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日蓮大聖人・池田大作

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自由なる精神の輝き バイロン『バイロン詩集』

「若き日の読書」「続・若き日の読書」(池田大作全集第23巻)

前後
2   前進、また前進
  旌旗はたをかがやかせながら
  その兵力を加えながら
  つぎに進んでゆかねばならぬ
  休養は心をうんざりさせ
  隠遁はその身を朽ちさせる
  表えた王位などに恋々たるものではないのだ
3  新時代の息吹のなかで
 一七八八年、バイロンの生まれた年は、フランス革命勃発の前年にあたっている。バイロンの生きた時代──それは「英雄の時代」であった。ナポレオンが登場し、ゲーテ、シラー、プーシキン、ユゴーなど幾多の文豪が活躍した。バイロンもそうした英雄の一人であった。
 そのころ欧州大陸には、新時代の息吹がみなぎり、革新の波は津々浦々に押し寄せていた。しかし一方、ドーバー海峡によって隔てられたイギリスは、この時期、まれにみる反動の時代であったといわれる。
 熱血の人バイロンは、そうした状況のなかで、鋭き批判精神を培っていく。
 ところで、名門の家柄に生まれたバイロンも、少年時代は貧しく恵まれない環境に育つ。彼の父親は「気遣いジヤツク」と蔑まれるような人物で、まったく家庭をかえりみやす、賭博などにあけくれ、バイロンが三歳のとき、フランスで客死する。母親もその欝屈を幼いバイロンにぶつける。ヒステリックで逆上したら何をしでかすかわからない性格に、バイロンはいつも怯えていた。
 一片の愛もない生活──それがバイロンの少年時代であった。そのうえに、彼は生まれつき片足が不自由であった。こうした出来事は感受性の強かった彼の生涯に色濃く影響を残す。ただそんなハンディも、彼を強くすることはあっても弱くすることはなかった。
 バイロンは十歳の時、第六代のバイロン卿を継ぎ貴族となる。その後、名門、パブリック・スクールのハロー校、さらにケンブリッジ大学に進む。
 バイロンは、どのような学生であったか。ハロー時代のこんなエピソードがある。卒業間際、それまで慕っていた校長が辞職する。彼は新校長を認めず、排斥運動の先頭に立つ。教室を荒らし、校長宿舎の鉄格子を壊し、徹底的に実力行使で戦ったという。
 情熱的で雄弁家、スポーツマン、弱い者の味方。そんなバイロン青年は親分肌の人気者であった。無味乾燥な授業は大嫌い。しかし、いったん身を入れると全校で三番という好成績もあげる。一方、誰もいない墓地で独り空想にふけり、詩作にはげむという一面もあった。
4  あえて苦難に飛び込む精神
 一八〇七年六月、十九歳のバイロンは本格的な処女詩集を発刊する。詩人として輝かしい門出となるはずだったこの詩集は、匿名の批評家によって悪意の攻撃を受ける。「澱んだ、くさった水」とまで痛罵するその評は、感情的で、若き詩人を潰すためだけとしか思えないひどいものであった。バイロンの心は、いたく傷つけられる。しかし、この「挑戦」こそがバイロンをして、詩人として生きぬく腹を決めさせたのであった。
 後年、バイロンは友人の詩人シエリーへの書簡のなかで、当時をこうふりかえる。
 「憤怒と反抗と侮辱を覚えたが──意気消沈したり、絶望したりはしなかった。(中略)
 『人生において苦痛や危険を脱れやうと思つてはならない
 運命が汝に背くことを嘆いてはならないのだ。』」
 バイロンの心の奥底は、立ちはだかる敵をはねかえす闘志に燃えていた。困難からうまく逃れ、敵をつくらずに賢げに立ちまわる人間もいる。しかし、それでは「本物」の人物、本物の人格はできない。苦難にあえて飛びこんでいく、敵と戦いぬく、そこにこそ人間の芯ができあがっていく。
 さて、この年の七月、バイロンは大学時代の友人をともなって旅に出る。スペイン、ポルトガル、アルバニア、ギリシア、さらにインドまで足をのばす予定であった。
 東方をめざしての旅──それはバイロンの少年時代からの夢であった。「全世界がわたしの前にある」と詠う彼にとって、この旅はつねに開かれ拡大しゆく、若き詩人の瑞々しい精神の発露であったといえよう。
 はるかなるオリエントは、当時のヨーロッパの人びとの憧れの的であった。ゲーテは『西東詩集』を、ユゴーは『東方詩集』を編んでいる。
 そして、バイロンがこの旅のさなか詠んだ詩が、彼の出世作となった『チャイルド・ハロルドの巡歴』である。物語は若き貴族ハロルドの旅の模様を綴ったものだが、ハロルドはバイロンそのものである。
 彼の大作『ドン・ジュアン』にしても『マンフレッド』にしても、主人公はバイロンの分身ともいうべき存在である。自分で自分自身の姿を描く──「個我の詩人」(フランスの哲学者テーヌ)と評されるバイロンは、あくまでも自己自身を見つめ続けた。
 自我の意識に悩み続けた彼は、その意味で「近代人の先駆」であったといわれる。時代を先駆けすぎたが故に、彼は世の無理解と偏見に苦しめられたといえるかもしれない。
 さて、『チャイルド・ハロルドの巡歴』の成功は、バイロン自身が「ある朝、目をさますと有名になっていた」というように、まさに爆発的であった。彼は時代の寵児として、ロンドンの社交界に迎えられる。
 しかし、そうした日々も長くは続かなかった。さまざまな人間関係、結婚の失敗、バイロンを追い落とそうとする勢力の画策により、彼は悪魔のごとく罵られ、おとしめられ、祖国イギリスから追放されるのであった。『巡歴』の出版から、わずか四年の間の出来事である。
5  使命を自覚し「目的」に燃える
 バイロンの二度目の旅は、帰るところのない流離さすらいの旅であった。スイスのレマン湖畔からイタリアへ、そして、最期の地ギリシアに渡る。
 この旅の途中、バイロンはナポレオンの最後の決戦地ワーテルローを訪れている。激戦から約十カ月後のことであった。若き日、彼はナポレオンの胸像を机に置き崇拝していた。敵国の極悪人ナポレオン擁護の発言が、バイロン追放の一因でもあった。
 ワーテルローを一望し、バイロンは、しばし茫然と立ち尽くす。「英雄は英雄を知る」という。この世のすべてを支配したかに見えた大英雄が、運命に翻弄されゆく姿を慨嘆しながら、詩人は詠っている。
6   御身こそ、まこと、世界の征服者にして、またその捕虜たり!
   (中略)
  汝はげに、一帝国を破砕し、号令し、再建し得たりしが、
  されど汝の最小の激情をも統制するを得す、
  はた、いかに人間の精神に深く味到し得るも、
  己れ自らの霊をば見透すことを得ず、
  なほ戦争の欲望をば制するを得ず、
  誘惑の運命が、最高の星を失ふことを知らざりき、
7  バイロンは、ナポレオンを愛していた。しかし権力を得るにしたがって、いよいよ横暴になっていく暴君の一面を看過ごすわけにはいかなかった。
 『ドン・ジュアン』の一節にこうある。
 「できるととなら、私は石にまで地上の暴君に反抗せよと教えたい」
 さらに、こうもいっている。
 「この私の、すべての国のすべての専制に向けられる、率直で、断固として、徹底的な憎悪は怯むものではない」
 バイロンにとって、人間の自由を侵すものはいっさいが悪であった。そこにみずからの信ずる正義の基準があった。
 さて、ギリシアに渡ったバイロンは、オスマン帝国の圧政からギリシア独立を勝ちとるため、私財をなげうち全魂を傾ける。独立軍司令官となった彼は、燃えるがごとき真紅の軍服を身にまとい、戦場を駆けめぐるのであった。
 三十六歳となる生涯最後の誕生日を、バイロンは戦場で迎える。戦況は絶望的であった。
 勝ち誇る敵の襲撃に加え、内部の反乱にも悩まされる。その日、彼は一詩を詠む。
8   もしも、おまえが、自身の青春を悔いているなら、なぜに生きながらえるのか?
    栄誉ある死をとぐべき国が、ここにあるではないか。
  たしかに、ここにあるのだ。──いざ、戦場へ馳せ行けよ。
      そして、おまえの息をたえしめよ!
 (中略)
    しかし、兵士の墓の一基こそ、おまえにとって、至上のすみかとなってくれよう。
  そのあとで、あたりを見回せよ。そして、おまえの果つべき大地を選定せよ。
      そのあとで、おまえの「永き眠り」につけよ。
9  バイロンはすでに、このギリシアの地で生涯を終えることを決めていたのであろう。辞世とも思えるこの詩には、澄みきった詩人の境涯、崇高さが溢れている。
 彼にはギリシアから逃れて、他の地で悠々と暮らすことも十分できたはずだった。しかし、詩人は、あえて戦場にとどまる。
 人生の価値とは、たんに長さで決まるものではない。また、幸福とは、表面の姿で判断することはできない。みずからの使命を自覚し、目的に燃える人間に悔いなどあろうはずがない。自身の正義と信念に生きたバイロンには、後悔などなかったにちがいない。
 私の胸には、そうした彼の魂の勝関が響きわたる。人の批判をするのは、その人の自由であろう。ただ、みずからはみずからの信条のもとに行動をもって進みたい──私もこの決意で生きてきた。
 この詩から約三カ月後の一八二四年四月、バイロンは無理がたたり、折からの病気が悪化する。戦場で十分な治療など望むべくもなかった。失われゆく意識のなかで、彼は「進め、進め、おれの後につづけ!」と、うわ言で絶叫する。
 四月十九日の夕刻、彼は長い昏睡状態から一瞬だけ目を開き、そして生涯を終えた。この時、静寂を破り、突如雷鳴が轟きわたり、轟然たる雨が降りそそいだといわれる。
10  「精神の自由」への宣言
 「人生哲学は役に立たない──行動あるのみ」との言葉のまま、短い生涯を駆けぬけたバイロンの行動の焦点は何であったか。それは、つねに「自由のため」という一点であった。
 バイロンは一時期、野党の貴族院議員として、政治にたずさわる。当時、産業革命の波は、労働者を無残に巻きこみ犠牲にしていた。
 バイロンの処女演説は、労働者の権利を守り、権力による圧迫の理不尽さを、理路整然と、また激しく訴えるものであった。「宗教による差別の不当」「言論の自由」といった問題をバイロンは演説で取り上げ、頑迷固随な勢力と真っ向から戦った。
 「(=国王の)行列を、眼にも心にも威厳のあるものにするのは単なるうわべの『華やかさ』でなく──『国民』の信託である」
 この一句に、バイロンの政治的信念が示されているといえよう。
 また、彼はこうも詠う。
11   国民のため辛苦する者こそ
  げに哀れなれど、自由の身なり。
  王侯のため額に汗する者は
  偽り多き侍従にも似たり──
  哀れなる哉彼、身に美服を纏ひ
  家扶を受け、主の門辺に膝まづき
  待をその光景は、奴隷とや云はん。
12  この詩は、愛する祖国から追放された、イタリアの大詩人ダンテを思って作られたものである。バイロン自身もまた追放の身であった。権威におもねり、富貴にこびるような人間は、すでに心まで奴隷となっている。心の自由を奪われることこそ、最大の不幸ではないのかと。ダンテの最終章を描きながら、バイロンは自身の真情を訴えた。
 バイロンは、レマン湖上のシヨン城で古い牢獄を見、かつてここに幽閉されていた一人の志士を主人公とする詩をつくっている。その冒頭には次のようにある。
13  自由よ! 鉄鎖に抗する精神を守る、永遠の霊よ!
 お前は牢獄にあってこそ真の生彩を発揮する。
 なぜなら、牢獄の中にあっても、お前は心を──自由愛の他は何ものにも縛られぬ心を、己のすみかとするからだ。
14  「真の自由とは心をすみかとする」と詩人は言う。たとえ身は牢獄にあって鎖に繋がれていようと、心を束縛されなければ、自由を勝ちとった人であると。
 バイロンは「神に対する反逆」を絶えず作品に描いている。いうまでもなく、当時の教会からは「悪魔主義」として厳しく攻撃を受ける。このため彼の遺骸はウエストミンスターへの埋葬を拒否されている。死後もなお執揃な宗教の権威の圧迫は続いた。
 バイロンの最大の理解者であったゲーテは、作品『カイン』を批評しながら、エッカーマンにこう語る。「バイロンのような自由な精神は、教会のドグマの不十分さに、どんなに悩んだか、このような作品によって、おしつけられた教義から、どんなに自由になろうとつとめたか」
 バイロンは、あるとき望遠鏡で星々を眺めながら、こう語ったという。
 「神に仕える聖職者は、みな天文学に関する完全な知識を持つべきだ。天文学ほど人の心をより寛く、より大きく、より豊かに啓発してくれる科学はないよ。天文学は人間の心を、その狭量偏見から解放してくれるだろうからね」
 自由なる精神の輝きを消し去ろうとする勢力は、いつの時代にもさまざまに暗躍する。バイロンの詩にあふれる精神の自由への高らかな宣言は「強くあれ、一歩もしりぞくな」というエールを送ってくれているようだ。

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