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日蓮大聖人・池田大作

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一切の現象は妙法の姿  

講義「諸法実相抄」「生死一大事血脈抄」(池田大作全集第24巻)

前後
1  問うて云く法華経の第一方便品に云く「諸法実相乃至本末究竟等」云云、此の経文の意如何
 問う、法華経の第五巻・方便品第二に「諸法実相というのは、いわゆる諸法の相・性・体・力・作・因・縁・果・報、そして本も末も究竟して等しく実相である」と説いているが、この経文の意義はどういうことか。
2  「諸法実相」の文は、法華経迹門の肝要であり、天台仏法においては一代仏教の要とし、一念三千法門の依処としたものであります。
 本抄をいただいた最蓮房日浄は、もと天台宗の学僧と言われております。おそらく天台家における肝要の法門として「諸法実相」については知っていたのでありましょう。しかし、天台の理の法門では十分に理解することができず、大聖人に、その深い元意をうかがおうとして質問したものと思われます。
3  答えて云く下地獄より上仏界までの十界の依正の当体・ことごとく一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりと云ふ経文なり
 答う、十界の中の、下は地獄界から上は仏界にいたるまでの十界の依報である非情の草木国土、そして十界の正報である有情の衆生も、すべてそのまま妙法蓮華経の相であることを説き明かした経文である。
4  難解な「諸法実相」の意義を、明快にズパリと答えられております。
 ”諸法”とは、この現実世界の中に、様々な姿をとってあらわれている一切の現象といってよい。”実相”とは、文字通り実の相であります。
 「諸法実相」とは”諸法”がそのままで”実相”であるということで、したがって、大宇宙の千変万化の姿が、すべて、妙法蓮華経のあらわす姿であるということになります。
 換言すれば、地獄界という世界すなわち依報も、地獄界に住する衆生つまり正報も、その生命の究極のすがたは妙法蓮華経である。餓鬼界の依報並びに正報も、妙法蓮華経である。畜生界も、修羅界も、更に菩薩、仏もみな同じである。これが「諸法実相」の意味するところなのであります。
 また、諸法の実相とは、諸法の中に実相が含まれるのでもなく、逆に実相の中に諸法が包まれるものでもないのです。更には、諸法の奥底にあって、万象を統一する実体を立てるのでもないのです。
 例えば、西洋の哲学や仏法以外の宗教では、諸法の奥底に、諸法を離れて、真理や実体、本質を求めてきた。キリスト教の場合、宇宙森羅万象を統一する根源の実体を「唯一絶対神」と立て、諸法から遠く離れたかなたに、究極の真理をおいたのであります。その結果、神と人問、神と万象との聞に断絶が生じ、その間にあって仲介する人間の権力や教会の力が大きくなり、ついに民衆を隷属させることとなったことは周知の事実であります。
5  これに対して、仏法の偉大性は、現実そのものに即して、真理を見いだすところにある。あくまで、現実の一個の人間や事物を徹底的に凝視して、そこに真実を発見するのであります。それゆえ、諸法実相は、森羅万象の個々の事物や人間に即して、その実相を洞察していく哲理なのであります。
 諸法に即して実相、実相に即して諸法という相即の関係にあるのが、諸法実相という哲理の不可欠な観点であります。この関係を見誤ると諸法実相は分かりません。
 さて、大宇宙の一切の現象、つまり太陽や月が昇り、また地平のかなたに沈みゆくのも、大海の潮が満ち干するのも、木々が風に揺れ動くのも、その真実ありのままの姿は、仏法の眼でみていくならば、ことごとく妙法蓮華経の所作なのであります。
 この「諸法実相」の説法を爾前経と相対して申し上げれば、”諸法”という現象面だけにとらわれ、差別観に陥ったのが爾前経でありました。この諸法つまり差別相が、その究極においてそのまま共通の妙法という実相であることを明かしたのが、法華経の「諸法実相」であります。
 ここに「行布を存する爾前権教」と「円融の法華経」との相違がある。このことはまた、一切衆生が差別なく成仏しうるという、仏法の平等大慧の法理に通ずるのであります。
 しかし、この法華経迹門の、ただ平等普遍の実相を知っただけでは、いまだ”理”であります。法理を知り、これを実践化したのが、本門の”事”の法門なのです。
6  これを理解するために、一つの考え方として、ニュートンの万有引力の法則を例にとってみたい。万有引力の法則は、物理学の法則であり、そのまま結び付けて考えることはできませんが、宇宙を貫く一つの原理であることに違いはない。ニュートンが発見するといなとにかかわらず、万有引力の法則はあり、それに従って万物は運動している。太陽や月、星の運行も、潮の干満も、リンゴが木から落ちるのも、物理学の眼でみるならば、一切が万有引力の法則に従っているのであります。法則を知らない人からみれば、単にリンゴが熟れて地面に落ちたとしかみえないとしても、物理学の眼からみるならば、その実相は、地球という物体とリンゴという物体の聞に働く力関係であると映るのでありましょう。
 この法則は、それを知っている人にも、知らない人にも、平等に働いているものでありますが、すべてに働いているというだけであっては、まだ”理”にすぎない。また、それを知ったとしても、知っただけにとどまれば、それもまだ理の段階であります。その法則を知って活用するところに、飛行機や宇宙ロケットのような価値創造が生まれてくる。これを”事”といってもよいでありましょう。
7  仏法の眼からみるならば、宇宙の一切の運行の、その真実の相は妙法蓮華経であります。凡夫の眼には、木々が揺れ動いているのみであっても、仏の眼には、妙法の妙なる旋律であり、太陽の輝きも、生命を育む妙法の働きの一分であります。
 したがって、私ども一人一人の生命も、一切妙法によって構成され、妙法のリズムに従って活動しているといってよい。ただし、そのことのみにとどまればまだ理であり、それを知らず、更には妙法に冥合することを知らない人は、不幸から不幸へと、暗きから暗きへとおもむくのみでありましょう。
 また、たとえ諸法実相の哲理を知ったとしても、単なる観照の哲学に終われば、それも理の範疇にとどまる。
 それを希望の方向へと向け、価値創造し、幸福へと蘇生させていく方法として、日蓮大聖人は御本尊を顕されたのであります。すなわち、諸法は実相であることの法理を、日蓮大聖人の魂魄をとどめて御本尊という当体のうえに具現化されたのであります。それは、もはや諸法実相という法理ではなく、日蓮大聖人の御本仏の生命それ自体の諸法実相であります。御本尊を「事の一念三千」と申し上げるゆえんは、ここにあるのであります。
 ゆえに、諸法実相とは、一往は、諸法は、そのまま妙法蓮華経という真実の姿であるという観照の哲学のようでありますが、再往、文底観心のうえから言えば、御本尊こそ諸法実相という大宇宙の縮図であり、大聖人の仏法においては、諸法実相とは即御本尊の異名なのであります。
8  妙法の一法において依報も正報も連続
 依報あるならば必ず正報住すべし、釈に云く「依報正報・常に妙経を宣ぶ」等云云
 草木国土という依報が存在するならば、そこには必ず有情という正報も住している。したがって、妙楽大師は『文句記』に「依報も正報も、常に妙法蓮華経を説き顕している」と解釈しているのである。
9  「依報あるならば必ず正報住すべし」とは、少し疑問に思うところであります。それは、私どもは法華経の教えによって、正報が根本で、それに応じて依報があると理解しているからであります。したがって「正報住するならば依報あるべし」と言われるべきところのように思える。
 この点について簡単に申し上げると、仏法においては、特に爾前経では一貫して、十界は、十種の異なる世界として説かれてまいりました。十界という言葉自体、十種の世界という意味であります。
 これについては、例えば地獄界は地の下一千由旬のところにあるとされた。また、餓鬼界は地の下五百由旬、畜生界は水・陸・空と言われる。修羅は海のほとり、海の底とされ、人は大地によって住し、天は宮殿と言いますが、須弥山の山腹から頂上、更にその上方の空というふうに考えられております。
 以上の六道のほか、いわゆる四聖についても、二乗は方便土、菩薩は実報士、仏は寂光土と、それぞれ、別々の世界に住すると説かれてきたのであります。
 このように、種々の依報が説かれるということは、当然そこに住する衆生も、種々に異なるということです。しょせん、住する衆生すなわち正報と、それぞれの国土すなわち依報とが一体になっているのが、生命の真実の在り方であります。すなわち、爾前経に、おいては、十界とは世界観であった。それが法華経において初めて、依正不二の生命観としてとらえられたのであります。
 「釈に云く」とあるのは、妙楽大師の『法華文句記』のことですが、「依報正報・常に妙経を宣ぶ」とは、この十種の依報、正報の生命は、いずれも妙法蓮華経をあらわしている、ということであります。
 すなわち仏法においては、依報、正報ともにその奥深いところでは断絶がないと教えている。依報が妙法蓮華経の当体であるとともに、正報もまた妙法蓮華経の当体なのであります。妙法蓮華経の一法において、依報も正報も連続しているのであります。
 あえて言えば、妙法の根源の一法が、一方において正報とあらわれ、それと同時に依報となってあらわれているということであります。すなわち生命という次元において、依報も正報も結合しているのであります。ゆえに、ここから正報の生命の変革が、依報の変革に通ずるという仏法の卓越した原理が生まれてくるのであります。
10  この依報、正報ということに関連して、理解の参考のために澤瀉久敬博士の論文を紹介しておきたい。それは環境と生物との関連について触れたものであります。博士はこう述べておられます。
 「ひとはともすれば一定不変の環境を考えそこへすべての生物は置かれていると考える。しかし人間には人間の環境があり、魚には魚の、また鳥には鳥の環境がある。そうして、人間各自にとって環境はそれぞれ異なるようにすべての生物には各自の環境がある。一言にして言えば環境は無数である。生物を離れて環境自体というようなものはどこにもない。生物が生物として次第に自己を生み出してゆくように、そうしてそれによってさまざまな生物がそれぞれ自己の形を明らかにしてくるように、環境もまた次第に生物から分離して環境となるとともに、それぞれの生物に対応するさまざまな環境として自己を示してくるのである」(『医学概論』第二部、誠信書房)
 博士はこのように、生物と環境とが対応していることを述べ、更に、この対応した両者の根源をたずねれば、同じ「原始存在」という一つのものに帰着すると主張しておられます。これは生物の世界への鋭い観察から結論づけられた真理でありますが、仏法で説く依正不二の原理の一つの証言であるとも考えられるのであります。
11  仏は架空の抽象的存在ではない
 又云く「実相は必ず諸法・諸法は必ず十如十如は必ず十界十界は必ず身土」
 また、同じく妙楽大師は、『金錍論』の中で諸法実相について分析し「実相というのは、必ず諸法とあらわれる、すなわち森羅万象として顕現する。
 その諸法は、必ず十如を具えている、すなわち万象の共通面をあらわす十の側面を伴っている。そして、その十如は、必ず十界の差別相がある。
 更に、その十界は、必ず身(正報)と土(依報)がそれぞれに存在する」と述べている。
12  同じく妙楽大師の『金錍論』の文であります。一念三千の構成について述べたものといえます。
 実相は、すでに述べたように常住の本体――妙法蓮華経であり、これは一念三千の”一念”ということができます。
 「実相は必ず諸法」とは、この妙法蓮華経、常住の一念は、必ず万法としてあらわれてくるということであります。
 次に「諸法は必ず十如十如は必ず十界十界は必ず身土」の文は、諸法、森羅万象の真実の相、すなわち実相を、十如、十界、身土に分析して述べたものであります。まず、十如は諸法、万象の共通面をあらわしています。いかなる法といえども、必ず十如是という十の側面を持っているということであります。
13  十如是とは、相、性、体、力、作、因、縁、果、報、本末究竟等です。
 この十如是をともなって顕現する森羅万象、諸法は、また必ず、地獄界から仏界にいたる十界の範疇におさめることができる。
 これは、諸法を差別面からとらえたものであります。
 例えば、地獄界にも十如是がそなわっていれば、仏界にも十如是がそなわっている。このように、十界のいかなる界であろうと、すべて十如是がそなわっているというのが、諸法に即する真実の姿、すなわち実相なのであります。
 更に「十界は必ず身土」――これは、十界のそれぞれの世界は、必ず、身(正報)と土(依報)のうえにあらわれるということです。つまり、依正不二の原理をあらわしております。
 以上のことを具体的に申し上げれば、例えば、私達の生命を考えた場合、その真実の相は妙法蓮華経の当体でありますが、それは私達の、日々生きているこの命を離れてあるものではない。朝起き、昼働き、夜眠る。その「諸法」の中に「実相」はあるのであります。妙法は幽霊のようなものではなく、実在するものであります。「実相は必ず諸法」なのであります。
14  また「諸法は必ず十如」について言えば、瞬間瞬間、動いている生命には、十如是がそなわっているということであります。生命といっても、如是相のない生命はない。この中にも「私には如是相はありません」という人はいないはずであります。必ず顔があり、形がある。また如是性もある。石のように、存在しているだけということはない。否、石でさえも如是性はある。如是体についても同じであります。
 また、如是力、作、因、縁、果、報、すべてをそなえております。誰人にも、その人でなければ持っていない「力」がある。そして、それを周囲に及ぼしていく「作用」も持っているのであります。自己の中にある「因」、外界との関係である「縁」、そして、それらがもたらす生命内在の「果」、外界にあらわれる「報」と、一切を私達は持っております。
15  更に、最初の相から終わりの報にいたるまで、一貫して等しい生命活動を展開している。これが本末究竟して等しいということであります。
 したがって、実相といっても、諸法、また十如をそなえていなければ、実相ではなく虚相と言わざるをえない。
 例えば、爾前経で説かれている仏にしても、大日如来などは、十如是がありません。だいいち如是相がない。いまだかつて、大日如来にお目にかかった方は、誰一人いないはずです。相、性、体をそなえていない仏に、衆生を救う力や作用もあるわけがない。これはキリスト教のゴッドやイスラム教のアラーにしても同じであります。
 本来、それらは、形あるものとしてあらわれるべきではないという考え方に立っているのでありましようが、諸法や十如のない実相はないというのが、法華経の主張であります。
 釈尊にしても実在の人物であるし、日蓮大聖人は、現実社会の真っただ中で、人々の苦しみを分かちながら戦われ、御自身の悟りの境界を、全人類に本末究竟して等しく与えていこうとされた御本仏であります。
 仏とは、また実相とは、決して架空の抽象存在ではなく、諸法、十如を厳然とそなえるものであるということを強調しておきます。
16  「十如は必ず十界」――十如といっても、私達の苦しみや喜びといった境涯と、決して無縁のものではないということであります。必ず十界のいずれかにあらわれてくる。逆に言えば、地獄界にも仏界にも、十如はあるということであります。
 今までは御本尊を知らず、苦しみの因、縁、果、報であった。そしてその人の生命も地獄の力、作であった。当然、その相、性、体は地獄でありましょう。喜びに満ちみちているのに、顔だけは恐ろしい形相で、ということもないし、悲しくてしょうがないのに、顔だけは大口をあけて笑っている、などという手品みたいなことはできません。そのように本末究寛して地獄にいた人が、御本尊を持って、幸福へ、喜びの人生へと変わっていく。因、縁、果、報も、如是力、如是作も、相、性、体も、ぜんぶ仏界に近づいていくのであります。
 ですから、如是相も福々しくなって、如是性も優しく悠々とした境涯になっていき、家庭をしっかりと支えていく如是力、如是作となり、因、縁、果、報が、幸福へ幸福へと転回していく。どうか、そういう十如是の人生になっていってください。
17  そして最後に「十界は必ず身土」、その十界は、我が身と我が土に必ずあらわれるということであります。
 地獄界の生命であれば、その身もその土も地獄界である。逆に、仏界の人の身も土も、仏界となっていく。そこに人間革命の意義がある。御本尊を持っているのに、家庭はめちゃくちゃ、隣近所のことも関係なし、というのでは「十界は必ず身土」にならない。皆さん方一人一人が、我が家を笑いさざめく金の城のごとくに築き、地域社会に清水のごとき潤いをもたらしていく時、大きくは世界という土を仏国にしていくことが可能でありましょう。またそうなっていただきたい。それが「十界は必ず身土」ということであります。
18  三大秘法の御本尊それ自体をあらわす
 更に、日蓮大聖人の文底仏法から、この文を読むとき、三大秘法の御本尊それ自体をあらわしているのであります。
 諸法とは、これまで述べてきたように、十界三千の諸法です。それが大御本尊にそのまま実相として縮図されているのであります。
 すなわち、十界三千の諸法が、南無妙法蓮華経の一法に具足した姿、これが御本尊の相貌であり、諸法実相なのです。具体的に言えば、中央の「南無妙法蓮華経日蓮」が、十界三千の諸法の実相です。左右の十界は、大聖人己心の十界であり、南無妙法蓮華経の光明に照らされた十界の本有の生命活動をあらわしています。
 まず、左右両側の上のほうに釈迦牟尼仏と多宝如来とありますが、これは仏界をあらわし、同時に、御本仏の脇士となっております。その両わきには、上行、無辺行、浄行、安立行の四菩薩がしたためられていますが、これは菩薩界をあらわしている。それから、舎利弗、迦葉等は縁覚界と声聞界、大梵天王、帝釈天王、大日天王、大月天王、第六天の魔王等は天界、転輪聖王等は人界、阿修羅王等は修羅界、竜女等は畜生界、そして鬼子母神、十羅刹女等は餓鬼界、最後に提婆達多等は地獄界です。これらの十界の諸法に「必ず十如」を具していることは言うまでもありません。
 さて、その十界が「必ず身土」とは、もったいなくも御本尊という一つの草木の掛け軸(身)になり、御本尊がましますところ、例えば仏壇などは”土”に当たると考えられます。
19  又云く「阿鼻あびの依正は全く極聖の自心に処し、毘盧びるの身土は凡下の一念をえず」云云
 また同じく『金錍論』に「無間地獄の依報・正報は共に、仏自身の生命の中にあり、逆に仏の尊極の生命もまた、身も土も共に、凡夫の一念の外にあるものではない」とある。
20  同じく『金錍論』の文であります。
 無間地獄といっても、その世界も衆生も全く「極聖」――仏の自心、本然の生命の中にある。逆に「毘盧」すなわち仏の尊極の生命もまた、身、土ともに、凡夫の一念の外にあるものではない。
 十界互具の原理を、地獄界と仏界を代表として示したものであります。「極聖の自心」も妙法蓮華経であり、「凡下の一念」も妙法蓮華経であるがゆえに、仏の生命に無間地獄もそなわり、凡夫の一念に仏の生命が具足する、と拝すべきでありましょう。
21  釈迦、多宝も妙法の力用の表現
 此等の釈義分明なり誰か疑網を生ぜんや、されば法界のすがた妙法蓮華経の五字にかはる事なし、釈迦多宝の二仏と云うも妙法等の五字より用の利益を施し給ふ時・事相に二仏と顕れて宝塔の中にして・うなづき合い給ふ
 これらの、妙楽大師の釈義は明確であり、誰人も疑問をさしはさむ余地はない。ゆえに「諸法実相」があらわしている意義は、十法界の姿が妙法蓮華経以外のなにものでもないということである。釈迦、多宝の二仏といっても、妙法蓮華経の根源の一法が衆生を利益するその働きが、事相すなわち具体的な釈迦、多宝という二仏の形態にあらわれて、虚空会の儀式を行い宝塔の中でうなずき合ったのである。
22  以上の妙楽大師の言葉の意味するところは明確であり、疑問をさしはさむ余地はない。したがって「諸法実相」の意義は、十法界の姿が妙法蓮華経であるということを明かしたところに存するのである、との仰せであります。
 法華経は、この真理を、あるいは法説し、あるいは譬喩説し、あるいは因縁によって説いて、在世の声聞の弟子達を得脱せしめたのち、滅後の未来のため、多宝の塔が涌現し、虚空会の壮大な儀式が展開されていきます。「釈迦多宝の二仏と云うも」うんぬんの文は、この本門の虚空会において、多宝塔中に釈迦、多宝の二仏が並座しますが、そこにあらわされたものも、所詮は妙法蓮華経にほかならないということであります。
 この御文は、非常に深い含蓄のある表現になっています。一つは、釈迦、多宝の二仏といっても、妙法蓮華経の一法が衆生を利益するその働きを、具体的な仏という形によってあらわしたのであるということです。これはこのあとにでてくる「仏は用の三身にして迹仏なり」に対応するもので、経文に説かれる荘厳な仏も、結局は、大宇宙に遍満する仏界という妙法蓮華経の働きを表現したものであるということです。したがって、仏と同じく、十界すべて、妙法蓮華経のあらわす生命の働きであるというのが、ここに仰せの元意なのであります。
 もう一つは「宝塔の中にして・(釈迦、多宝の二仏が)うなづき合い給ふ」とあるように、虚空会の犠式によって、釈迦、多宝の二仏が説きあらわした法とは、妙法蓮華経であるということです。釈迦が説き、多宝が合意し証明したことを「うなづき合い給ふ」と仰せられています。
 こうした宝塔の儀式が何をあらわしたものであるかについて、戸田先生は次のように講義をしています。
 「釈迦は宝塔の儀式を以て、己心の十界互具一念三千を表しているのである。日蓮大聖人は、同じく宝塔の儀式を借りて、寿量文底下種の法門を一幅の御本尊として建立されたのである。されば御本尊は釈迦仏の宝塔の儀式を借りてこそ居れ、大聖人己心の十界互具一念三千――本仏の御生命である。この御本尊は御本仏の永遠の生命を御図顕遊ばされたので、末法唯一無二の即身成仏の大御本尊であらせられる」と。

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