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日蓮大聖人・池田大作

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「権威への信仰」を打ち砕く革命 イプセン『人形の家』

「若き日の読書」「続・若き日の読書」(池田大作全集第23巻)

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1  「生きた精神」との交流を求めて
 青年は「希望の声」を求めている。「魂の声」に敏感である。フランスの作家ロマン・ロランも、人生と芸術に悩む、そんな無名の一青年であった。彼は、老トルストイに指針を求めて手紙を書き、慣れないフランス語で返事を寄せて励ましてくれたトルストイを、生涯の師と仰いだ。
 そのロランには、もう一人、手紙を送り、精神の救いを求めた「希望の人」がいた。「近代演劇の父」とされるノルウェーの劇作家イプセンである。
 「私は一人です(中略)ときどき、ひどい孤独感に困惑して、われながら、どうにもならなくなります。本能的な動作で、あなたの方に手を差しのべることをお恕しください(中略)世界の生気のない、騒がしい沈黙のなかで、言葉の下にある生きた精神を聞きわけるとのできる人に言葉をかけることは一つの慰めであります」
 二十八歳のロランが、晩年にさしかかった六十六歳のイプセンに、どれほど深い信頼と敬慕の念を寄せていたか。のちにロランは「彼は半ば不随になった手で、私が入りつつあった若々しい戦闘を祝福した」と回想しているが、イプセンもまたロランに全魂の返事を書き、「希望の声」で応えたのであった。
 かつて、恩師戸田城聖先生を囲んでの勉強会で、イプセンをめぐり語りあったことがある。そのときの教材が、代表作『人形の家』であった。
 「男は強いばかりが能じゃない。横暴になるのでなく、たまには、こういう本も読みなさい」と、恩師は言われた。女性解放について、また微妙な女性心理・男性心理の綾までも、屈託なく語ってくださった。
 聞いていて、思わずうなずいてしまう人物観察の妙。その奥に、人間存在への深い洞察が光っていた。ロランと同じく、現実の悩みと格闘し、「希望の声」を求める青年たちが、限りない安心と活力を得た「生きた精神」の交流。それが戸田先生との語らいであった。
2  少年期に培われた革新の気質
 へンリク・イプセンは、南ノルウェーのシーエンという小さな町に生まれた。
 父は、木材などを扱う商人で、羽振りもよく、町の名士たちを、しばしばパーティーに招いたりして派手な社交生活を送っていた。しかし、父の浪費癖と投機の失敗のため、一家は、イプセンが十歳にならないうちに破産。家屋や倉庫・家畜まで売り払って郊外に移り、ついには、かつて自分が持っていた家を借りて住む状態にまで落ちぶれた。
 再起ままならず酒に走る父。じっと耐え忍びながらも新生活になじめず、無口になっていく母。イプセンは学校の成績もふるわず、語りあえる友もない。十五歳になって、薬局の見習いに出されたが、仕事の合間をみては、独り空想にふけるばかりだったという。
 その一方、地方新聞に風刺詩や、町の名士を揶揄した漫画を投稿したりする。あまりの辛辣さに嫌われることもあったが、幼少から得意だった文章や絵の才能を発揮した。のちの作品に見られるような、社会の矛盾を徹底的に暴かずにはおかない革新的な気質は、この少年期に形成されたといわれている。
 イプセンが、最初の劇を書き始めたのは、大学の医科を志望していた二十歳の時。二年後、完成原稿を持って希望に胸ふくらませ、首都クリスチャニア(現オスロ)を訪れた。が、出版社も劇場も冷たく拒絶。友人の援助で自費出版したものの、わずか三十部ほど売れただけで、世評には上らなかった。
 友人の下宿に転がりこみ、予備校に入る。学資欠乏のため、水を飲んで空腹をしのぐ日々が続いた。やがて受験に失敗し、進学を断念。自分には作家の道しかないと深く自覚したのは、このときである。
 「ぼくは芸術と愛でもって完全に自分の本領を発揮したい、そしてそれから‥‥死にたい」。同じころ、妹に語った言葉に、芸術の「戦人」イプセンの原点を見る思いがする。
 十九世紀の初め、ノルウェーは列強によるヨーロッパ再編成の動きのなかで、デンマークの支配からスウェーデンの支配へと移された。イプセンが生きた時代は、このスウェーデンによる支配の世紀と、ほぼ重なる。
3  二十九歳でノルウェー劇場の監督に招かれた彼は、外国文化に従属しない、ノルウェー独自の国民演劇を確立しようと尽力した。ノルウェーの文化の独立が、スカンジナヴィア諸民族の、真の「融合」と「共存」につながると確信していたからだ。しかし、現実は厳しかった。劇場は経済的に行き詰まり、五年後に破産。危機を訴える論文を発表し、国会にも援助を求めたが、無駄だった。
 やっとの思いで負債を片づけると、もはやノルウェーに、イプセンの安住の地はなかった。逃れるようにして故国を去り、デンマークを経てイタリアに入る。一時的な帰国を除き、以後二十七年間にわたる国外生活が始まった。
 「ルウェーにいたときは、いつも群衆の笑い者にされているような気がした」と、彼はローマで語った。しかし、決して「逃げた」のではなかった。イタリアの地から『ブラン』『ペール・ギュント』というす、ぐれた作品を相次いで発表。その主人公に、ノルウェー人の偉大さへの希望をこめたのである。
 彼は、民衆への「覚醒」の叫びをやめなかった。彼にぶつけられた無理解の嘲笑は、逆に彼の作品の「先駆性」を証明した。
 「この二作品の主人公こそノルウェー人の典型です」「イプセンの影響を受けないノルウェー人がいたとしたら、それはいったい、どんな人間なのか想像すらできません」
 現在、私と対談集の編纂を進めている同国の世界的な平和学者ガルトゥング博士も、こう述べておられた。
4  欺瞞を根源的に告発する姿勢
 「北欧のイプセン」を「世界のイプセン」へと高めたのは、五十一歳の時の作品『人形の家』である。一八七九年、デンマークで初演された。
 主人公は、小鳥のように愛され、平和な生活を送っている弁護士の妻ノラ。夫ヘルメルの病気を治そうと、父親の署名を偽造してまで借金をし、秘密のうちに返済しようとしていた。ところが、ある事件が起こる署名の偽造をたてに貸し主に脅迫され、借金の秘密を、ヘルメルが知ってしまったのだ。ヘルメルは、妻の苦衷を思いやるどころか、自分の社会的地位が脅かされることを恐れ、ののしる。夫にとっては、妻の真心より自分の名誉や世間体のほうが大事であった。
 このときノラは、はっきりと知る。自分がじつは夫に従属し可愛がられるだけの「人形」でしかなかったこと、また、ほかでもない自分自身が、三人の子どもを「人形」扱いしていたことを。そして、何より「人間」として生きたいと願い、子どもたちをも置いて、家を出ていく──というドラマである。
 この作品は、発表されるや、世界各国で囂々ごうごうたる論議を呼び、婦人問題の書として取り上げられた。そして「結婚は神聖にして侵すべからざるもの」「家庭における夫の地位は不可侵」という当時の社会通念を大きく揺るがした。「『人形の家』の話、いっさいお断り」という張り紙をする家まで現れたという。
 日本初演は、明治四十四年(一九二年)九月二十二日。この三週間まえには、日本で初めて、女性のみによる文芸雑誌『青鞘せいとう』が誕生した。「元始、女性は太陽であった」(戸塚らいてう)という普遍の響きを帯びた、同誌の創刊宣言とともに、『人形の家』は日本においても、新しい女性の時代の到来を告げる象徴となったのである。
 しかし世評というものがつねにそうであるように、『人形の家』が「ノラの家出は是か非か」といった類の、センセーショナルな論議の的にされたあと、あまり掘り下げられずにきた感は否めない。女性解放運動にしても、たんに制度や慣習からの解放、自由奔放さを追求するだけならば、権利の要求のみが自己目的化し、肝心の「人間の幸福」など、どこかへ忘れ去られてしまうだろう。
 イプセンが問うているのは、もっと普遍的な課題ではなかろうか。結婚にかぎらず、近代人のあらゆる人間関係を蝕んでいるある種の欺瞞性に対する根源的な告発とはいえまいか。それは、のちにローレンスが「現代人は結び付きに耐えられるか」として鋭く突きつけている文明の病理でもある。
 ノラは「人形の家」に住む自分を「幸せな妻」であると疑わなかった。優しい夫、可愛い子ども、日々の生活に事欠かぬ経済的ゆとり‥‥、そうした日常性が、いかにもろいガラス細工のようなものであるかなど、いっさい疑ったこともなかった。
 仏典には「無常の虎のなく音は耳にちかづくといへども聞いて驚くことなし」(人生の無常は、獰猛な虎のように恐ろしいはずなのに、その「声」が近づいてきても、人は聞いて驚くことがない)とある。どんなに世の無常を聞かされても、自分のこととは、なかなか思えない。それが凡人の悲しさであるのかもしれない
 。
 トルストイが『イワン・イリイチの死』に描きだしたのも、一つには、無常なるもののうえに築かれた人生の虚しさに気づきながら、それを認めまいと抵抗する人間の、極限の葛藤と苦悩であった。
 地位・業績・世評‥‥世間で一応の成功を収めた判事イワン・イリイチは、ある事故が原因で死の病に臥し、自分が拠って生きてきたところのものは何であったかと煩悶する。その果てに彼は、それらすべてが、じつは「生をも死をも蔽いかくしていた恐ろしい巨大な欺瞞」であったという結論をみずからに下すのである。
 ノラを家出へと膨りたてたのも「今までの生活はいったい、何だったのか」という、底知れぬ「喪失感」「無常感」であったはずである。みずから、それと知らずにひたっていた華美の世界。夫の心ない一言で、その「無常」なることを骨身にしみて知ったときの衝撃は、彼女の価値観を一変させてあまりあった。
5  「運命」との戦いこそ「人間」
 ドラマの終盤、ノラとへルメルのあまりにも有名なやりとり──。
 「お前は自分の、いちばん神聖な義務を放棄するんだぞ」「夫と子供たちに対する義務じゃないか?」。家を出ょうとするノラに、ヘルメルが言う。
 「あたしには、同じように神聖な義務がほかにあるわ」
 「そんなものはない。どんな義務だ?」
 「あたし自身に対する義務よ」
 「お前は何よりまず妻で、母親だ」
 「あたしは、何よりもまず人間よ、あなたと同じくらいにね」──
6  こうして、ノラは、必死に懇願し慰留するへルメルをふりきって、家を出る。この三幕の劇の終幕が、ノラが扉を閉める、ドンという重い音で締めくくられているのは、作劇上の効果の点はさておき、何やら示唆的である。重い音は、古めかしい因習的過去との断固たる訣別ともとれるし、波乱の未来へのそこはかとなき予兆のようにも思える。ノラの旅立ちは、それほどに希望と不安が、未知の闇の中で交錯しており、決して明るくはない。彼女は、いわば狂瀾怒涛の逆巻く大海へ、素手で乗り出していったといってよいのだ。幸福の果実もたわわな、新たなる「人間関係」を求めて──。
 したがって、ノラのその後に大きな関心が寄せられるのも当然であろう。魯迅は、教育を志す若い女性たちに「ノラは家出してからどうなったか」と題する講演を行っている。恩師も「この『人形の家』の続編をどう書くかが、問題だ。各人が自分で書くのだ」と言われ、女性たちの自立した生き方に、また青年たちに、限りない期待を寄せておられた。
 「一人」の人間というものはない。「人」と「人」との間、すなわち「人間」が「人の世」を意味するように、人間は、人それぞれの繋がりから切り離されては生きていけない。信じ合う、愛し合うといった人間関係の機軸を成す言葉にしても、当然のことながら複数の人間の存在を前提としている。そうした人間社会にあって、「妻」であり「母親」であるまえに「人間」でありたいというノラの問いかけは、いかなる意味を持つのか。むしろ、真実の「妻」となり「母親」となるために、「人間」であらねばならないといったほうが正しいかもしれない。
 そうであるなら、「人間」であることの条件とは、「愛する」力、「信ずる」力を持っかどうかにあるといっても、決して見当違いではないはずだ。そして、こうした力ほど、心の容量の小さくなった近代人に欠落しているものはないように思われる。そのなかでの人間の芸術の運命──近代のすぐれた芸術家が一様に背負うことを余儀なくされた宿命的事情から、もちろんイプセンも例外ではなかった。彼の作品が晩年にいたるほどに、一面、悲観のトーンを深めているのも、それ故であろう。
 イプセン社会劇の凄みは、表面的には、婦人解放のようなリアルな社会問題を取り上げることによって、文明の深部に巣くう人間の運命ともいうべきものと、四つに組んでいる点にあるように思えてならない。
7  真の解放は「自身」の革命によって
 へルメルが骨がらみになっていたもの。イプセンは、その本質を「権威への信仰」(作品の覚書き)と喝破した。また、友人に宛てた手紙に、彼はこう記している。
 「彼ら(=政治家たち)は単に政治面での、すべての表面的な特殊な革命を望みます。そんな革命なんて馬鹿げてます。大事なことは、人間の精神の革新です」
 イプセンが追求したのは、制度や法律といった外面の革命ではなかった。あくまで「人間の精神の革命」であり「人間の内面の解放」であった。「権威への信仰」が宿るのは人間の内部である。それを変革しないかぎり、いかなる解放も、幸福も成し遂げられない。
 人間の本源的な解放、すなわち「権威への信仰」を打ち砕く革命は、「人間自身の革命」から始まることを、彼は見抜いていたのである。
 この「人間の内面の変革」を、生命の次元にまで深く掘り下げ、「人間革命」の運動として具体的に示されたのが戸田先生であった。一人の人間における「人間革命」の波動が、一人また一人と覚醒させ、全人類の宿命転換をも可能にする一大潮流となりゆく方程式を、民衆のなかに、生活のなかに打ち立てられたのである。
 恩師は昭和二十八年(一九五三年)、婦人部への指針として「婦人訓」を贈られたことも忘れられない。先生は、一人の婦人の決意を会合で聞かれ、その原稿を「わたくしに寄贈してほしい」と頼んで、原文のまま発表されたのである。「予が永らく願望せる婦人の確信と一致せり」と、先生は、その前文に記してくださった。
 健気な庶民の発露をまっすぐに受けとめ、どこまでも大事にされる先生であった。崇高な「使命」に生きる女性の活躍を、誰よりも深く信頼されている先生であった。その恩師の姿を思い、私も十年後の一九六三年、婦人部の友の活躍をたたえる一文を贈らせていただいた。
 「あなたたちは、庶民の生活法の哲学者だ」「あなたたちこそ真の女性解放の先駆者だ」──この確信は今もいっそう、強く胸に響いている。
 ところで、イプセンの妻は、どんな女性であったか。興味を抱く人も多いだろう。
 名はスザンナといった。イプセンより八歳年下で、彼が三十歳のときに結婚した。二人は貧しかったため、二年以上も待って式を挙げた。一八五六年の婚約から一九〇六年のイプセンの他界まで半世紀、スザンナはつねに夫を助け、励まし続けたイプセンが詩作のぺンをおいたまま怠けて、画を描いていたりすると、彼を机に連れ戻し、仕事を続けさせたという。
 イプセン自身も「彼女は正にわたしにとって必要な性格の持ち主だ。非論理的ではあるが、強烈な詩的本能をそなえ、物の考え方が雄大で、つまらない心配をするのが大嫌いだ」と書いている。
 彼は、「男にない天才的な本能が女性にそなわっている」と信じていた。公衆の前でも同様に語っていた。彼がそう確信したのは、賢明な妻に対する、心からの尊敬と信頼があったからにちがいない。
8  哲学を求め、哲学によって輝く
 女性の力は大きい。可能性は計りしれない。女性の特質が存分に発揮されていけば、行き詰まった男性中心社会で喘ぐ男性をも解放することになろう。そうなれば男性の持ち味も、もっと生かされるにちがいない。「女性の解放」は「人間の解放」の半分ではない。その重みは「全体」にも匹敵することを知らねばならない。
 「女性の時代」はまた「哲学の時代」である。哲学を求め、哲学によって輝き、その事実の姿への信頼・共感が人間を結ぶ。
 その広がりが世界をつつみ、時代を励ましゆく未来を思うとき、そこに豁然と開かれた「人間革命」の大道を、イプセンも満面の笑みを浮かべて闊歩している姿を、私は確信をもって心に描かずにはおれない。
 ──ノルウェーの独立(一九〇五年)を見届けるかのように、その翌年、イプセンは七十八歳で生涯の幕を閉じた。オスロにある彼の墓には、ハンマー(鉄槌)のしるしが刻まれている。
 「重き槌よ、われに道を開け。山の心室に到達するまで」──若き日にイプセンが書いた「鉱夫」という詩の一節である。墓の鉄槌は、それを表したものだという。
 イプセンの作品は、作者が「退場」してしまってからも、人間社会の矛盾の山に、容赦なく「鉄槌」を下し続ける。粉々になった人間と人間をどう結びなおすか。そこに道を開く次なるドラマは、恩師が語ったように、今に生きる私たちが「自分で」綴り、演じるしかないのだ。

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