Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

「科学と人間」の新しき地平線 サートン『科学史と新ヒューマニズム』

「若き日の読書」「続・若き日の読書」(池田大作全集第23巻)

前後
1  「こんなにも宇宙は身近になったか」──一九九二年九月、スペースシャトル「エンデバー」が行った日米共同宇宙実験の模様は、日本の国民をテレビの前にくぎづけにした。なかでも乗組員の毛利衛さんと、日本の子どもたちを映像と声で結んだ「宇宙授業」は新鮮な感動を誘ったものである。
 ところで、日本中がシャトル・ブームにわきはじめていた七月、こんなニュースが新聞の地方版に出ていたという。
 「女子高生が遺伝子実験に成功、専門家、先端技術普及に驚く」
 愛媛県の農業高校に通う女子生徒四人が、米ぬかのたんぽく質を使った実験で、遺伝子の切断と結合に成功したというのである。
 十数年まえは「先端技術」であった遺伝子実験が、いまや高校生の手で行われるようになったわけであり、識者も科学技術の浸透の速さに驚嘆していた。その女子高校生の感想がふるっている。
 「理屈は難しかったけど、やってみたら簡単だった」
 マクロからミクロまで、まさに日進月歩。科学は今日、私たちの親しい「隣人」になった観がある。
2  今、科学をめぐって私なりに重ねてきた行動をふりかえるとき、恩師とのある語らいの場面が思い起こされる。
 昭和三十二年(一九五七年)五月、東京で日本国際見本市が行われ、私は参考のためにと思い、見学に訪れた。
 会場は大勢の人びとでにぎわっていた。オートメーション時代の到来を告げる、活気に満ちた市であった。
 帰ってその様子を報告すると、思師は興味深げに聞かれ、一言いわれた。「″科学と宗教″について、考えていくんだなあ」と。
 こうした恩師の何気ない言葉も、かけがえのない指針として、若い私の生命に刻まれていった。かねてから科学文明の未来と宗教について思索をめぐらせていた私は、科学と宗教に関する著作の執筆を決意していた。
 サートンの『科学史と新ヒューマニズム』をひもといたのも、その一助となればとの思いからであった。
 昭和三十五年一月十八日の「日記」には、「サートン著の『科学史と新ヒューマニズム』の続きを読む。いつの日か『科学と宗教』執筆の参考としたい」と記してある。
3  「人間学」としての科学を
 科学史家のジョージ・サートンは、ベルギーに生まれた。ガン大学で化学や数学を研究した後、フランスの物理学者ポアンカレらの影響によって、科学史への関心を深めていく。
 第一次世界大戦の戦火に追われてイギリスに移り、一九一五年には渡米。カーネギー研究所の研究員を経て、一九四〇年、サートンはハーバード大学の教授に就任し、大学内に科学史研究室を創設した。また、国際科学史学会の創設に参加し、のちにその会長を務めている。
 彼の業績は、原著で三巻・五千頁におよぶ大作『科学史序説』に代表されるが、その精力的な研究を支えた理想、いわば人間学としての科学への希求を、情熱をこめて綴った一書が『科学史と新ヒューマニズム』である。
 サートンの主唱する「新ヒューマニズム」とは何か。要約すると、それまで科学を敬遠し、芸術や宗教の世界に内向してきた「旧式のヒューマニズム」に、科学的精神への開眼を促し、より全的な人間性の開発をめざすべきであるとする主張である。彼は、それを「科学的ヒューマニズム」とも呼んでいる。
 彼によれば、たいていのヒューマニストは科学の物質的な功績のみを見ており、科学のもつ豊かな精神性を顧みようとしない。だが、そうであってはならないという。
 「真実のヒューマニストは、芸術の生命や宗教の生命を知っていると同様に、科学の生命をも知らねばならない」と。
 長く牽制しあってきた科学と他の文化部門の間に橋をかけ、科学を人間化ヒューマナイズすること。それがサートンの念顕であった。
 「『新ヒューマニズム』は二重のルネサンスである。文学にとっては科学的ルネサンス、そして科学者にとっては文学的ルネサンス」という言葉が彼の心情を伝えている。
 そこから響いてくるのは、科学と科学者の人類的使命を叫ぶ警醒の声である。
 「人類行進の先頭を大胆に歩いて行く科学者は偉大な使嗾者しそうしゃである。(中略)人類は座って休息し度いと思っている。然し彼は先頭に立たねばならない。彼にとっては何物も平和でなく、また何物にとっても彼は平和ではない。彼は、休息を知らざる人類の精神であり、人類の良心であるから」
 使嚇者(けしかける者)とは逆説的な修辞であろうが、そこには科学者=先駆者との強烈な自負があふれ出ている。
 彼は、科学技術の進歩や産業・経済の発展が「功利性」の追求に酔うあまり、かえって人びとの精神を逼息させ、生活を害する結果となってしまっている実情を深く憂えている。そのうえでなおかつ、それを打開する救世の使命と力を、あくまでも科学(者)自身のうちに見いだそうとするのである。
 そこには、科学そのものへの見方が、なお楽観的であった当時の時代性が投影されている。
4  現代科学の方法論的な限界
 ギリシア文明とキリスト教文明を淵源とする近代西洋科学は、「神と人間」「人間と自然」という二分法的思考に立脚した実験と観察・分析によって、自然を対象化し支配することに、その眼目があった。実際、それは人びとの生活を向上させるうえできわめて有効であり、この有効性ゆえに、近代科学の思考法は世界を主導する原理となってきた。
 しかし、ほかならぬ科学の進展が、核兵器などの大量殺毅兵器や地球規模の環境破壊という「地球的問題群」を惹き起とす要因となっている今日、私たちは、現代科学文明の方法論的な限界を直視しないわけにはいかなくなっている。
 たとえば、デモクリトスの原子論の流れを汲む「要素還元主義」の克服への試みなどにみるように、科学万能の神話は、各分野で根底から問い直されているのである。
 あのアインシュタインは晩年こんど生まれ変わったら、科学者にならないで、「鉛管工か行商人になることを選択するでしょう」と語ったという。そこには、結果として核兵器の製造・使用に与してしまった自身の来し方への、沈痛な悔恨の情がうかがえる。
 それはまた、偉大な科学者にしてコスモポリタン、そして天性の楽観主義者であったアインシュタインすら、科学文明への抜きがたいペシミズムを抱いていたことの表れでもあろう。こうした苦悩は、科学の倫理性や科学者の社会的責任の問題として、今日に引き継がれているところである。
 サートンの科学観は、巨大な科学の力が人類という「種」そのものの生存を脅かし始める以前、科学文明の明るい未来を予感しえた、一九三〇年代という時代の制約を負うものといえよう。
 とはいえ、どこまでも科学を「人間の研究」としてとらえようとする彼の視点は、「神話崩壊後」の科学の在り方を問ううえでも非常に重要な示唆となりうると考えられる。
 「科学の人間化」のため不可欠な方法として、彼は科学を歴史的に省察し、各時代の科学の偉大な人間的業績を現代に汲みあげていくべきであると説く。
 「我々は古人という巨人の肩に乗って、遠くを見ている小人に過ぎない」のであり、古代・中世科学の偉大な歴史を謙虚に学ばねばならない、と。
 「吾が新しいヒューマニストは、あらゆる創造的活動に参与することを願い、熱意を以て人類の前進を助けることを希望する。併しそれと同時に感謝と尊敬とを以て過去を回顧することを希望する」
 科学的精神と歴史的精神の融合という課題こそ、新しきヒューマニストの高貴なる義務であるというのである。それは科学者に、専門領域の研究だけでなく、人類総体の進歩への学際的な配慮を促すことにほかならない。
5  「全体像」を求めて東洋に着目
 この新ヒューマニズムを基調としたサートンの科学史は、科学を中心に、芸術や宗教など他の文化部門を総合するという偉大な意図のもとに構想された。いわば「諸学の学」「人間の学」の色調を帯びている。
 総合的な科学史研究という考えは、社会学の創始者として知られる十九世紀フランスの哲学者コントに遡るとされるが、独立した学問分野として成長するのは今世紀に入ってからのことである。
 サートンはその草分けであり、アメリカにおける科学史研究の「始祖」的存在といってよい。
 その具体的な例として、彼は古代エジプト、メソポタミア、中世アラビア文化への豊かな造詣を生かして、西洋科学の淵源が東洋の諸文明にあることを諄々と論証していく。彼自身、その後、アラビア科学史の研究を熱心に続け、中東を訪問している。
 「光は東より! 吾々の最も初期の科学知識が東洋に源を発することには些かの疑いもない」──東洋の英知が育んだ天文学・数学・医学などの知識が、いかにギリシアやローマの文明に受け継がれ、ヨーロッパ科学の「胚種」となっていったかをたどるサートンの眼差しは、東洋人の営々たる科学的努力への尊敬と愛情に満ちている。
 そして彼は「東と西との律動を記憶せよ。すでに幾度か吾々の霊感は東から来た。それが再び来ないという理由が何処にあろうか。恐らく偉大な思想は今後もなお東から吾々に達するであろう。吾々はそれを迎える心の準備をしておかねばならなバ)」と、東洋文明への絶大な期待を語るのである。
 いまだ欧米諸国に、アジアや中東諸国への優越意識や偏見が色濃かった当時にあってのすぐれた史眼である。
 おそらくサートンは、第一次世界大戦の体験を経て、西洋文明の傲りへの強い危惧を抱いていたにちがいない。
 いうまでもなく彼の考えは、今日、時折みうけられるような、エキゾチズム本位の俗流オリエンタリズムとは無縁であった。
 「人類の全一性は東と西とを包容する。それは一人の人間に於ける二つの気分のようなものである。この両者は人間の経験のもつ根本的且つ相互補足的な二面を示すものである。科学的真理は東西ともに唯一つである」
 人類を一つに結ぶ「架橋」としての科学的真理。その全体像に迫るうえでの東洋への着目であった。
 アインシュタインの「人類の滅亡を防ぐには、偉大な精神文明の台頭が必要であり、私は、それを東洋に期待する」という指摘とも響きあう卓見であろう。
 このことで想起するのは、不確定性原理で知られるドイツの理論物理学者ハイゼンベルクが、詩聖タゴールと対話した際、量子力学の導きだす世界像とインド思想の世界観とがあまりにも近いことを知って目を瞠った、というエピソードである。
 東と西、見つめるのは「同じ宇宙」であった! ──東洋の英知の光を目のあたりにしたハイゼンベルクの驚きと感銘は、いかばかりであったろうか。
 私もまた、洋の東西や体制の違いを超えた科学的真理の交流が、新しきグローバリズムの源泉となり、平和創造の力となることを期待する一人である。
 ただ先に述べたように、人類の諸問題は、「真理」と「価値」の二律背反アンチノミーという問題を深刻につきつけており、もはや科学的真理の探究が、人類全体にそのまま価値をもたらすという前提は成り立たなくなっている。
 その意味で、個々の科学的知識をより豊かな「知恵の全体性」のなかに位置づけ、生かしていく土壌こそ必要とされている。私はそれを、東洋思想の真髄である仏法に求めたいのである。
6  真に科学をリードするもの
 ともあれ、人間精神における科学と歴史の結合をめざすサートンの志は、また不断の精神闘争への決心でもあった。
 「科学史は、迷信と無知の怠け者に対する、また虚言者と偽善者、詐欺者と自欺者に対する、また暗黒と不合理のあらゆる勢力に対する、決して止むことのない長期戦の物語である」
 彼の真理への情熱は「人類の知的団結を破壊する者」への闘争心と一体であった。新ヒューマニズムとは、何より戦うヒューマニズムであった。科学はもとより、「学問」「真理」に生きるすべての人間が模範とすべき態度であろう。
 膨大な主著『科学史序説』はサートンの死によって未完に終わったが、丹念な資料収集にもとづく彼の業績は、二十世紀における、科学と人間をめぐる「止むことのない長期戦」の嚆矢こうしとなった。
 彼の主宰した研究誌『アイシス』が、よき継承者を得て彼の死後も存続している事実は、何よりその象徴であろう。
 科学とは何か、歴史とは何か、そして人間とは‥‥と問い続けたサートンは、まことに「科学史家であることを通して人間を欣求する求道者」(森島恒雄)と呼ぶにふさわしい真率の学究であり、科学の黄金時代の余光を浴びながら、大らかな「全人性」の讃歌を語いあげた戦人であった。
7  私が『科学と宗教』を上梓したのは昭和四十年(一九六五年)のことである。
 同著では、天文・物理・生物・医学など各分野の知見を検証し、科学をリードしてゆく仏法哲理の卓越性を論じた。
 もとより、それは一つの手がかりとして編んだものである。十七世紀のデカルト、パスカルから近年のベルクソン、ニーダムらにいたる幾多の精神的営為が物語るように、「科学と宗教」とは、人類が永遠に問い続けるべきテーマにほかならない。
 恩師戸田先生は、さまざまな宗教を学んだ経験をとおし、非科学的な教義では現代人はとうてい納得しえないと述べ、「科学と相反せず、しかも科学的にして、実験証明のともなう、論理的な宗教こそ最高のものだ」と語っていた。日蓮大聖人の仏法こそ、真に科学をリードし、人間のための科学の曙光を輝かせていく地平となるという確信であった。
 その同じ信念から、私も科学について機会あるごとに発言を重ねてきた。
 アメリカのポーリング博士、ロシアのログノフ博士(モスクワ大学前総長)をはじめ、世界の多くの科学者とも対話を交わしている。ログノフ博士とは、現在、二番目の対談集『科学と宗教』の編纂を進めている最中である。世界の知性と知性、良心と良心を結び、科学の進歩と人類の幸福に貢献できれば──。これが私の真情である。
 恩師はよく「科学が進歩すればするほど、仏法の偉大さが証明されるであろう」と語っておられた。恩師の心とともに、私の生涯はある。

1
1