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日蓮大聖人・池田大作

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人間の大地に魂の雄叫び ゴーゴリ『隊長ブーリバ』

「若き日の読書」「続・若き日の読書」(池田大作全集第23巻)

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2  まず尊敬・信頼しあうことから
 昭和三十年(一九五五年)──当時二十七歳の私にとって、毎日が真剣なる闘いの連続であった。死をも予感させるほど激しく襲いかかる病魔、あまりにも無認識きわまりない世間の中傷と圧迫──。私は思師戸田城聖先生のもとで懸命に戦った。いっさいを受けとめて一歩も退かなかった。
 その闘争の最中、戸田先生は私に、矢継ぎ早に世界の名著を勧めてくださった。
 「あれは読んだか。これも読みなさい」と、あたかも真っ赤に燃えさかる鉄を鍛え打つがごとくであった。
 そのなかの思い出深い一書が、ゴーゴリの『隊長ブーリバ』である。その年の二月十六日の「日記」に、こう綴っている。
 「隊長ブーリバ』を読み始む。脳裏に去来するものあり」
 美しく広大なウクライナの天地に繰りひろげられる戦いの数々。誇り高きコサックの雄叫び。親子の愛情、正義、勇気、裏切り、悲劇‥‥。次々に織りなされる人間絵巻が、鮮烈な画像となって若き心に迫った。
 折しも、私がこの物語に接した一年半ほど後の昭和三十一年十月、日ソ共同宣言が取り交わされ、両国の国交が回復された。友好条約は将来の課題となったが、これを契機として、日本の国連加盟が可能となり、国際社会の仲間入りを果たすことになる。まさに歴史的な方向転換であったといってよい。
 そうした時代の動きを肌で感じながら、国会で行われた批准書決議の様子を傍聴したことも懐かしい。約二時聞にわたる決議の行方を見つめつつ、私も将来、自分なりの立場で両国の友好の舞台を開くことを心に期したものである。
 固と国を結び、人と人をつなぐ──。それは何よりもまず、互いを「人間」として尊敬し信頼しあうことから始まる。
 圧政や戦乱に苦しんできたが故に、ロシアの人びとは心から平和を愛し、幸福を求めている。それは、五度にわたってこの地を訪れ、多くの人と友情を結んだ私の強い実感でもある。
 どこまでも「人間」を見つめ、文化を尊重しあい、誠実な対話を重ねていくこと、そのなかでこそ、日ロ友好の新時代は大きく開かれていくであろう。
3  「人びとの苦悩」を見つめる
 ニコライ・ゴーゴリは、ウクライナの小村で、コサックの血筋をひく小地主のもとに生まれた。素人芝居の脚本を書いていた父親の影響もあって、幼少のころより文学に親しんで育った。一方で、長じるにつれ、「自分の生涯を国家のために役立てたいという、やむにやまれぬ一念」を抱く。高等中学校を卒業したゴーゴリは、その青雲の志のままに首都ぺテルスブルグへと旅立った。
 しかし、「現実」は愛国の青年を冷たく遇した。めざしていた司法官僚の仕事は得られず、薄給の下級官吏として甘んじなければならなかった。その傍らで、逼迫する生活のなか自費出版を試みた田園叙情詩『ガンツ・キュヘリガルテン』は酷評を受け、失意の彼は書店から本を回収し、すべて焼却したという。人生の第一歩における、あまりにも惨めな挫折であった。
 しかし彼は、人間の矮小化を自身のうちに感じるだけではなかった。青年ゴーゴリの目に映ったぺテルスブルグの人びとは、一様に生気を失い、沈黙していた。
 「この町の活気のなさときたら、驚くばかりです。ここの住民には、精神の迸りというものがまるでありません」と、彼は書き記している。
 当時のロシアは、皇帝ニコライ一世の強力な独裁下にあった。一八二五年、専制と農奴制の廃棄を掲げて蜂起したデカプリストを武力で鎮圧すると、皇帝はみずからの専制体制の維持のために、思想統制や農奴制の強化などを一気に推し進めた。各地で巻きおとる農民の決起もととごとく潰されていった。そして絶えず襲いかかる貧困と飢餓。人間の尊厳を事もなげに蹂躙する独裁者の冷酷に、社会は急速に冷えきっていった。
 「私は自分の周囲を見回した。私の心は人々の苦悩に切り裂かれた」──十八世紀のロシア解放思想の父ラジーシチェフの言葉である。私の友人であるキルギスタン出身の著名な作家アイトマートフ氏は、私との対談集『大いなる魂の詩』のなかで、この言葉をロシア文学全体の題字エピグラフとしたい、と語っている。
4  トルストイ、ドストエアスキーらとともに十九世紀のロシア文学の主系列たるゴーゴリにもまた、「人びとの苦悩」を鋭く見つめる眼差しがあった。「人びとの苦悩」に切り裂かれる温かき心があった。彼は、こう語っている。
 「われらが広大な祖国の活気に満ちた諸階層を遠く広く見渡したまえ。わが国にどれほどよき人々がいることか。しかし同時にどれほどの禍があることか。とれら禍のため善き人々の生活がどれほど妨げられ、法に従うことができなくなっていることか。彼らを舞台に登場せしめよ」
 「善き人びと」を苦しめる「禍」──そうした悪に対しては、真っ向から戦っていかねばならない。そして、「善き人びと」がのびのびと楽しんでいける舞台を広げていく、そこに青年の永遠なる使命がある。
 抑圧された人間の歌をうたいたい、壮大なる民衆の魂を語りたいという青年ゴーゴリの願行は、国民詩人プーシキンとの出会いによって、いっそう決定的なものとなった。プーシキン三十二歳、ゴーゴリ二十二歳のことである。
 プーシキンは、ゴーゴリの才能を見いだした最初の人物とされる。また、ゴーゴリの主要な作品のいくつかはプーシキンとの対話のなかから生まれている。ゴーゴリにとってプーシキンは、まさしく生涯の師であり、最大の友人であった。戸田先生はよく、「つく人をまちがえてはいけない。師はえらばなくてはならない」と言われたが、二人の美しい交流はその言葉を彷彿とさせる。
 ゴーゴリは、のちに、「プーシキン! なんと美しい夢をわたしは見るを得たことか」と述懐しているが、人間の自由と尊厳を高らかに謡う偉大なる国民詩人との避遁は、彼の文学を「民衆の大地」へと、しっかりと根づかせたのである。
5  雄大なコサックの世界へ
 『隊長ブーリバ』は、そうしたなかで生まれた魂の所産である。一八三四年、二十五歳のことであった。同じ年、彼の代表作に数えられる『肖像画』『狂人日記』『鼻』なども一気に書き上げている。彼にとって創作力が著しく高揚したときでもあった。
 なお、ゴーゴリの作品は、明治三十年(一八九七年)に出た長谷川二葉亭の『肖像画』が、原書からの最初の邦訳とされる。しかし、その二年まえの明治二十八年、すでに徳冨蘆花がこの『隊長ブーリバ』を『老武者』と題して紹介している。また、この作品は明治三十六年にも『蛮勇』という題で邦訳・出版された。彼の代表作として晩年の大作『死せる魂』を挙げる人は多いが、日本に、おいては、まず『隊長ブーリバ』によって、ゴーゴリの名が親しまれるようになったといえる。
6  物語の舞台は十六世紀前後の小ロシアのウクライナ。ポーランド支配に反旗をひるがえしたコサック集団が織りなす不撓不屈の戦乱が、その背景となる。
 原始の姿をとどめた美しき広野。色とりどりの花々が咲き乱れ、草の香が涼風に漂う。青々とした大気の波を鳥の一群が、ゆっくりと泳いでいく。ドニエプル川の悠々たる流れ、満天の星、生の鼓動‥‥。ゴーゴリの自然描写はじつに巧みで、いつしか読者は雄大なコサックの世界へと誘われる。
 老将タラス・ブーリバは、頑固一徹・明朗実直・勇猛剛毅、そして弾けるような情熱と意志を併せもつ、典型的なコサックである。彼にはオスタップとアンドリイという二人の自慢の息子がいた。息子たちがキエフの宗教学校を卒業して父のもとに帰ってくると、ブーリバはうれしくて仕方がない。百戦錬磨の猛将は、二人を芯から鍛えあげようと、さっそく戦場へ連れていこうとする。
 「あちらにはお前たちのための真実の学校がある。あちらに行ってこそ、はじめて活きた知識が得られるのじゃ」
 それを開いて、痩せ老いた母親は涙を浮かべて悲しむ。久しぶりに戻ってきた愛する息子たちが、じっくりと語りあう間もなく危険な戦場へと奪い去られていくのである。出発の前夜、彼女は一睡もせずに、息子の枕許に身をかがめ泣きくずれた。
 「かわいい、二人のせがれよ! お前たちはこの先どうなるだろう? どんな運命がお前たちを待っているのだろう?」
 戸田先生は、この個所にふれながら、こうおっしゃっておられた。
 「この小説は、子どもに対する父の厳しい愛を書いているのだ。母親は、自分の子どもをいつまでも手許に引きとめていたい。父親は、殺しても行かせようとする。両親の愛情を、よく考えるべきだ」と。
 父親の愛情、母親の愛情──。それは、ともに子どもを愛することに変わりはないが、やはりその表れ方には違いがあるようだ。よく厳父・慈母という。この両者の愛情が見事に調和しゆくことが、子どもの教育にとって何よりも大切なことであろう。そのことについて、戸田先生はこうも語っておられた。
 「母親は、ガミガミ、年中叱ってよい。父親は黙っていてもこわいのであるから、友だちのようになってやることだ。決して叱ってはいけない。そして、国家・社会に貢献させることを目標において、わが子を愛していきなさい」
 このように戸田先生は、小説のちょっとした場面からも、人生の機微をとらえた濃やかな指導をしてくださった。
7  魂によって結ばれた絆
 さて、舞台は狂乱の戦場へと移る。父ブーリバのもと息子たちは期待どおりの活躍をし、コサック軍団は連戦連勝、ポーランド軍の町を陥落の瀬戸際まで追いつめる。タラス・ブーリバは、いよいよ鼻高々である。
 しかし、そこに思いがけない事件が起きた。次男アンドリイの裏切りである。初恋の相手が敵の将軍の娘であることを知った彼は、味方を捨て敵の陣中へと走っていったのである。裏切りはコサックにとって最も忌むべき悪疎な行為であった。タラス・ブーリバは声を限りに叫ぶ。
 「戦友を不幸のどん底に捨て、犬猫をほうり捨てるように、彼らの多数を仇敵の手に捨てて顧みぬやつが、なんでコサックじゃ?」
 「われら同胞は固く手を取り合って団結したのじゃ!(中略)この団結よりも神聖なものは絶対にない。(中略)ただ血縁によってではなく魂によって、固くひとつに結びつく事のできるのは、諸君、人間だけじゃ!」
 何という誇らかな宣言であろうか。いつの時代も、こうした美しき絆を破ろうとする人間は必ずいる。戸田先生はつねに、「裏切り者は出るものだ。そんな敗北者の屍を、君たちは堂々と乗り越えて前へ進め」と、私たち青年を叱咤されたものである。
8  敵の軍服を身にまとったアンドリイは、父ブーリバの手によって銃殺された。父親が息子を殺す──。が、そこには不思議なほど葛藤が描かれていない。ブーリバは息子の「卑しい野良犬のように、不名誉きわまる死にかた」を嘆くのみである。しかし、だからこそより衝撃的なかたちで、厳父の愛を切々と浮き上がらせずにはおかない。
 やがて敵には新たな応援が加わり、戦局は一変する。もう一人の息子オスタップが捕えられ、父ブーリバの眼前で無残に処刑された。そして、隊長タラス・ブーリバもついに囚われの身となり、火あぶりの刑に処せられ壮烈な最期を遂げる。
 父が死に、息子たちも死んだ。さらに、身の毛のよだつような殺戮の場面には事欠かない。それでいながら、この小説には溌剌とした明るさが随所にあふれでいる。それは、ブーリバを炎々たる火につつませながら、作者ゴーゴリが「わがロシアの力に打ちかつような、そのような力、そのような苦痛、そのような火焔が、はたしてこの世に見出されうるだろうか?」と語る段にいたって、人間讃歌ともいうべきクライマックスを迎える。
 同時代のロシアの著名な文芸評論家ベリンスキーは、このように述べている。
 「『タラス・ブーリバ』は民族生活の偉大な叙事詩の断片、エピソードの集まりである。もし現代に、ホメロスの叙事詩が可能であったら、この作品こそその最高の見本、理想、原型プロトタイプであるだろう」と。
 戸田先生は、「この小説で、ゴーゴリは、文化の開けない時代の生活を描いたのだ。そして、そこに母親の愛情、父親の愛情を描き、人間性を呼びさまそうとしたのだ」と語っておられたが、そのとおり、ゴーゴリの眼は徹頭徹尾「人間」から離れない。自由の凱歌、迸る熱情、生命の躍動、善と悪の葛藤、そして人間の結びあいが、全篇に生きいきと漲っている。
 彼は、どこまでも誇らかな人間の魂を謳いあげることによって、凍りついた仮面をひきはがしたかった。「このような人間たちがいる」というのでは足りない。「人間とは、このようなものである」という叫びを、荒涼としたロシアの大地に叩きつけたのである。
9  「死せる魂」の蘇生をめざして
 「そしてなおゴーゴリ氏は前進を続ける」
 『隊長ブーリバ』をむさ、ぼるように読んだ親友プーシキンは、こう語っている。その言に違わず、ゴーゴリは続けざまに、官僚社会の悪弊を辛辣に揶揄した戯曲『検察官』を書き上げている。
 彼は、この戯曲の題字として「自分の顔が歪んでいるのに鏡を責めて何になる」という言葉を掲げた。すなわち、歪んだ現実を見つめることなく、それを活写したこの作品をあれこれあげつらっても仕方がない、という人を食ったような挑戦状である。案の定わきおこった騒然たる非難と称賛の嵐のなかで、彼は平然と笑っていた。
 ゴーゴリは「笑いの作家」ともいわれる。たしかにゴーゴリの作品には、悲劇をも喜劇に突き抜けさせるような陽気さがある。そして、人間の尊厳を卑しめるものに対する小気味よい哄笑がある。
 ゴーゴリはみずからの「笑い」を「人間の光り輝く本性から流出してくる、物事の底に深く浸透してくる笑い」と名づけている。すなわち、その奥には、世界を、そして人間を新しい目でとらえようとする瑞々しい探究心が脈搏っていた。だからこそ彼の作品は、現実の人間が蔵する限りない可能性を提示するものとなりえたのである。
 ゴーゴリのそうした「笑い」は、不滅の大作『死せる魂』のなかにも躍如としている。死んだ農奴を買いあさる詐欺師の物語という、滑稽かつ奇想天外な世界を創出することで、ゴーゴリはロシアの闇を、人間の「悪」を洗いざらい暴きだそうとした。彼は、生きているはずの人間のなかに、「死せる魂」すなわち魂の喪失を感じとっていたのである。
 そして、その鋭き眼光は、何よりもまず彼自身を貫いてやまなかった。その苦悩のなかで彼は、「死せる魂」の蘇生をも描こうとしている。残念ながら未完に終わっているが、ダンテの『神曲』のごとく、第二部では主人公の贖罪を、第三部では人類の救済を意図していたといわれている。
 ゴーゴリは「万物の鍵は魂の内にある」という信念を抱いていたそれは、「道路、橋、その他の交通機関を建設することは必要である。しかし、内面のあまたの道をならすことは遥かに必要である」という言葉にも如実に表れている。だからこそ彼は、一にも二にも、人間の魂の覚醒をめざした。ほかでもないみずからの生活の場で、醜悪な現実の闇と格闘したのである。
 たしかに、それは途方もなく困難な作業であったにちがいない。評論家の小林秀雄氏は、著書『ドストエフスキイの生活』のなかで、「ゴオゴリを狂死に導いたものは、まさしくまだ世界にないものを創り出す苦痛であった」と述べている。しかし、彼はあえてその「苦痛」に立ち向かった。「生ける魂であれ、死せる魂となるな」という彼の遺言は、今なおその光芒を失っていない。
10  ロシアの大地から、トルストイやドストエアスキー、ゴーゴリ、プーシキンといった多くの世界的文豪が生まれたのはなぜか。以前、あるロシアの友人と語りあったことがある。その友人いわく──「ロシアの歴史的状況が生みだしたさまざまな苦悩や悲哀が、彼らの精神の高揚・飛翔をもたらしたのではないか」と。
 「大いなる苦しみ」こそが「大いなる精神」を生んだ。文豪ゴーゴリも、たしかにその一人であった。
 「ゴーゴリは人間の生を一瞬にして照らしだした稲妻である。その作品の放つ光は不滅である」──わが友人アイトマートフ氏の言である。

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