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「民衆の時代」への曙光 魯迅『阿Q正伝』

「若き日の読書」「続・若き日の読書」(池田大作全集第23巻)

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7  青年に限りない期待を寄せる
 昭和四十九年(一九七四年)、初めて中国を訪問した折、私は日程の合間を縫い、上海市内にある「魯迅故居」に足を運んだ。初夏の風そよぎ、緑したたる六月の夕暮れのことである。
 十年におよんだ文豪の上海生活のうち、晩年の三年半を過ごした家である。親交の厚かった日本人・内山完造の紹介で移り住んだ住宅という。ここで魯迅は五十五年の波瀾万丈の生涯を閉じた。彼が仕事をした机も、息を引き取ったベッドも、生前のままに簡素なたたずまいをとどめていた。
 魯迅は生涯に百四十余りもの筆名を使ったといわれる。すでに述べたように「魯迅」もその一つである。とくに戦乱が激化していく一九三三、四年ごろには、官憲の追及を逃れるため、七十もの筆名を用いたという。論敵との応酬では、相手の悪口・中傷を筆名として逆用さえした。みずから「雑文」と呼んだ膨大な短文は、文字どおり「寸鉄人を殺し、一刀血を見る」厳しさであった。
 死の二カ月まえ、魯迅は遺言ともいうべき文章を書く。そこで彼は、「(=死後)何なりと記念めいたことをしてはならぬ」といった七項目に続けて、西洋人が臨終の際、他人の許しを乞い、自分も他人を許すというが、と断りながら、こう言うのである。
 「私の敵はかなり多い。もし新しがりの男が訊ねたら、何と答えよう。私は考えてみた。そして決めた。勝手に恨ませておけ。私のほうでも、一人として許してやらぬ」
 この厳しさは、中国を心底から愛する心情の裏返しであったと思う。それは彼が偉大な作家であると同時に、偉大な教育者であったことからもわかる。魯迅は青年を心から愛した人であった。「夜明け前の作家」と評されるように、みずからは深い闇のなかを手さぐりしつつ、後に続く青年には、限りない期待を寄せていた。
 ある日、一人の学生がお金を握りしめて、彼の著書を買いにきた。魯迅は、代金を受け取るが、そこに学生の体温を感じた。以来、自分の文章が彼の前途を誤らせることはないだろうかと思うと、筆が鈍るというのである。無責任な煽動者には理解できない温かさ、深さである。
 以前、学生たちにも語ったことがあるが、私は「生きて行く途中で、血の一滴一滴をたらして、他の人を育てるのは、自分が痩せ衰えるのが自覚されても、楽しいことである」という魯迅の言葉が胸中から離れない。
 偉大な教育者であった牧口常三郎先生、戸田先生の両先生も、まさにこの言葉を彷彿とさせる尊いご一生であられた。
 魯迅は中国の歴史を「奴隷になりたくてもなれない時代」と「しばらく安全に奴隷でいられる時代」の循環だといっている。『狂人日記』でいう「食人社会」の異名である。そうした、おりのように沈殿して固まった精神の岩盤に穴を開ける作業は、たしかに途方もない難業であり、だからこそ魯迅の生涯は、襲いかかる絶望との間断なき戦いであったといってよい。そうしたなかにあって、彼は希望の二字を断じて手放そうとはしなかった。
 『吶喊』に収められた半自叙伝ともいわれる『故郷』の結語は、そうした戦士にして初めて発しうる、重厚な、一種底光りのする光を放っている。
 「思うに希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」
 魯迅は、道なき道を歩いた。彼自身は、おそらく「暗黒ともみあっていただけだ」というだろう。しかし、彼が砂を噛み、地を這うように進んだ後には、たしかに道ができていた

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