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日蓮大聖人・池田大作

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「民衆の時代」への曙光 魯迅『阿Q正伝』

「若き日の読書」「続・若き日の読書」(池田大作全集第23巻)

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1  「道とは何か。それは、道のなかったところに踏み作られたものだ。荊棘いばらばかりのところに開拓してできたものだ。むかしから、道はあった。将来も、永久にあるだろう」
 文豪・魯迅の言葉である。私がこの一節を「日記」に引いたのは、昭和三十五年(一九六〇年)の二月四日、中国文学者の竹内好氏が編訳した『魯迅評論集』をひもといたときのものである。
 恩師戸田城聖先生が亡くなってから、はや二年になろうとしていた。二月十一日の日記には、「戸田先生のお誕生日である。ご生存在れば六十歳。還暦であられる」「先生逝って、はや二年が近づく。早いともいえるし、全く長かったとも思える。ただ、なんとなく恐ろしき心が、頭に重い。責任、先輩、実績‥‥」等と、恩師への湧きおこる感慨を綴っている。
 この三カ月後、私は第三代会長に推戴され、未曾有の民衆運動の、新たな指揮を執ることとなる。当時の私の胸中を支配していたのは、恩師が、文字、どおり「荊棘」ばかりの、荒野に切りひらいた道を、万年に崩れぬ「永遠の大道」にすることのみであった。ひたすら、弟子らしく、青年らしく、無我夢中で走っていた。
 魯迅の言葉は、そんな若き心の琴線に鋭く響いたのであった。
2  文学による革命の旗手
 歴史上、文学が民族を鼓舞し、民衆の覚醒を促す「革命の銅鐸」の役割を果たした例は少なくない。近代中国もまた、そうであった。
 一九一八年、「文学革命」の旗手となった文芸誌『新青年』に、口語で書かれた一篇の小説が載った。被害妄想の狂人の口を借りて、古い家族制度や礼教の悪弊が痛烈に批判されていた。その『狂人日記』は、中国近代文学の記念碑的作品となる。「魯迅」というぺンネームが世に出た最初でもあった。その翌年、五・四運動が起こり、中国の革命運動は大きく燃え上がっていく。
 革命の歩みとともに、魯迅は、次々に作品を発表する。そして一九一二年十二月から翌年二月にかけ、『晨報しんほう』という新聞の別刷りに発表されたのが、彼の代表作『阿Q正伝』である。これは連載中から反響を呼び、主人公・阿Qの「行状」を自分への当てこすりかと勘繰り、戦々競々としていた人びともいたようだ。
 まもなく『阿Q正伝』は、初期作品を収めた小説集『吶喊とっかん』(一九二三年刊)に収録されている。ちなみに「吶喊」とは、開戦に当たって両軍の兵士があげる「雄叫び」のこと。その名のとおり、「ぺンの戦士」魯迅の出発点を飾る「雄叫び」であった。
 なお日本では、昭和六年(一九一三年)に『阿Q正伝』の最初の翻訳が出ている。また四年後には、『阿Q正伝』を含む『魯迅選集』が文庫判で出版され、急速に読者層は広がった。
3  「暗黒」を凝視して進む
 魯迅は、中国・江南の紹興の地で生まれた。本名は周樹人。周家はこの地方の名門であったが、父の病気など不幸が重なり、急速に没落する。魯迅が十六歳のとき、看病むなしく、父は他界。零落の一家は周囲の冷視にさらされ、魯迅は勉学に新たな道を求めて故郷を離れる。
 南京の学校に学んだ後、彼は一九〇二年(明治三十五年)、官費留学生として来日。清朝末期、中国からの留学生は最高一万人におよび、近代化に驀進する日本は、あたかも中国の民族革命の揺藍の地ともなっていた。長年の異民族支配から解放を求める青年たちが集っていた。魯迅もそうした息吹を呼吸した一人であった。
 日露戦争が起こった年(明治三十七年)、医学を志して仙台医学専門学校に入学する。留学中の思い出を綴った珠玉の短編『藤野先生』は、この仙台医専の恩師に捧げられたものである。
 ある日、魯迅の人生を変えるきっかけとなる事件が起こった。偶然、目にした幻灯(スライド)で、日本兵に処刑される中国人の姿を見てしまうのだ。縛られた同胞を無表情にながめる大勢の中国人も映っていた。やんやの喝采を送る日本人学生。そして、言葉もなく、その光景を見ている中国人の自分──。
 衝撃的な体験であった。そのとき、心に起こった変化を、彼はこう書いている。
 「愚弱な国民は、たとい体格がよく、どんなに頑強であっても、せいぜいくだらぬ見せしめの材料と、その見物人になるだけだ。(中略)むしろわれわれの最初に果すべき任務は、かれらの精神を改造することだ。そして、精神の改造に役立つものといえば、当時の私の考えでは、むろん文芸が第だった。そこで文芸運動をおこす気になった」
 しかし、その遠征は失意の連続であったようである。帰国後、一九一一年に孫文らが指導する辛亥革命が起こり、その翌年、清朝は倒れた。彼なりに「光明」を見いだし、革命のために挺身したが、軍閥の袁世凱が権力を握ると、旧態依然たる妥協と欺瞞が復活した。
 これが革命の結末か! 何が変わったというのか! 魯迅は絶望し、憤激したが、叫び声は闇の彼方に虚しく消えた。叫べども中国の大地は寂として答えず、底知れぬ「暗黒」が広がるばかりであった。彼は、その悲哀を「寂寞」と名づけた。
 今、魯迅の肖像写真を見ると、端正なその顔容かんばせのなかで、いかにも物事を直視する両眼が印象的である。否、それは人間の内面を、世の正邪善悪を、奥の奥まで見とおしてやまぬ眼だ。
 その眼をもって、魯迅は悠久四千年の祖国の「時黒」──彼自身その一部であるような「暗黒」を凝視したのだろう。いっさいの慎悩に耐え、一歩も退くことなく。
4  掘り起こされた民衆の「原像」
 彼が見ていた「暗黒」とは何であったか。あるとき、小説の執筆を勧める友人に対し、魯迅は「仮に鉄の部屋があったとする」と一つの譬えを語る。──窓は一つもない。壊すこともできない。なかには大勢の人間が熟睡している。後は窒息死を待つばかりだ。昏睡状態なので悲哀は感じないだろう。それを大声を出して起こすことは、助からない人間にわざわざ苦しみを与えるだけではないか、と。
 多年の沈黙を破って発表された魯迅の処女小説『狂人日記』は、このような内省と葛藤を経たものであった。魯迅は、すでに三十七歳になろうとしていた。そして、『阿Q正伝』で彼が描こうとしたのは、暗黒のなかに翻弄されて生きる民衆の「原像」であった。
 「一般人民は、まるで岩にひしがれた草のように、黙々と生き、そして黄ばみ、枯れてゆくばかり。この状態がすでに四千年つづいている。このような沈黙した国民の魂を描くのは、中国ではじつに困難である」
 『阿Q正伝』は、その「国民の魂」に生き生きとした造型を与えたのである。そのおもな舞台は、清朝の末期から辛亥革命が起こるころの「未荘ウエイチワン」という農村である。
 阿Qは三十歳前後の農民だが、まず姓名がはっきりしない。姓が不明だから家系も原籍もわからない。名のほうも明確なのは前半分の「阿」の字だけ。後ろ半分がどんな漢字なのか誰も知らない。また彼には土地も、持ち家もない。村はずれの廟を定宿に、忙しいときの臨時雇いで糊口をしのいでいる。
 このまったく「無名」の庶民を主人公として、魯迅は不滅の「庶民伝」を綴った。歴史の古層から、民衆の「原像」を掘り起こした──。それ自体、過去の常識を覆す「革命的」な事件であった。
 さて、阿Qは自尊心が強く、からかう連中に憤然と立ち向かうが、いつも反対にやっつけられている。しかし、「伜にやられたようなものだ」と即座に元気回復し、意気揚々と引き揚げる。「おいら、虫けらさ」とみじめな弁明を強要されたときでも、われこそ自分を軽蔑できる「第一人者」であると勝ち誇る。
 自分の優越感を取り戻すとの「精神的勝利法」のおかげで、阿Qはいつも得意である。魯迅は「かれはいつだって意気軒昂である。これまた、中国の精神文明が世界に冠たる一証かもしれない」と書いている。
 しかし、無敵にみえた阿Qの得意は、長く続かなかった。ある事件から、阿Qは趙旦那チャオだんなの怒りをかい、村八分になる。村を出奔後、城内で一儲けして帰ってくるが、泥棒の手先をしていただけのこと。そして一気に哀れな「末路」へと転がり落ちていく。
 折から、辛亥革命の波が村に押し寄せた。おびえる村人の姿を見て、阿Qは「革命も悪くないな」と思う。革命党が自分を迎えにきてくれれば、いじめた連中の鼻をあかしてやれるのに、といった程度の革命観しかない。革命党気取りで「謀叛」を口にし、辧髪べんぱつを巻き上げても、革命党と盗賊の区別もつかないのだ。結局、阿Qは、越一那の家を強奪した犯人一味として逮捕されてしまう──。
 魯迅が容赦なくえぐり出すのは、性格は善なるも、その弱さ故に、さまざまな悲喜劇を演じ、ながら破滅の淵を転がり落ちていく、悲しいまでにこっけいな、阿Qの姿である。傲慢、貪欲、暗愚、短慮、臆病、虚栄心、奴隷根性‥‥。それは、読む者には決して気分のよいものではない。あまりに醜悪だ、救いがなさすぎるという人もいるだろう。事実、当時の革命派からも、魯迅への激しい攻撃が絶えなかったようである。
 苛烈な告発の理由について、魯迅は「病苦を暴露することによって、治療への注意をうながしたかったからである」と書いている。肉体的病疫と同じく、ある種の精神の病は、手軽な売薬などでは歯が立たず、思い切った切開手術を要することを、彼は骨身に徹して知悉していたにちがいない。「精神の改造」という文豪の肺腑の言は、「人間革命」という私の生涯のテーマと深く響き合っているように思われてならない。
5  民衆が立ち上がる日を確信して
 銃殺の刑場へ引きまわされた阿Qは、以前出あった飢えた狼の恐ろしい眼を思い出し、喝采する見物の群衆に突然、同じ眼を直感する。
  ところが今度という今度、かれはこれまで見たこともない、もっと恐ろしい眼を見た。にぶい、それでいて棘のある眼。かれのことばを噛みくだいたばかりでなく、かれの皮と肉以外のものまで噛みくだこうとするかのように、近づきも遠のきもせずに、いつまでもあとをつけてくる。
  この眼たちは、すっとひとつに合体したかと思うと、もうかれの魂に噛みついていた。
  《助けて‥‥》
  阿Qの叫びは口から出なかった。とっくに眼がくらみ、耳が鳴り、かれは全身こなごなにとび散るような気がしただけである。
6  『阿Q正伝』のクライマックスである。
 『狂人日記』でも描かれた、″人が人を食う″残忍な「食人社会」が、ぱっくりと口をあけて阿Qを呑みこもうとする。《助けて‥‥》との呻きは、かの「狂人」のように、阿Qの、あえて言うならば覚醒──そこからしか真実の希望は決して見えてこないという、痛切な生の実感に立ちいたったことを示しているといってよい。
 阿Qはたしかに死んだ。ロマン・ロランは「わたしは、阿Qのあの悲しそうな顔を永久に忘れえない」と語っている。この民衆の悲しみの深淵を忘れ去ったとき、革命とは、権力と権力とのたんなる交代劇に堕してしまうにちがいない。
 『阿Q正伝』のなかに「阿Qを覚醒させなかったような革命は、革命ではなかったのだという批判」(伊藤虎丸)を読みとる研究者もいる。直接には辛亥革命を指しているが、阿Qが目覚めてこそ「真の革命」に値するというのであろう。
 実際、魯迅は阿Qのような民衆が立ち上がる日を確信していた。
 「もし中国が革命しないならば、阿Qもしない。革命したとしたら、阿Qもしたはずだ」
 「今後もしまた改革があるならば、阿Qのような革命党は必ずまた出現するであろうと私は信じている」と。
 いわば魯迅のいっさいの基準は、阿Qのような「民衆」だったのだろう。ここに彼の偉大さがある。
 戸田先生がいつも教えられたのも、「人びとを愛せよ」「民衆を愛せよ」ということであった。一方、「指導者は民衆のために働け」とよく言われた。地位や権威で人を見下す人間には厳しい先生であった。庶民とともに生き、庶民を心から愛された先生であった。
7  青年に限りない期待を寄せる
 昭和四十九年(一九七四年)、初めて中国を訪問した折、私は日程の合間を縫い、上海市内にある「魯迅故居」に足を運んだ。初夏の風そよぎ、緑したたる六月の夕暮れのことである。
 十年におよんだ文豪の上海生活のうち、晩年の三年半を過ごした家である。親交の厚かった日本人・内山完造の紹介で移り住んだ住宅という。ここで魯迅は五十五年の波瀾万丈の生涯を閉じた。彼が仕事をした机も、息を引き取ったベッドも、生前のままに簡素なたたずまいをとどめていた。
 魯迅は生涯に百四十余りもの筆名を使ったといわれる。すでに述べたように「魯迅」もその一つである。とくに戦乱が激化していく一九三三、四年ごろには、官憲の追及を逃れるため、七十もの筆名を用いたという。論敵との応酬では、相手の悪口・中傷を筆名として逆用さえした。みずから「雑文」と呼んだ膨大な短文は、文字どおり「寸鉄人を殺し、一刀血を見る」厳しさであった。
 死の二カ月まえ、魯迅は遺言ともいうべき文章を書く。そこで彼は、「(=死後)何なりと記念めいたことをしてはならぬ」といった七項目に続けて、西洋人が臨終の際、他人の許しを乞い、自分も他人を許すというが、と断りながら、こう言うのである。
 「私の敵はかなり多い。もし新しがりの男が訊ねたら、何と答えよう。私は考えてみた。そして決めた。勝手に恨ませておけ。私のほうでも、一人として許してやらぬ」
 この厳しさは、中国を心底から愛する心情の裏返しであったと思う。それは彼が偉大な作家であると同時に、偉大な教育者であったことからもわかる。魯迅は青年を心から愛した人であった。「夜明け前の作家」と評されるように、みずからは深い闇のなかを手さぐりしつつ、後に続く青年には、限りない期待を寄せていた。
 ある日、一人の学生がお金を握りしめて、彼の著書を買いにきた。魯迅は、代金を受け取るが、そこに学生の体温を感じた。以来、自分の文章が彼の前途を誤らせることはないだろうかと思うと、筆が鈍るというのである。無責任な煽動者には理解できない温かさ、深さである。
 以前、学生たちにも語ったことがあるが、私は「生きて行く途中で、血の一滴一滴をたらして、他の人を育てるのは、自分が痩せ衰えるのが自覚されても、楽しいことである」という魯迅の言葉が胸中から離れない。
 偉大な教育者であった牧口常三郎先生、戸田先生の両先生も、まさにこの言葉を彷彿とさせる尊いご一生であられた。
 魯迅は中国の歴史を「奴隷になりたくてもなれない時代」と「しばらく安全に奴隷でいられる時代」の循環だといっている。『狂人日記』でいう「食人社会」の異名である。そうした、おりのように沈殿して固まった精神の岩盤に穴を開ける作業は、たしかに途方もない難業であり、だからこそ魯迅の生涯は、襲いかかる絶望との間断なき戦いであったといってよい。そうしたなかにあって、彼は希望の二字を断じて手放そうとはしなかった。
 『吶喊』に収められた半自叙伝ともいわれる『故郷』の結語は、そうした戦士にして初めて発しうる、重厚な、一種底光りのする光を放っている。
 「思うに希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」
 魯迅は、道なき道を歩いた。彼自身は、おそらく「暗黒ともみあっていただけだ」というだろう。しかし、彼が砂を噛み、地を這うように進んだ後には、たしかに道ができていた

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