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日蓮大聖人・池田大作

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民衆に愛された哲人 エマーソン『エマソン論文集』

「若き日の読書」「続・若き日の読書」(池田大作全集第23巻)

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2  「コンコードの哲人」「アメリカ・ルネサンスの旗手」ラルフ・ウォルドー・エマーソン。
 卓越した思想家であり、哲学者であり、詩人であり、またよき教育者でもあった彼の著作は、私が青年時代に愛読した、忘れえぬ「友人」の一人である。いつでもひもとけるように、つねに近くの書棚に置いていたものである。
 戦後の焼け野原のなかで、精神の飢えを癒すかのごとく、いくどとなく頁を繰ったことが懐かしい。
 また、恩師戸田城聖先生からも、「エマーソンは、しっかり読みなさい」と勧められた。エマーソンの名とともに、そうした青春の日々が思い起こされる。
3  「変動する時代」の空気を吸って
 十九世紀が開幕して問もないころ、エマーソンは、ニューイングランドのボストンに生まれた。代々牧師を務めた由緒ある家系で、父親も著名な牧師であったが、八歳のときに、その父が五人の兄弟を残して亡くなり、苦しい生活を余儀なくされている。
 当時のアメリカは、いわば「変化の時代」にあった。産業革命によって社会は大きく変わりつつあった。また、伝統的な宗教も、科学の発達などにより、しだいに崩れていった。エマーソンは、そうした価値観が変動する時代の空気を呼吸しながら、育ったのである。
 少年時代、彼に影響を与えたものとして、温かな母の愛情とともに、教育熱心な叔母の存在が挙げられる。彼女は、幼いエマーソン少年に、「高い目的をかかげよ」「怖ろしくてできないと思うことを為せ」「崇高な人格は必らず崇高な動機から生れる」と、繰りかえし教え諭したという。
 後年、彼は、子どもを一個の人格として尊重した叔母の教育を「かけがえのない天の恵み」と述懐している。
 やがて、十四歳でハーバードに入学、古今の哲学や文学に親しんでいった。さらに神学部へと進み、二十五歳の若さでボストンの著名な教会(ユニテリアン派)の副牧師に就任する。
 ユニテリアン派とは、キリスト教の伝統教義である三位一体論に反対し、神性はあくまで単一であると主張する教派である。
 彼の巧みな雄弁術は多くの人びとを魅了し、その名声は急速に高まっていった。ほどなく正牧師が病気のため引退し、教会の全責任は彼の双肩に委ねられた。そのかたわらで、マサチューセッツ州議会上院の顧問牧師に選ばれ、ボストン教育委員にも選出されるなど、きわめて恵まれた人生の出航であった。
 その順風にただ帆をはるだけであったならば、哲人エマーソンは誕生しなかったであろう。しかし彼の胸中には、いかなる地位や名誉をもってしでも、かき消すことができない「内なる声」が、絶えず響いていた。
 彼のめざしていたものは、牧師という職業ではなく、あくまでも宗教者としての真の務めであったのである。「内なる声」は、理想と現実のはなはだしい乖離を、鋭く彼に告げていた。
 当時の教会には、権威によって課せられた「死んだ形式」が、根強くはびこっていた。また、孜々として集う貧しき人びとを見下すような空気も一部にあった。枯れ葉のごとく生命を失ったみせかけの儀式ばかりで、自発的な瑞々しい信仰の精神は、すっかり色槌せていたのである。
4  「実践とはただの形式ではない」
 あらゆる「宗教の権威」は「形式」を生み、その「宗教の精神」をみずから呪縛していく──。これまでの歴史のなかで、さまざまな宗教が、そうした歩みを繰りかえしてきた。そして、それは決して過去の出来事ではない現代の宗教のあり方をも、厳しく問いかけている。
 かつて私が対談した、今世紀最大の歴史学者トインビー博士は、この点を深く洞察し、語っている。
 「歴史に名をとどめてきた宗教を減ぼす一つの方法は、近代にとって受け入れがたくなっている形式のなかにこれを閉じこめておくことだろう」と。
 エマーソンもまた、この方程式を十分に知悉していた。それ故、惰眠を貧る教会と妥協することは、決してできなかった。彼の内なる炯眼は、幸福な結婚生活が妻の病死によりわずか一年半で破れたことや、愛する弟の発狂などの不幸を経て、ますます研ぎすまされていった。
 彼は、日記にこう記している。
 「宗教も、無関心のために滅びるばかりでなく、頑迷のために見事に滅びてゆく」
 「私たちの内なる神が、神を礼拝するのだ」
 「自分は時々、自分が牧師をしていることにいちばん反発するのは、自分のいちばんよい部分だと考える」
 「立派な牧師になるには、どうしても牧師の職を去ることが必要だと考えることがあった。この職業は、もう時代後れだ。時代が変っているのに、われわれは祖先のすたれた形式で礼拝していだ」
 彼は、聖餐式にパンと葡萄酒を用いることは廃止すべきであり、その儀式の権威を主張することもやめるよう、教会に提案した。教会側は、この改革案を拒絶。世論の騒然たる賛否の嵐のなか、彼は思索を深めるために一人、山に登る。
 みずからの「内なる声」に従うべきか、否か。激しい葛藤のすえ、彼は、大いなる決断を下す。
 「人間が心にいだく宗教とは軽信ではない。その実践とはただの形式ではない。それは一っの生命なのだ。人間の秩序と健全さだ。それは他から得たり、つけ加えたりされるものではなく、君がすでにもっている機能が、新しい生命を獲得することなのだ」と。
 この言葉にも表れているように、彼の求めた宗教とは、人格神への帰依といった既存の宗教思想に収まるものではなかった。今から百年まえ、日本でいち早くエマーソンを紹介した明治の評論家・北村透谷は、それを「自然教」と呼び、「彼は或意味に於ては無神論者なり、彼はしばしば『神』といふ語を人的神パーソニハイド、ゴット背馳はいちせる意味に用ひたり」「『ホール』なるもの、之を以て神とせり」と論じている。
 すなわち、彼にとっての「神」とは、宇宙に躍動する根源的な法則であり、普遍的な精神に迫るものであったといえよう。
 山を下りた彼は、真実の宗教者となるために、きっぱりと牧師職を退いた。二十九歳のときであった。彼は、その決意を一詩に託している。
5   私は自分から離れて生きることをすまい、
  他人の目でものを見ることをすまい、
  私の善は善であり、私の悪は悪なのだ。
  私は自由になろう。他人がよろこぶようにものを考える限りは、
  私は自由になり得ないのだ。
  私はあえて自分の道を自分でつくろう
6  ハーバード大学での講演の波紋
 悪しき権威の鉄鎖を断った彼は、一年間、ヨーロッパ各地を旅する。カーライルと親交を結んだり、コールリッジやワーズワースらと語りあうなど、有意義な時間をもったが、アメリカ以上に形骸化した宗教の実態には、失望せざるを得なかった。ローマで、ものものしい教会の儀式に接した彼は、「このような小間物の飾りと馬鹿殿さま的精神虚弱の中には、真の威厳はない」と一蹴している。
 人類が求める新しい「精神」とは何か。それを指し示すのが私の使命である──。帰国した彼は、ボストン郊外の田舎町コンコードに居を構え、いよいよ本格的な言論の闘いを展開していく。
 社会を、そして人間を変えていこうとする言論戦──。彼にとってその武器は、著作と講演であった。とりわけ講演は、彼の活動の中心ともいうべきもので、高齢のため動けなくなるまで、さまざまな場所を講演してまわった。まさしく、徹して書き、語りぬいた「言論の人」であった。
 戸田先生も、「未来を開きゆく私どもの運動は、思想戦であり、言論戦である。書きに書かねばならないし、喋りに喋らなければならない」と、つねに、私たち青年に語っていた。
 私のこれまでの著作やスピーチの活動は、この恩師の遺訓を、私なりに深め広げてきたものである。
 さて一八三八年、エマーソンは、その宗教思想の集大成として、ハーバード大学神学部で講演を行う。有名な「神学部講演」である。招待に応じ、その年の卒業予定者たちに向けて語られたのである。
 そのなかで彼は、教会が「宗教のための宗教」に堕して、「人間」を軽んじていることを、徹底的に非難している。
 「『教会』は、いのちの火もほとんどすべて消え失せて、ぐらぐらといまにも倒れそうに思えます」
 「説教壇が形式主義者に奪い取られると、礼拝者はいつも欺むかれて、満たされぬ思いを感じてしまいます。祈りが始まると、とたんにわたしたちは畏縮してしまいます。何しろ祈りが、わたしたちを高めてくれず、打ちすえ、不快にするのです」
 「説教壇に立つことを天職とされながら、しかもいのちの糧を与えない不幸な人間は、まったく哀れです」
 そして、教会に巣くう悪を取り除くために、こう結論し、訴える。
 「救いは魂にこそ求められねばなりません。人間が登場するところ、必ず革命が起こります。古いものは奴隷のためにあるのです」
 「仲介者もなくヴェールもつけずに、敢然と神を愛してほしい」
 「形式のいびつさを救うものは、第一に魂、第二に魂、そして永遠に魂なのです」
 なんという誇らかな宣言であろうか。そもそも人間の生命は、「宇宙」と対話し、「自然」と一体になりゆく大いなる広がりをもっている。過去・現在・未来という「永遠」を収め、他のあらゆる生命と繋がって、限りなき可能性に満ちあふれでいる。宗教とは本来、そうした生命の力を引き出すためにこそある。
 この意味において、エマーソンの叫びはまさに、アメリカ・ルネサンスの到来を告げるにたる、英知と勇気の号砲であった。
 一方、「平凡な講演」を期待していた神学部当局は、蜂の巣をつついたような騒ぎとなる。神学部長は、この講演を愚劣な無神論と決めつけた。
 また、多くの一般の人びとも、エマーソンを不信心者・異教徒・危険分子などと口をきわめて攻撃し、挙句の果てには、狂犬とののしる者もいたという。
 この講演によって、彼は、その後三十年間にわたってハーバード大学神学部で講演することを禁止され、教会からも事実上、追放される形となった。
 しかし彼は、それらの波騒を超然と見下ろしていた。「世間はわたしを買収できない」と。彼の胸中には、普遍的精神と交信し直結する、わが「魂」が燦然と輝いていた。これだけは、何ものをもってしでも侵すことはできなかったのである。
7  人間主義を宣した「自己信頼」の哲学
 彼の思想の骨格をなす一つに、「自己信頼」の哲学がある。「神学部講演」にも表れているが、普遍的精神に連なる自己の魂以外には、いかなる権威の介入をも認めない、大いなる人間主義の宣言である。
 それは、「自己信頼」と題する一篇のなかに明快に記されている。ちなみに、この文章は、その思想の高遁さと卓越した表現によって、エマーソンの最も偉大な随筆の一つとされている。
 彼は、高らかにうたう。
 「自分自身を信ずることだ。この鉄絃のひびきがあってこそ万人の胸は打ちおののくのだ」
 「一個の人間になろうと思う人は、世間に迎合しない人にならなければならない。(中略)結局自分自身の精神の完全さ以外に神聖なものはない。自分自身にとってみずからを清浄潔白なものとすることである。そうすればその人は世界の賛同を得るであろう」
 いずれも、私が青年時代、繰りかえし愛誦した一文である。
 幸福の宮殿はわが胸中にあり、希望の泉はわが足下にある。戸田先生もよく、「青年にとって大切なことは、自分の心を信じることだ。自分自身に生きよ。自分自身に生きる以外にはない」と語っていた。この恩師の言葉は、遺言のごとき響きをもって私の胸に刻まれている。
 エマーソンは、アメリカの「知的独立宣言」とされる歴史的な講演「アメリカの学者」のなかで、思想と行動の一致を論じている。
 「行動が欠けていれば、学者はまだ一人前の人間ではありません。行動が欠けていれば、想念が熟して真理という実を結ぶことは絶対に不可能です」と。
 この言葉どおり、彼もまた言行一致の哲人であった。
 「奴隷制度、専横な政府、独占事業、圧政者などの主張を弁護する学者は、自分の職業を裏切る者である」と叫び、人間の魂の尊厳を踏みにじる奴隷制度には、断固反対の声を上げ、多くの非難を押しのけて、その反対闘争に身を投じていったのである。
 一八五〇年、あくまでも奴隷制を固持しようとする「逃亡奴隷法」が制定されるや、彼は、法科生のごとく法律の勉強に没頭し、悪法を糾弾する論陣を張った。
 南北戦争時(一八六一年〜六五年)にあっても、窮乏する生活のなか、徹底して奴隷解放を支持する言論戦を繰りひろげている。
 そして、リンカーンが奴隷解放宣言を行った一八六三年一月一日、彼は、祝賀音楽会の序曲として、自作の「ボストン賛歌」を高らかに朗読した。
8   今日 捕らわれた者を解き放て
  そうすれば 自由になれるのだ
  人びとを塵のなかから抱きあげよ
  彼等の救いのラッパを吹き鳴らせ!
9  エマーソンは、つねに温かな人の輪につつまれていた。彼を慕って、多くの人びとがコンコードを訪れた。ガンジーにも影響を与えた思想家ソロー、理想主義的な教育者オールコット、宗教改革者のチャニングらとは、一緒に森を散策しながら哲学や人生を語りあうなど、美しき友情の劇を残している。
 晩年、彼は家を火災で失うという不幸に遭った。しかし、友人たちの真心により、わずか一年たらずで再築され、ヨーロッパの旅から帰国したエマーソンを、市民たちは、あたかも凱旋将軍を迎えるかのごとく、鐘を鳴らし歓呼の声で歓迎した。
 エマーソンは、語っている。
 「いっさいの門戸を押しひろげ、万人とともに味わい、万人につくす善だけが、本当に役に立つ美酒なのだ」と。
 彼は、みずからの国土を愛し、町を愛し、家族を愛し、友人を愛し、そして人間をこよなく愛した。故に、それらすべてのものから愛された。まことに、よきコスモポリタンとしての人格の光彩が鮮やかに放たれている。
 かつて、ハーバード大学のモンゴメリー教授と、エマーソンについて語らったことがある。教授は、私の親しい友人であり、カリフォルニアにある「アメリカ創価大学環太平洋平和文化研究センター」の所長を務めておられる。
 その折、教授は、エマーソンが住んでいた簡素で小さな家が、今もそのままの形で残っており、当時の雰囲気を伝えていることを紹介し、こう言い添えられた。
 「じつはこのコンコードにも、他の地域と同じように、ホテルや店舗の建設など開発の手が入ろうとしました。しかし、市民グループの行動によって、それが制限されるようになったのです」と。
 民衆に生きる人は強い。民衆に愛される人は永遠である。ダイヤモンドのごときエマーソンの生涯は、私たちに限りない勇気を与えてくれる。

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