙の地涌の菩薩の眷属けんぞくにもやあるらん、南無妙法蓮華経と唱へて日本国の男女を・みちびかんとおもへばなり、経に云く一名上行乃至唱導之師とは説かれ候はぬか、まことに宿縁のをふところ予が弟子となり給う、此の文あひかまへて秘し給へ、日蓮が己証の法門等かきつけて候ぞ、とどめおわんぬ    最蓮房御返事
 追伸、日運が相承の法門等については、前々から書き送った通りである。更に本抄には、最も肝要な法門等をしたためである。こうしてみると、あなたとは仏法の奥義について語り合う約束があったのであろうか。涌出品に現れた六万恒沙の上首である上行等の四菩薩の一員であろうか。さだめで深いわけがあるのであろう。あなたには、総じて日蓮が身にあたる法門をそのまましたためておいたのである。日蓮はもしかしたら六万恒沙の地涌の菩薩の眷属の一人であろうか。南無妙法蓮華経と唱えて、日本国の男女を導こうとしているからである。涌出品に「本化の菩薩の中に、四人の導師がいる。第一を上行といい乃至唱導の師である」と説かれているではないか。あなたは誠に深い宿縁によって私の弟子となったのである。この文をしっかりと胸中深く秘して心肝に染めていきなさい。日蓮が己心に悟った法門等を書き付けた重書である。以上をもってとどめる。
   最蓮房御返事
47  冒頭の部分については、講義の最初に触れておきました。最蓮房に対しては、「生死一大事血脈抄」「草木成仏口決」「祈祷抄」等、ずいぶん重要な法門をしたため、与えられております。なかでもこの「諸法実相抄」は、最も肝要な法門をしたためた、と仰せです。そして、こうしてみると、あなたもずいぶん不思議な人であると仰せです。末法御本仏である日蓮大聖人の身に当たっての法門、御本仏の御境界、実践をそのまましたためた御書をいただいている。きっと、地涌の菩薩の一員として、末法広宣流布に重要な使命を担っている人であろう、ということです。
 「日蓮もしや六万恒沙の地涌の菩薩の眷属にもやあるらん」とは、御謙遜のお言葉です。この背後には、外用は「一名上行乃至唱導之師」であり、本地は久遠元初の自受用身如来であり、末法の御本仏であるとの御確信が込められております。
 「南無妙法蓮華経と唱へて日本国の男女を・みちびかんとおもへばなり」――日本国と仰せでありますが、意は一閻浮提であり、未来永遠の衆生です。末法において南無妙法蓮華経によって、一切衆生を救わんとされた方は、日蓮大聖人しかおられない。ゆえに、大聖人が地涌の棟梁であり、末法の御本仏であられる。
 「まことに宿縁のをふところ予が弟子となり給う」――重ねて宿縁の不思議を述べて、使命の自覚を促されております。
 最蓮房に与えられた他の御書に、次のような一節があります。「只今の御文に自今以後は日比の邪師を捨てひとえに正師と憑むとの仰せは不審に覚へ候」――すなわち、最蓮房が日蓮大聖人にお手紙を差し上げて「これから以後は、これまでの邪師を捨てて、ただひたすら日蓮大聖人を正師とたのんで、仏道修行に励んでいきます」と誓いの言葉を述べたのです。これに対して大聖人は「不審に覚へ候」――あなたは、不思議なことを言いますね、と言われている。
 なぜ、このように言うのかということについて、続いて述べられているのですが、要約すれば「あなたとは、もともと師弟だったではないか。いま初めての契りではない。偶然の巡りあいではない」と述べられているのです。
 実は、この「不審に覚へ候」ということに、重大な仏法上の意味があります。最蓮房の表現は、表面的、常識的に考えれば、当然すぎるほど当然なのです。しかし、大聖人は三世にわたる仏法の達観のうえから、深く掘り下げられて、仏法の師弟を論じられたのです。
 私どもの立場において言えば、今世においてたまたま大聖人の仏法に巡りあえたと思うべきではないのです。もともと日蓮大聖人との師弟の絆によって結ばれた私達なのです。私達仏法兄弟もまた久遠よりの同志であり、兄弟でありました。それが、様々な姿、形をとりながら、この世に再び集いきたって、日蓮大聖人の末弟として広宣流布へと使命の道を歩んでいるのです。
 更に言えば、久遠は今にあり、今は久遠であります。ゆえに、現在に久遠の契りを結ぶ我らは、永遠に仏法兄弟の道を歩んでいくことを自覚したい。先の御文にも「三世各別あるべからず」とありましたごとく、現在の姿は久遠を映しだし、未来の私どもの姿を生命の鏡に浮かばせていることを確信します。
 ゆえに、ともどもに尊敬しあい、学びあい、励ましあい、異体同心の輪を広げていこうではありませんか。
 したがって、皆さん方も「まことに宿縁のをふところ」信心できたのです。それだけの力があり、それだけの責住があります。「この世で果たさん使命あり」です。
 「此の文あひかまへて秘し給へ、日蓮が己証の法門等かきつけて候ぞ、とどめ畢んぬ」――「秘し給へ」とは、一つには、当時の人々には大聖人の仏法の真髄が分からない、いたずらに不審を起こさせてはならないとの御配慮です。またしっかりと生命に刻み、とどめなさい、ということであります。
 「己証の法門」――大聖人の己心に悟った法門を書きつけた重書であることを、最後に述べられて、本抄を終わられております。
   (昭和五十二年一月「聖教新聞」掲載)

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