Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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一切の現象は妙法の姿  

講義「諸法実相抄」「生死一大事血脈抄」(池田大作全集第24巻)

前後
22  以上の妙楽大師の言葉の意味するところは明確であり、疑問をさしはさむ余地はない。したがって「諸法実相」の意義は、十法界の姿が妙法蓮華経であるということを明かしたところに存するのである、との仰せであります。
 法華経は、この真理を、あるいは法説し、あるいは譬喩説し、あるいは因縁によって説いて、在世の声聞の弟子達を得脱せしめたのち、滅後の未来のため、多宝の塔が涌現し、虚空会の壮大な儀式が展開されていきます。「釈迦多宝の二仏と云うも」うんぬんの文は、この本門の虚空会において、多宝塔中に釈迦、多宝の二仏が並座しますが、そこにあらわされたものも、所詮は妙法蓮華経にほかならないということであります。
 この御文は、非常に深い含蓄のある表現になっています。一つは、釈迦、多宝の二仏といっても、妙法蓮華経の一法が衆生を利益するその働きを、具体的な仏という形によってあらわしたのであるということです。これはこのあとにでてくる「仏は用の三身にして迹仏なり」に対応するもので、経文に説かれる荘厳な仏も、結局は、大宇宙に遍満する仏界という妙法蓮華経の働きを表現したものであるということです。したがって、仏と同じく、十界すべて、妙法蓮華経のあらわす生命の働きであるというのが、ここに仰せの元意なのであります。
 もう一つは「宝塔の中にして・(釈迦、多宝の二仏が)うなづき合い給ふ」とあるように、虚空会の犠式によって、釈迦、多宝の二仏が説きあらわした法とは、妙法蓮華経であるということです。釈迦が説き、多宝が合意し証明したことを「うなづき合い給ふ」と仰せられています。
 こうした宝塔の儀式が何をあらわしたものであるかについて、戸田先生は次のように講義をしています。
 「釈迦は宝塔の儀式を以て、己心の十界互具一念三千を表しているのである。日蓮大聖人は、同じく宝塔の儀式を借りて、寿量文底下種の法門を一幅の御本尊として建立されたのである。されば御本尊は釈迦仏の宝塔の儀式を借りてこそ居れ、大聖人己心の十界互具一念三千――本仏の御生命である。この御本尊は御本仏の永遠の生命を御図顕遊ばされたので、末法唯一無二の即身成仏の大御本尊であらせられる」と。

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