Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

あくなき魂の希求 パスカル『パンセ』

「若き日の読書」「続・若き日の読書」(池田大作全集第23巻)

前後
2  科学の探究から信仰の道へ
 ブレーズ・パスカルは一六二三年六月十九日、フランスのクレルモンに生まれた。
 母アントワネットは優しく聡明な女性であったが、パスカルが三歳のときに他界している。父のエティエンヌは再婚することなく、パスカルと姉のジルベルト、妹のジャクリーヌの三人の子どもを養育した。
 父はパスカルを学校に通わせず、みずから独自の方法で教育する。むやみに知識をつめこむのではなく、息子が自発的に独力で学べるように努めた。少年は早くから抜群の想像力や記憶力を発揮し、あらゆる物事の仕組みを知ろうと熱心に求めた。大人のいいかげんな説明には、食いさがって質問を浴びせたという。
 少年は、やがて数学に強い興味を抱く。父は息子が十五、六歳になるまでは数学を教えないつもりでいたが、当人は早々と、自分で円を「丸」、線を「棒」と呼んで、いろいろな計算や証明を試みだした。
 彼は十二歳にしてユークリッド幾何学の第三十二命題「三角形の内角の和は二直角に等しい」の証明を成し遂げ、以降、「円錐曲線試論」の著述(十六歳)や「計算器」の発明(十九歳)、有名な「パスカルの定理」、「真空」の存在についての実験(二十三歳)など、驚嘆すべき業績をあげ、注目を浴びていく。帰納法や確率論、積分法の取引山など、研究の手はついにやむことがなかった。
 ことに「真空」の証明については、当時すでにすぐれた哲学者・科学者として知られていたデカルトが、この二十七歳年下の青年科学者を訪れ、意見を交換している。デカルトは真空の存在に否定的であったから、二人の対話は知性と自負の火花を散らし、真理への探究心に燃えたものであったにちがいない。
 一六四六年、パスカルはジャンセニストたちとの出会いを契機に、信仰に心を向けていく。ジャンセニスムとは、宗教革命に対抗してカトリック内部で進められていた改革(反宗教改革)の流れに属するグループで、修道院ポール・ロワイヤルをその拠点とした。彼は家族を熱心に説き、同じ信仰の道に入らせた。
 三年間にわたる社交界での生活を経験し、「人間の研究」に関心をもちはじめたパスカルは、信仰心の高揚とともに、懐疑的な人びとを導くための「キリスト教弁証論」を構想し、準備に取りかかった。彼の死で未完に終わったこの仕事こそ、不滅の著作『パンセ』である。
 パスカルが書き留めた断章を、近親者や友人たちが集めて出版したのは、彼の死後八年を経た一六七〇年のことである。ボール・ロワイヤル版と呼ばれる初版の原題は『死後遺文中に発見された宗教その他の問題に関するパスカル氏の思想』であった。
 包括的な世界観を形成していた中世のスコラ哲学の崩壊したあと、カオス(混沌)をどうコスモス(秩序)へと転じていくかは、当時のヨーロッパ社会が直面していた普遍的な課題であったといってよい。デカルトもパスカルも、天才的な科学者であると同時に、外なる世界と内なる世界との調和・バランスを、生涯にわたり希求しぬいた。
 哲学と科学の親近ということは、近年のベルクソンに見られるように、フランス哲学の伝統的美質でもあるのだが、『パンセ』冒頭の「幾何学の精神」と「繊細の精神」との対比は、この問題を、いかにもパスカルらしく、優美ささえ帯びたつよい筆致で、読者につきつけている。
 私の恩師は、よく「理は信を生み、信は理を求める。求めたところの理は信を高める」と語っていた。理性と信仰が車の両輪のごとく、人間の心を豊かに耕していくものであることを教えてくださった。それは科学の探究から信仰に目覚め、「幾何学の精神」と「繊細の精神」との調和を説くにいたったパスカルの思策と、深く響きあうものであろう。
3  「中間者」としての人間
 『パンセ』の全篇に脈搏っているもの──それは「偉大なる者」へのあくなき魂の希求である。
 たとえばパスカルは、「私には、呻きつつ求める人たちしか是認できない」(四二一)と語っている。「呻きつつ求める人」とは、魂の探究者として生きぬいた彼自身の「自画像」そのものであった。
 彼にとって人間は、偉大さと悲惨さ、神と自然のはざ間に流離う「中間者」の存在である。「宇宙の栄誉にして屑者!」(四三四)と、彼は人間存在を慨嘆する。故に「人間の魂の偉大さは、いかにして中間に身を持するかを知る点にある」(三七八)。人間が真に人間らしく生きる道は、この自己の実相を凝視し、「偉大なる者」を求めぬくこと以外にないとパスカルは説くのである。
 「中間者」としての人間とは、いわば「求道者」の異名にほかならなかった。
 こうした人間観が、パスカル自身の精神に極度の「緊張」と「集中」を強いたことは、想像に難くないであろう。
 「イエスは世の終りにいたるまで苦悶し給うであろう。そのあいだ、われわれは眠ってはならない」(五五三)と彼は言う。
 自身、まんじりともせぬ魂の「覚醒者」であったパスカルの眼には、たとえばデカルトのいわゆる「方法的懐疑」にみられる不敵な自信は、神の存在の必然性を語っているようでいて、むしろ神をなみする倨傲きょごう以外のなにものでもなかったはずだ。
 「私はデカルトを許すことができない。彼はその全哲学のなかで、できれば神なしに済ませたいと思った。だが、彼は世界に運動を与えるために、神に最初のひと弾きをさせないわけにいかなかった。それがすめば、もはや彼は神を必要としない」(七七)
 デカルトとパスカルと、どちらが正しかったかを論議しても、あまり生産的ではないだろう。両者ともに、容易に追随を許さぬ、比類なき生と思索のスタイルを残している。ただ、デカルトを「父」とする近代哲学を機軸としたヨーロッパ近代文明が、理性に過度に依存するあまり、重大な行きづまりを招き寄せてしまったことは、世紀末の現代、否定しようのない事実である。
4  独善に安住しない批判精神
 「自力」と「他力」、あるいは「自律」と「他律」という近代文明のジレンマを一身に背負いながら、徹頭徹尾、一つのものを見つめ続けたパスカルの魂。そこには「一」もって貫くという人間の本然的欲求が脈搏ち、人びとの散漫な心を圧倒するのである。
 燃えあがる宗教的情熱で綴った彼の「弁神論」は、絶対の一者──至高のものとしての「真理」、至善のものとしての「正義」──へと人間を回帰させていく、壮大な、今もって未完の挑戦であったといってよい。
 幾多の狂信の歴史が示しているように、こうした一者への希求は、金剛のごとき人格の「核」をつくる大きな力となる反面、自己以外の存在を許容しない「独善」の罠に陥る危険性をはらんでいることも否定できない。
 パスカルが、その信念の強靭さにもかかわらず、独善の魔性にとらわれることがなかったのは、その謙虚な菓質とともに、すぐれた科学者としての批判精神があずかっていたのかもしれない。彼は真理の側に立って他を裁く専制者とは、つねに正反対の位置にあり続けた。問者パスカルの問いは、偏狭な独善に安住してしまうにはあまりにも深刻で、切実であったのだ。
 「真理と正義はきわめて微妙な二つの尖端であって、われわれの道具はそれにぴったり触れるにはあまりに磨滅しすぎている。かりに届いたにしても、尖端をつぶして、そのまわりに、真よりもむしろ偽に、ぶつかる」(八二)
 「誰しも、一つの真理を追求すればするほどいよいよ危険な誤りに迷い入る。彼らの誤りは一つの誤謬を追求することにあるのではなく、反って、もう一つの真理を追求しないことにある」(八六二)
 そう語るパスカルにとって、「真理」とは、万人が求めうる「開かれた真理」であった。
 「神」とは、独善的な聖職者の占有物ではなく、開かれた真理によって「証明」し、「説得」すべき存在であった。
 だからこそ、真理と人間の間に立ちはだかり、人間の魂を外側から束縛する権威に対しては、彼は妥協することなく戦った。
 「法王は、誓いをもって服従することをせぬ賢者たちを憎みおそれる」(八七三)
 「教会が破門とか異端とかいうような語をつくったのは、むだである。人はそれらを用いて教会に反抗している」(八九六)
 「私は真理をまもる。それが私の力のすべてである。もし私が真理を失うならば、私は失われる。私には誹謗と迫害がたえずつきまとうであろう。だが、私は真理をもっている。いずれが勝つかは、やがてわかるであろう」(九二一)
 法王や教会すら、呵責なき批判対象の例外ではなかったのである。
5  信仰は良心の内発によるもの
 真摯にして闊達、謙虚にして自在な精神の闘士パスカルに、私は、真率のモラリストとしての横顔を見る。どこまでも権威や独善と闘い、内なる良心の問いかけに耳を傾け続けた彼の生き方は、たとえば、対立していたとはいえ彼が深い影響を受けた、あのモンテーニュの流れを汲むものであろう。それはフランスのモラリストたちに脈々と流れている良質の精神性なのである。
 一九九一年(平成三年)九月、私はアメリカのハーバード大学の招聘で、「ソフト・パワーの時代と哲学」と題して講演する機会を得た。
 その折、異端の断罪を受けんとするジャンセニスムを熱烈に擁護したパスカルの書簡『プロヴァンシアル(田舎の友への手紙)の内容に言及した。書簡のなかでパスカルは、ジェスイットの定めた「良心例学」──事にあたっての良心のあり方を、あらかじめ判例として決めておくこと──を激しく攻撃している。内なる魂のあり方を重視する立場から、彼らの外面的規範や戒律が、信仰をいかに歪曲するかを訴えてやまないのである。
 本来、信仰は良心の内発的な働きによるものである。だから行為の選択の基準を判例として外発的に与えることは、良心の働きを麻痺させ、堕落させてしまうことになる。「良心例学」とは、パスカルにとって良心の自殺的行為であった。私はここに、たんにジェスイットとジャンセニスムの論争という次元を超え、人間の普遍的な良心のあり方への重要な示唆が提起されていると考察した。
 「内発の力」による、偉大なる魂への飛翔を希求したパスカルの思索。それは、ドグマティズムとニヒリズムの間をさまよう「魂の遍歴」に終止符を打ち、よりグローバルな、新しき精神文明の創出へ歩みだそうとする今日の人類にとって、ひときわ光さを放ちゆくものであるにちがいない。
6  時空を超える魂の共鳴
 一説にはガンであったといわれるパスカルの病は、一六五九年になると急激に悪化した。三年以上の闘病生活の末、一六六二年八月十九日夜半、彼は姉ジルベルトの家で、三十九年間の生涯を閉じた。
 あまりにも短い生涯であった。自身の短命を予感し生き急いだかのような、凝縮した一生であった。緊張と葛藤の連続の人生であった。「‥‥眠つてはならない」という言葉のまま、謙虚に、そしてまた誠実に人間の正しい生き方を模索しぬいたこの巨人に、永眠の時が訪れたとき、その胸中を去来したものは、いったい何であったろうか。最後の言葉は「神がけっして私をお捨てにならないように」であったという。
 後年、フランスのエスプリたちは、「パスカルは人間性の感情をもっとも高度に所有している」(サント・ブーヴ)、「パスカルこそ、ヒューマニストという美しい名にふさわしい唯一の人物。およそ人間にかかわりあるものを何ひとつ見棄てない唯一の人物である。かくて、彼は人間全体を通り、ついには神にたどりつくのである」(モーリヤック)等と賛辞を贈っている。
 「呻きつつ求める人」パスカルは、時を経て、精神の限りない可能性を示す「全体人」「普遍人」──いわば「人間の中の人間」として、歴史に聳立しょうりつしているのである。まさに「万能の才」と「敬虔な信」を兼ねそなえた、ルネサンス最後の巨星であった。
 祖国フランスばかりではない。大文豪トルストイは、晩年の日記にこう記している。
 「パスカルの驚嘆すべき箇所。パスカルの書いたものを読み、この何百年も以前に死んだ人間と自分とが全き一致の中にあることを意識して、感動のあまり涙を抑えることができなかった。このような不思議の中に生きる以上に、如何なる不思議があろうか?」
 トルストイを感涙せしめたパスカルの文章とは、いったい、どのような個所であったのだろう。なるほど『パンセ』第二編の「気ばらし」の空しさについて論じている個所など、トルストイの宗教的回心が凝縮されている佳品『イヴアン・イリッチの死』と、テーマといい、描写といい瓜二つである。二百年の時を超え、ロシアとフランスという空間を超えて響きわたった魂の共鳴音。ともに「内なる神」を信じ、ともに「聖職者の権威」と闘い、ともに「人間愛」を説き続けた二人の哲人の不思議なる交感に思いを馳せるとき、私の心は深い感動につつまれる。
7  巨星逝いて三百幾十星霜。私は仏法者として、パスカルの胸中に燃えさかっていたであろう遠大な理想──「人間」を本当の意味での「人間」たらしむるための「宗教」──の実現のために、「行動」し、「対話」し、価値創造の花を咲かせゆく人生でありたいと願っている。これが若き日に『パンセ』と出あって以来の、変わらぬ心情である。
 「あくなき行動」こそが、「あくなき求道」のメッセージを送り続けた哲人への、誠実な応答となると信ずるからである。

1
2