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日蓮大聖人・池田大作

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末法の御本仏を宣言  

講義「諸法実相抄」「生死一大事血脈抄」(池田大作全集第24巻)

前後
1  かくの如き等の法門・日蓮を除きては申し出す人一人もあるべからず、天台・妙楽・伝教等は心には知り給へども言に出し給ふまではなし・胸の中にしてくらし給へり、其れも道理なり、付属なきが故に・時のいまだ・いたらざる故に・仏の久遠の弟子にあらざる故に、地涌の菩薩の中の上首唱導・上行・無辺行等の菩薩より外は、末法の始の五百年に出現して法体の妙法蓮華経の五字を弘め給うのみならず、宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕すべき人なし、是れ即本門寿量品の事の一念三千の法門なるが故なり
 このような法門は、日蓮を除いて述べた者は一人としていなかったのである。天台大師、妙楽大師、伝教大師等の人々は、内心では法華経の真髄を知つてはいたが、言葉に出して他に向かって説かず、胸中に深く秘していたのである。それも道理である。なぜかといえば、仏から妙法流布の使命を託されていなかった、妙法流布の時がいまだ到来していなかった、仏の久遠の弟子ではなかった、と言う理由によるのである。以上のようなわけで、本化地涌の中でも、上首唱導の上行・無辺行等の四菩薩以外は、末法の始めの五百年の間に出現して、法体の妙法蓮華経を弘めるばかりでなく、宝塔の中の二仏並座の儀式すなわち本門の本尊を作り顕す資格はない。そのわけは、これが本門寿量品の肝要である事の一念三千の法門だからである。
2  迹門方便品の諸法実相も、本門の虚空会の儀式も妙法蓮華経をあらわしているのであるということは、いまだかつて、誰も言ったことがない。日蓮大聖人が、初めて述べられるのである、ということです。
 しかし、そこに法華経の元意があったがゆえに、天台、妙楽、伝教等の、法華経を本当に読みきった人々は、内心では知っていたことは当然です。したがって「天台・妙楽・伝教等は心には知り給へども言に出し給ふまではなし・胸の中にしてくらし給へり」と言われているのです。
 では、なぜ天台、妙楽、伝教等は、心の中では知りながら、言葉に出して言わなかったか。言葉に出して言わなかったということは、人々に教えることをしなかったわけです。それをしなかった理由として、大聖人はここで三つ挙げられている。
3  一つは「付属なきが故」です。付嘱とは、仏から使命を託されることであります。法華経の会座において、釈尊は、法華経の肝心の法門を弘通する使命を、本化地涌の菩薩に託した。ところが天台、妙楽、伝教等は、その本地は迹化の菩薩である。ゆえに、その使命を受けていない、ということであります。
4  第二は「時のいまだ・いたらざる故」であります。この法華経の肝心の法門が弘通されるべき時は、薬王品にも「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して」(妙法蓮華経並開結六〇五ページ)とあるように、第五の五百歳、末法の時代であります。
 ”時”とは、端的に言うならば、客観的条件の最も深い底流をなすものであります。委細に三世を知る仏にして初めて、この正しい時を知ることができるがゆえに、仏は明確にこの妙法を弘めるべき時を定めたといえましょう。だが、天台、妙楽、伝教等の出現した時代は、五の五百歳の区分の中では、第四の五百歳であった。したがって、これらの人々は、法華経の肝心たる妙法を、言葉に出し、人に教えることをしなかったのであります。
5  第三は「仏の久遠の弟子にあらざる故」であります。仏の久遠の弟子ということは、師弟不二の原理からいって、仏と同じ心、等しい悟りの境地にあるということであります。経文にあらわれた地涌の菩薩は、この久遠元初の仏の弟子が、妙法流布のため、その付嘱のため、垂迹して現じた姿であります。
 仏の悟りの極理である妙法を説き、弘めるためには、自らその悟りを得、仏と等しい境地にもともと住している人でなくてはならない。妙法を説き弘めることは「如来の使いとして、如来の事を行ずる」ことになるのであります。
6  広宣流布の付嘱は地涌の菩薩に
 これに関連して一言、本化の菩薩と迹化の菩薩の関係について述べておきたい。
 本化の菩薩とは、言うまでもなく地涌の菩薩であります。この地涌の菩薩の住処について、法華経には「大地の下の空中」と説き、天台はそこを「法性の淵底玄宗の極地」と表現しておりますが、日蓮大聖人は、更に明確に「南無妙法蓮華経」であると示されております。すなわち、南無妙法蓮華経を我が生命と覚知し、南無妙法蓮華経の流布を自己の使命とし、本分としているのが地涌の菩薩であります。
 これに対して、迹化の菩薩とは、文殊、弥勒、薬玉、普賢、観音、妙音等の諸菩薩であります。これらの菩薩達は、社会の動向を察知する力で人々に利益をもたらし、妙なる音楽で心を喜ばし、慈愛の心をもって人々に尽くし、医学の力をもって病苦を除く等、その特性を存分に発揮して、人々のために働く菩薩達であります。
 ゆえに世間においても、真に慈悲の精神に立って、おのおのの社会的立場にあって、またその能力を発揮して人々のため、社会のために尽くす人は、迹化の菩薩の一分にあたるといってよいでありましょう。しかしながら、南無妙法蓮華経という法体を弘めることによって、人々のために尽くしている人は、世間にはどこにもおりません。
 なぜかならば、この仏法の流布こそ、地涌の菩薩の本分であるからであります。釈尊が法華経において、迹化の菩薩達が滅後の弘経を誓うその誓いを「止みね善男子」(妙法蓮華経並開結四七三㌻)と一言のもとに止めて、わざわざ地涌の菩薩を召しいだし、付嘱をなしたわけも、この一点にあります。南無妙法蓮華経という根源の一法をもって、人々のため、社会のために尽くしていくことができるのは、本化地涌の菩薩のみであり、またそれこそ、末法の根本の実践なのであります。
 したがって、私達は、あくまでも南無妙法蓮華経に生き抜くことを本分とし、その流布を自らの”この世の使命”と定めたうえに、社会のあらゆる分野において活躍していくならば、その活動は迹化と同じようであっても、その根本は総じての地涌の菩薩であります。
7  だが、反対に南無妙法蓮華経の根本を忘れてしまったならば、迹化の菩薩にとどまることすらできず、自己の才能や名声に酔い、日々の生活におぼれて、三悪道、四悪趣の境界に堕ちていくことでありましょう。
 ゆえに深く探求していけば、広宣流布に励む同志は、あるいは一学生であれ、一主婦であれ、一学者であれ、一サラリーマンであれ、みな地涌の菩薩の眷属が、それぞれの世界へと勇躍出現した姿であります。
 単に、一主婦が、一学生が、たまたまその悩みを解決するために信仰しているという自覚しかなければ、それはまだ一歩浅いところを彷徨している段階であると言わざるをえない。
 我々の奥底の一念――それは、地涌の菩薩の使命に立って、御本尊と、日蓮正宗創価学会と、広宣流布とにおくべきであると、申し上げておきたいのであります。
8  さて、天台、妙楽、伝教等が以上の三つの条件を欠くゆえに、法華経の肝心の法を説き弘めることができなかったのに対し、一往、地涌の菩薩として、再往、無作三身の仏としての日蓮大聖人が、それをなすことができるというのが、次の文であります。
 「地涌の菩薩の中の上首唱導・上行・無辺行等の菩薩」という文は、先の「付属なきが故」に対応して仰せです。と同時に、この地涌の菩薩について涌出品で「我久遠より来是れ等の衆を教化せり」(妙法蓮華経並開結四八八㌻)
 と示されている元意に照らすならば、「仏の久遠の弟子にあらざる故」にも
 対応していることは明らかでありましょう。
 また「末法の始の五百年に出現して」とは、「時のいまだ・いたらざる故」の文に対応しているとと
 も、一言うまでもありません。日蓮大聖人のお振る舞いは、先に示した三つの条件がすべて満たされたう
 えのことである、と仰せなのであります。
9  「本門の本尊」御図顕が出世の本懐
 「法体の妙法蓮華経の五字を弘め給うのみならず、宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕すべき人なし」――この御文の中に、本門の題目と本門の本尊を示されております。
 「法体の妙法蓮華経の五字を弘め給う」が、本門の題目を弘通されていることであります。「宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕す」は、本門の御本尊を建立されることであります。
 もし、大聖人が、単に「南無妙法蓮華経」の題目流布のみをもって本懐とされたとするならば、「妙法蓮華経の五字を弘め給うのみならず、宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕す」とは言われなかったでありましょう。
 むしろ「宝塔の中の二仏並座の儀式」すなわち御本尊を顕されたところにこそ、日蓮大聖人の出世の御本意があったことは、この文に明確にうかがわれるのであります。
 ともあれ、この題目、御本尊を顕し弘めることは、地涌の菩薩の上首上行等にしかできないことである。そのゆえは、これが本門寿量品の事の一念三千の法門だからであると仰せです。迹化の菩薩は迹門の法門は弘めることができる。しかし、本門寿量品の事の一念三千は、本化の菩薩でなければならないのです。
 迹門の法は迹化の人、本門の法は本化の人でなくてはならないのであります。
 この「地涌の菩薩の中の上首唱導・上行・無辺行等の菩薩」とは、日蓮大聖人御自身のことであり、人本尊をあらわします。また「本門寿量品の事の一念三千」とは、法本尊のことであり、人法一箇をあらわしております。
 大聖人に連なる私どももまた、もともと末法の独一本門の南無妙法蓮華経に徹する使命をもって生まれてきたのであります。
 ともかく釈尊も天台も伝教も、すべて帰着するところは妙法の大地であり、それら先人の出現はすべて日蓮大聖人の御出現の序曲であった。古の先人達が、生涯を賭けて求め抜いた一法が御本尊なのであります。
 私どもは、いま大聖人の世界最高の太陽の哲理を持っている。ともあれ、光輝あるこの世の使命への自覚を新たにしたいのであります。
10  「神通之力」とは御本尊の働き
 されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く「如来秘密神通之力」是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし
 したがって、釈迦・多宝の二仏といっても、本体である妙法蓮華経の働きとしてあらわれた仏であり、妙法蓮華経それ自体が本仏なのである。そのことを寿量品に説いて「如来秘密、神通之力」とある。「如来秘密」は体の三身をあらわし、本仏にあたる。「神通之力」は用の三身をあらわし、本体の働き、作用としてあらわれた迹仏にあたる。
11  妙法蓮華経すなわち南無妙法蓮華経が、仏の生命の常住不滅の体であり、釈迦、多宝の二仏といっても、この南無妙法蓮華経という体があらわす働きにほかならない、との仰せであります。
 体は”本体”、用は”働き”であります。まさしく御本尊のお姿であります。御本尊における釈迦、多宝は「南無妙法蓮華経 日蓮」と中央におしたための脇士となっており、妙法の用の仏として位置づけられております。釈迦、多宝といえども、またあらゆる十方三世の諸仏といえども、妙法の働きであります。
 南無妙法蓮華経とは、日蓮大聖人の御生命そのものであり、ゆえに大聖人は、十方三世の諸仏を動かしていく当体であられる。私どもも御本尊を受持することによって、あらゆる仏、菩薩を動かしていくことができるのです。私どもには、なんと偉大な境涯の海が開けていることでありましょうか。
 本当の信力、行力を貫いていけば、「当体義抄文段」に「我等、妙法の力用に依って即蓮祖大聖人と顕るるなり」(文段集六七六㌻)とあるごとく、大聖人の生命が漉々とわいてくるのであります。
 また本とは「本地」で、本来の境地を言い、迹迹は「垂迹」で、影として映った姿を言います。
12  これを、もう少し分かりやすく言うと、本迹について天台大師は、天月と池月をもって示しております。空に輝いている本物の月が”本”で、池の水面に映った月影が”迹”であるというのであります。
 考えてみると、影は、池だけに映るわけではない。海の水面にも映りますし、湯飲みの茶の面にも映ります。ガラスの面にも映ります。すなわち、十分に光を反射する滑らかな面であれば、そこにはっきりとした影を映すことができるのであります。こうした光を十分に反射する面は、現代的に言えば、スクリーンと呼ぶことができます。
 したがって、法華経本門において、仏の本地を久遠実成と明かしたということは、久遠五百塵点劫成道の仏身が本地で、それ以前の始成正覚の釈尊は、当時のインド社会というスクリーンに映った影となるのであります。更に、地涌の菩薩が、本地・久遠元初の自受用報身如来であるということは、久遠元初の仏が、法華経の儀式というスクリーンのうえに映した一つの影ということになるのであります。
 地涌の菩薩ばかりでなく、釈迦、多宝の二仏も、久遠元初の自受用報身即南無妙法蓮華経という本地の仏が、虚空会の儀式のうえに映し、あらわした影である、との仰せであります。
 これを、立場は違いますが私どもの生命に約して言えば(約すとは、立場からという意義)、私どもは様々な姿=影を映しております。家庭というスクリーンでは、一家の様々な社会をスクリーンとして、長という姿、会社というスクリーンでは、例えば課長、学会の組織というスクリーンでは大ブロック長、国際社会というスクリーンでは日本人という影、そして生物の世界をスクリーンとしては、一個の人間という影を映しているといえる。
 これらは”影”であるゆえに、スクリーンが揺れれば、影も揺れる。スクリーンはそのままでも、やがて消える影もあります。学生という影は、卒業によって消えるのであります。
13  では、消えないで、永続していく本体はいかなるものか。人間の過ちの根本は、仮にあらわれているにすぎない影を、自らの不変の体であるかのごとく錯覚してしまうところにあるといっても過言ではないでしょう。先に挙げたうち、人間であるということは、比較的根本に近いし、生き、行動していくうえで忘れてはならない原点であります。
 だが、それすら、より深く考えれば、生死流転する無常の存在にすぎない。ゆえに、この生老病死という流転、変貌の人間存在をみつめ、生死を超えて常住の自己の真実の姿を見いだそうとしたのが、仏教なのであります。そして、結論的に言えば、南無妙法蓮華経こそ、真の常住不滅の体であり、それが自己はもとより宇宙万物の実相であると究め尽くしたのであります。ゆえに、妙法蓮華経こそ”本仏”、それに対して、釈迦、多宝の二仏は”用の仏””迹仏”であると仰せられるのであります。
14  次に「経に云く」と、寿量品の文を挙げられております。「如来秘密」の「神通之力」で、「如来秘密」が体の三身をあらわし、これは本仏にあたる。「神通之力」は用の三身をあらわし、迹仏である、と。
 いずれについても”三身”ということを言われるのは、もとより天台の「一身即三身なるを名けて秘と為し、三身即一身なるを名けて密と為す」との釈をうけておられるからであります。
 この経文を文底から読めば、如来とは南無妙法蓮華経如来のことであり、秘密とは南無妙法蓮華経のことであり、その体は寿量文底の大御本尊そのものであります。神通之力とは、この南無妙法蓮華経如来、即御本尊の働きであります。
 「神通之力」を用の三身とすることについても、天台の『法華文句』に次のようにあります。
 「神通之力とは三身の用なり。神は是れ天然不動の理、即ち法性身なり。通は是れ無壅不思議の慧、即ち報身なり。力は是れ幹用自在、即ち応身なり」――すなわち”神”は法身、”通”は報身、”力”は応身で、用の三身となるのであります。
15  凡夫こそ体の三身であり本仏
 凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり
 そこで、凡夫と仏という対比した関係からみれば、凡夫が体の三身をあらわし、本仏にあたる。それに対比して、仏すなわち釈迦仏は本体の働きとしてあらわれた三身であり、迹仏なのである。
 ゆえに、釈迦仏は、我等衆生からみれば、主君であり、師匠であり、親であるところの三徳を本来的に備えた仏と考えられていたけれども、事実はその仏に三徳の力用を与えていたのは、体の本仏である凡夫にほかならない。
16  凡夫があくまでも「本仏」である。これに対して、釈迦仏をはじめ、経文に説かれるあらゆる仏は、妙法蓮華経の働きとしての「迹仏」にすぎない、ということであります。法華経の道理から言えば当然のことでありますが、それをこのように明確に言い切り、凡夫こそ本仏なりと断ぜられたところに、日蓮大聖人の教えが、末法万年の未来に投じた、不滅の力用と光明があるのであります。
 ここに、凡夫と仰せられたのは、別して日蓮大聖人の御事であり、日蓮大聖人が御本仏であられることを示されております。
 「御義口伝」に「末法の仏とは凡夫なり凡夫僧なり、法とは題目なり僧とは我等行者なり、仏とも云われ又凡夫僧とも云わるるなり」とあるとおりであります。
 ともに、総じて私どもは、当然、凡夫であります。その凡夫が、最も尊く、偉大であることを、日蓮大聖人が、自ら凡夫の姿を示してお説きくださっているのであります。
 あくまでも、日蓮大聖人の仏法は、人間が中心であります。
 「御義口伝」上の方便品「唯以一大事因縁の事」に、『法華文句』を引用して「衆生に此の機有つて仏を感ず故に名けて因と為す、仏機を承けて而も応ず故に名けて縁となす」と仰せのごとく、大聖人の御出現自体、苦悩の衆生があったればこそであります。
 御本尊の威光勢力、福徳が証明されるのも、迷える凡夫がいたればこそであります。また、その偉大な仏法を流布していくのも、社会の荒波にもまれながら戦う勇気ある人々がいるからこそできるのであります。
 過去の宗教において、究極的に尊厳であるとされたのは、神であり、超人格者としての仏でありました。人間の尊さは、この神の思寵と、仏の慈愛に包まれているという条件のもとに、初めて認められるものであったのです。
17  ゆえに、過去の宗教のほとんどは、神あるいは仏に直接仕える人々を特権的存在とし、世俗の人間、一般庶民を卑しい存在としたのであります。更に、世俗の人々についても権力者は特別の恩寵をうけるとして、たとえば王権神授説のように、世俗権力に宗教的権威を付し、これを強化する結果となりました。したがって、洋の東西を問わず、民主化の過程は、往々にして、宗教否定、宗教の無力化の過程でもあったのであります。
 しかしながら、宗教の喪失、信仰の消滅がもたらしたものは、物質優先主義による人間精神の不安定であり、人間的信頼の絆の弱体化による危機的状況であります。このため、再び宗教的信仰の復活が心ある識者によって叫ばれ始めているのが、二十世紀後半の現代の状況でもあります。
 だが、過去の宗教を復興することが、問題の解決につながるものでないことは、この歴史の推移をみれば明らかであります。
 人間自身を妙法の当体として、いかなる人も尊厳なる仏になることができるとする、日蓮大聖人の仏法こそ、人類の求め始めている問題に、真っ向から答えた大宗教なのであります。
 西欧において、ある近代思想家は「神が人間をつくった」という聖書の教えに反対し、「人間が神をつくったのだ」と叫んだと聞きます。
 いま日蓮大聖人が「釈迦仏が我ら凡夫のために主師親の三徳をそなえていると思っていたらそうではない。仏に三徳をとうむらせたのは、我々人間なのである」と断言されているのは、更に近代的であり、革新的思想と言うべきではないでしょうか。
 この一事をもってしでも、日蓮大聖人の仏法が、人間不平等の基盤となった過去のあらゆる宗教と一線を画する、未来永久に人類が根本としていくべき偉大な宗教であることを、強く確信していただきたいのであります。
18  迷いを悟りに転ずるのは
 其の故は如来と云うは天台の釈に「如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり」と判じ給へり、此の釈に本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり、然れども迷悟の不同にして生仏・異なるに依つて倶体・倶用の三身と云ふ事をば衆生しらざるなり
 そのわけは、如来ということについて、天台大師が『法華文句』の中に「如来とは十方三世の諸仏、二仏、三仏、本仏、迹仏、これら一切の仏を通じて”如来”という」と解釈している。この解釈で本仏というのは凡夫のことを指すのであり、迹仏というのは釈迦仏を指すのである。しかしながら、仏は悟りを開き、衆生は迷っているというように、衆生と仏との間には厳然と相違があるので、仏も衆生もその究極においては、ともに「倶体・倶用の三身」であるということを、迷える凡夫は自覚しないのである。
19  天台大師の『法華文句』の文を挙げておられます。寿量品の「如来寿量」の”如来”を釈したもので、この如来とは、十方三世の諸仏、二仏、三仏、本仏、迹仏の通号である、と。二仏とは、真仏応仏で、真仏とは、ありのままの仏、応仏とは、衆生救済のために応現した仏ということであります。三仏とは、法身、報身、応身の仏ということです。
 如来とは、仏という意味であり、哲学的にいえば「如如として来る」ということで、瞬間瞬間の生命を、如来とも言い、仏とも言うのであります。
 この生きている、瞬間瞬間の生命――それは、仏像でも絵像でもない。大宇宙の生命の律動を一点に凝縮させつつ、現に発動している生命そのもの、これが如来なのであります。
 南無妙法蓮華経如来とは、南無妙法蓮華経という元初の大生命を、瞬間瞬間に涌現している仏のことであります。
 如来とは、一般的に言って、仏の通号であり、それは、何も釈尊一人ではない。経文には、迦葉仏、阿閦仏等、たくさんの仏が出てきます。だが、別しては、久遠元初の自受用身如来のことを言うのであります。
 さて、ここでこの釈を引かれた元意は、本仏、迹仏という点にあります。
20  「此の釈に本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり」と仰せのように、凡夫が本仏であり、経文に説かれた仏は迹仏にすぎない、というのであります。
 今、この本仏、迹仏ということを、寿量品に即して考えれば、このように大聖人が言われた意味は、おのずから明らかであります。
 すなわち、寿量品では、釈尊が、インドに応誕して初めて成道した、いわゆる始成正覚の仏ではなく、実は久遠五百塵点劫の昔に成道したのであると明かします。そして、この久遠成道の仏を「本仏」とすることは、ご存じのとおりであります。
 してみると、釈尊は、インドに応誕して、三十にして成道する以前、すなわち凡夫であった時も、仏であったことは間違いない。むしろ、三十で成道したという仏としての姿こそ、仮に示した”迹”の仏と言わなければならない。更に、寿量文底の意で言えば、五百塵点劫で成道した仏というのも”迹”の仏であります。
 「御義口伝」の「第一南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事」に「惣じて伏惑を以て寿量品の極とせず唯凡夫の当体本有の儘を此の品の極理と心得可きなり、無作の三身の所作は何物ぞと云う時南無妙法蓮華経なり」とあるごとく、凡夫の当体、本有のままで、南無妙法蓮華経如来であられるのが、御本仏であります。
 ゆえに「本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり」と仰せなのであります。
21  しかしながら、同じく凡夫といっても、衆生と仏との間には、厳然として相違がある。それは、悟っているのと迷っているのとの違いである。「悟るを仏、迷うを凡夫」ということであります。もう少し厳密に言えば、悟っている凡夫が仏であり、迷っている凡夫が衆生ということになります。
 日蓮大聖人は、御自身、南無妙法蓮華経の当体であることを悟られている。私どもは迷いの凡夫であります。
 この「迷い」を「悟り」へと転ずるものは何か、それは「信」の一字であります。
 「倶体・倶用の三身と云ふ事をば衆生しらざるなり」とは、先の御文に「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」とあったのと関連しております。
 迷っている凡夫は、自身が実は仏であると知らないために、経文等に説かれている仏が本当の仏だと思い込んでいる。
 したがって、凡夫が総じての体の三身の仏であり、「倶体・倶用の三身」であるということを知らないのであります。
 この「倶体・倶用」ということでありますが、これは、体とともに必ず働きがあり、働きとともに体があるということであります
 仏法でいう「体」とは、「体」だけであるものではなく、必ず「用」をともなっているのであります。「用」を取り払って「体」だけ取り出すことはできないのであります。
 例えば、池田大作という「体」は、池田大作という所作にしかあらわれないし、またその所作は、ぜんぶ池田大作という「体」の表現なのであります。
 南無妙法蓮華経という「体」は、森羅三千の「用」をともなっております。
 ゆえに、私どもが、南無妙法蓮華経という大生命をば、我が胸中に顕現していくならば、一切を動かし、一切を働かせていくことができるのであります。
 この倶体・倶用の「体」とは、諸法実相の「実相」ということであり、「用」とは「諸法」に当たります。
22  一切の衆生が妙法の当体
 さてこそ諸法と十界を挙げて実相とは説かれて候へ、実相と云うは妙法蓮華経の異名なり・諸法は妙法蓮華経と云う事なり
 そこで、凡夫の迷蒙を啓くために、その諸法、すなわち十界の依正の当体そのままが実相であると説いたわけである。
 実相というのは、妙法蓮華経の異名である。したがって、実相はそのまま諸法とあらわれるから、その諸法は、すべて一法も残さず妙法蓮華経のすがたなりということになる。
23  したがって、凡夫の当体がそのまま妙法蓮華経であることを明らかにするために、諸法という言葉によって十界を示し、その諸法、すなわち十界の依正の当体が、そのまま実相であると説かれたのであるということであります。そして、実相とは妙法蓮華経の異名でありますから、諸法すなわち十界の依正の当体、ことごとく一法も残さず妙法蓮華経の姿なりということになるのであります。
24  地獄は地獄のすがたを見せたるが実の相なり、餓鬼と変ぜば地獄の実のすがたには非ず、仏は仏のすがた凡夫は凡夫のすがた、万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりと云ふ事を諸法実相とは申すなり
 地獄は地獄の姿そのままをあらわすのが、実の相である。その地獄の相が餓鬼と変じたならば、それはもはや地獄の実の姿ではない。仏は仏の姿、凡夫は凡夫の姿等々、万法の当体そのままの姿が実相であり、妙法蓮華経の当体であるということを「諸法実相」と言うのである。
25  地獄は地獄の姿そのままが実の相、実相であります。餓鬼と変じたならば、もはや地獄の実の姿ではない。仏は仏の姿、凡夫は凡夫の姿等々、万法の当体そのままの姿が実相であり、妙法蓮華経であるということを「諸法実相」というのであります。
 これは、過去の仏法観を根底から打ち破るものといわなければならない。従来、仏教の思想は、仏や菩薩、あるいは二乗のみを尊しとして、他の衆生、特に地獄、餓鬼、畜生にいたっては、卑しむべきもの、忌むべきものとしているように理解されてきました。そのあらわれが、餓鬼や畜生の名称が人を蔑んで呼ぶ名や、罵る場合に使われてきたという事実であります。
 もっと現実的、社会的場面で言えば、貧窮し、みじめな生活を余儀なくされている人々を卑しみ、忌みきらう、冷酷な風潮を生みだしてきたことも否定できません。
 法華経の「諸法実相」の原理は、これを真っ向から打ち砕いて、地獄、餓鬼、畜生等の衆生も、仏、菩薩も、等しく妙法の当体であり、平等に尊極の存在であると説いたのであります。
 更に、仏法の真髄は、地獄、餓鬼、畜生等の九界の生命をいかにすれば、尊極の存在とすることができるかという方途も説いているのであります。御本尊におしたための九界の衆生は、ことごとく妙法の光に照らされて、本有の尊形となっております。
 この御本尊と私どもの生命が冥合すれば、仏界所具の地獄界、仏界所具の餓鬼界として、悠々と九界の生命を自在に操縦していくことができるのであります。
 当然、悲しみも、苦しみも、欲望もある。それでありながら、それは仏界という大海の上にわき立つ波として、最高の人間らしい生活を彩る働きとなってくるのであります。
 ゆえに「諸法実相」を事実のうえで明言できるのは、御本尊を建立された日蓮大聖人の仏法にして、初めてできうることなのであります。
26  実相の究極は南無妙法蓮華経
 天台云く「実相の深理本有の妙法蓮華経」と云云、此の釈の意は実相の名言は迹門に主づけ本有の妙法蓮華経と云うは本門の上の法門なり、此の釈能く能く心中に案じさせ給へ候へ
 天台大師も「実相の深理は、本有常住の妙法蓮華経である」と述べている。この文意が示すところは「実相」の名言は迹門の立場から表現したもので「本有の妙法蓮華経」といっているのは、本門の立場から示した法門なのである。このような解釈は、法華経の根本義にかかわる深い法門であるから、徹底して思索を重ね、把握していきなさい。
27  迹門方便品に「実相」の名で示されたものの本体は、本門寿量品にあらわれた妙法蓮華経にほかならないということを、天台の釈を挙げて裏づけられたところであります。
 「此の釈能く能く心中に案じさせ給へ候へ」と仰せのように、これは法華経の根本義にかかわる深い法門であります。というのは、天台は明確には言っておりませんが、この釈を大聖人の観心のうえで読めば、実相の究極は何かといえば、寿量文底の南無妙法蓮華経を示しているからであります。
 一往、法華経の経文の流れをみますと、法華経は、一切衆生の成仏のカギとなる三世諸仏の悟りの法を明かそうとしたのであります。方便品の初めに「諸仏智慧甚深無量」とあるのがそれであり、方便品に示されたその法の内容が「諸法実相、十如是」だったのであります。
 ゆえに、声聞の弟子の中でも智慧第一と称せられた舎利弗は、ただこの「諸法実相」の説法で得脱し、他の中根、下根の声聞達も、その後の譬喩説、因縁説によって、次々と得脱したわけであります。この在世の弟子、声聞達に対する説法のあと、法師品、宝塔品以下は、仏滅後の未来に妙法蓮華経を誰が弘めるかと釈尊が呼びかけ、それにこたえて、迹化の菩薩達が名乗りでる、しかしこれを釈尊は制止し、大地から本化の菩薩を召しいだして、この地涌の菩薩に法を付嘱する、という流れで展開されます。
28  したがって、法師品、宝塔品以下は、文のうえからみますと、滅後弘通の人を定めることを目的として展開されたことは明らかであります。しかしながら、ただそれだけではない。再往これをみれば、そこには、滅後弘通の法体そのものが明かされている。これが「本有の妙法蓮華経」であります。
 在世の声聞の弟子達は、過去に下種・結縁がありますから、すなわち本己有善のゆえに、法華経の会座では「諸法実相」の説法、ないし「三車火宅の譬」、あるいは三千塵点劫の結縁の説法を問いただけで、種子を覚知することができたのであります。
 これは、一つのたとえで言えば、かつて歩いたことのある道で、記憶が定かでなく、迷っている場合に似ています。大部分は思い出せるが、一つだけ曲がり角がどこだったか分からない場合、その一カ所だけ教えてもらえば、あとは迷わずに目的地へ行けるのです。舎利弗が「諸法実相」だけで得脱できたのは、これと同じようなものと考えてよいでしょう。
29  ところが、未来、特に末法の衆生は、過去に下種・結縁のない衆生、つまり本未有善の機であります。かつて歩いたことのない道は途中のどこをどのように教えても、目的地を思い出させることはできません。目的地そのものを示さなければならない。この目的地が「本有の妙法蓮華経」です。
 法華経の儀式の中で、法師品以後、特に宝塔品で多宝の塔があらわれ、そこに釈迦と多宝の二仏が並座し、更に十方の諸仏が来至し、本化の菩薩が涌出して展開された、虚空会の儀式は、寿量品で魂を得て、そのまま「本有の妙法蓮華経」を表現していたのであります。
 とはいえ、釈尊の法華経二十八品は、本門といえども、この「本有の妙法蓮華経」にいたる道を図に書いて示したようなものであります。
 「本有の妙法」自体を具現化され、末代幼稚の凡夫に受持させてくださったのが、末法御本仏日蓮大聖人なのであります。
 このように、同じく「諸法実相」と言っても、迹門、本門、文底独一本門の立場で、読み方が異なります。
 文底独一本門に約せば、御本尊そのものが諸法実相であります。更に信心に約せば、大御本尊を受持しぬいた時に、妙法の生命が涌現し、幸福の諸法実相、人間革命の諸法実相として、我が人生が建設されてくるのであります。

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