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日蓮大聖人・池田大作

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虹を追い求めた革命児 鶴見祐輔『ナポレオン』

「若き日の読書」「続・若き日の読書」(池田大作全集第23巻)

前後
1  「前進!」
 これが、全ヨーロッパを震動せしめた、若き、悍馬にまたがった、ナポレオンの一生を貫く姿であった。
 彼の思想、そして、行動の善悪は別として、ただ、みずからが信念と理想とをもって、人生を生ききった演劇的人生はたのもしかった。
2  昭和三十三年(一九五八年)六月、私が「若き革命家・ナポレオン」と題し「聖教新聞」紙上に寄稿した文の一節である。恩師戸田第二代会長逝いて二カ月余──当時三十歳の私は、まさに激流に挑みゆく青春の一日一日を送っていた。当時の「日記」をふりかえると、若葉の四月のある日に、こう綴っている。
  戦おう。師の偉大さを、世界に証明するために。一直線に進むぞ。断じて戦うぞ。障魔の怒涛を乗り越えて。
  
 「前進、また前進」──この言葉どおり、鉄の意志と烈火の情熱をもち、全欧州を駆けめぐった大英雄ナポレオン。彼の歴史的評価はさておき、当時の私はその一人の人間の、壮烈な魂の息吹に共鳴したのを憶えている。
 思えばナポレオンの生涯は、まさに戦いの連続であった。彼は一生のうち六十回も戦ったという。その心意気は、まさに「前進、また前進」の一語に尽きよう。
 「青年時代には偉人伝など伝記を多く読んで、歴史の勉強をするとよい」
 恩師は、よく言われたものである。私も二十二、三歳のころ、古今東西の偉人伝を数多く読んだ。なかでも鶴見祐輔氏の『ナポレオン』は、そのころ手にした懐かしい一冊である。
3  コルシカ生まれの少年
 ナポレオン・ボナバルトは、陽光燦たる地中海のコルシカ島に生まれた。島の面積は四国の半分ほど。少年の日のナポレオンを育んだもの──それは、コルシカの陽光あふれる自然の輝きであった。澄みきった爽快なる海、果てしなく続く青き空、駆けぬける風、そのなかで、少年の心は伸びやかに広がっていったといってよい。
 鶴見氏の『ナポレオン』の冒頭、「虹を追う少年」と題する一章には、こんな描写がある。
  峰々は、いま過ぎた驟雨の露をうけて、洗ったような翠色に光っている。その翠色と岩窟とのあいだから、大空に向かって、七色の美しい橋がかかっている。一端は碧い地中海のなかに消えている。
  
 コルシカの山から地中海にかかる美しき七色の虹。その虹を見つめていた少年ナポレオンは、急に駆けだす。川を渡り、野を走り、山を越え、夢中になって虹を追いかけていく。しかし虹は、どこまで追ってもわが手にすることはできなかった──。
 ここには、「虹を追いかける少年」が、やがて全ヨーロッパを驚かす「革命児ナポレオン」へと成長し、ついに夢なかばにして消え去りゆくことが暗示されている。
 この小説の末尾、鶴見氏は一詩をそえた。
4   地中海の波の子、ナポリオーン!
  おまえの地上いっさいの功罪よりも、
  おまえの頭のなかに吹き荒れていた
  その広大無辺の想像力に向かって、
  われらは、
  同じ人間としての同情を投げつける。
  星の子! 風の子! 虹の子!
  さらば!
5  世界へのロマン、未来へのロマンにあふれ、一生を劇のごとく走りぬけたナポレオン。
 ──ナポレオン死後百七十年を経、世界中で幾千の伝記や研究書が出版されたことだろう。欧米では今も、いわゆる「ナポレオンもの」がひろく読まれている。その虹を追い求めた人生は、時をこえてなお輝きを失わない魅力に溢れている。
 「君の世紀の思想の先頭に立って歩いてみ給え、それらの思想は君に従い、君を支持するであろう」とのナポレオンの言葉がある。
 彼は十八世紀の末に登場し、新しき世紀の思想の先頭を駆けた。ただ反面、時代を戦乱に巻きこみ、多くの犠牲者を出したことも事実である。今、二十一世紀をまえにして、新しき平和秩序の構築のため、新しき世紀の思想の先頭を進みゆく青年群が待ち望まれる。
6  さて、コルシカ島は一三〇〇年から四百年もの間、イタリアのジェノヴァ共和国に支配されていた。そのコルシカに独立運動が起こった。ナポレオンが生まれる十数年まえの一七五五年、二十九歳の一青年パスカル・パオリが統治者に選ばれる。彼はコルシカ人の代表者を集めて「議会」をつくった。小なりとはいえ初の人民政府である。アメリカの独立戦争(一七七五年)に先立つこと二十年まえのことであった。
 そのころ、フランスの啓蒙思想家ジャン=ジャック・ルソーは「大革命」の思想的導火線ともなった著作『社会契約論』のなかで、独立自由のコルシカ島に注目して次のように書いている。
 「ヨーロッパにはまだ立法を与えうる国が一つある。それはコルシカ島である。この雄々しい人民がその自由の回復とその防衛に示した勇気とねばり強さは、賢人がその自由をどのように維持すべきかを教えてやるだけの価値を示しているといえよう。私はある予感がしている、いつの日か、この小さな島はヨーロッパを驚かすことだろう」
 この予言にも似た言葉どおり、コルシカの自由の子ナポレオンは、やがてヨーロッパを席巻した。
 ルソーは二年後、「コルシカ憲法草案」を起草している。だが、その実現をみないうちにジェノヴァ元老院は、島を二百万フランでフランスに売り渡してしまった。ナポレオンが生まれる前年、一七六八年五月のことである。コルシカは大国の勝手気儘さに翻弄される運命にあった。
 ナポレオンの父シャルル・ポナバルトは、パオリとともに独立運動を戦った勇士。母のマリア・レティシアも、ナポレオンが生まれるまで山中に籠もり、銃を取ってフランス軍と戦っている。後年、ナポレオンは『コルシカ史』を著している。彼はどこまでも誇り高きコルシカ人として、祖国を愛し続けた。
 「強くあらねばならない」──不遇な祖国の歴史は、この一点をナポレオンの胸に深く刻みつけていったにちがいない。
7  偉人は読書より生まれる
 ナポレオンは、九歳のとき父に連れられ、兄とともにフランスに渡る。父は独立運動で挫折、一家の生活はどん底にあった。かつての敵国に、わが子の教育を委ねる以外になかったのである。当時まだ小学生の年ごろであった兄弟にとって、異郷での生活は、どれほど寂しく、辛かったことであろう。言葉も通じない。身寄りもない。そんな苦境のなかで、ナポレオンは激動の生涯を支えることとなる太き骨髄を着々と築きあげていく。彼は脇目もふらず課外読書に励んだ。
 「天才とは勉強なり」──ナポレオンのこの生涯のモットーは、若き日の実践に裏打ちされていた。彼が十代に読んだ書物の一部について、次のようにある。
 「砲術の原理と歴史、攻囲法、プラトンの共和政治論、ベルシャ、アテネならびにスバルタの憲法、英国史、フレデリック大王戦史、仏国財政論、蒙古人ならびにトルコ人の風俗地理、エジプト・カーセージ史、インド地理、英人の見たる現代フランス、ミラポー論、ビュッフォン論、マキャベリー論、スイス史ならびに憲法、中国、インドならびにインカ国憲法、天文、地質、気象学、人口増加原則、死亡統一」
 一見すれば、若きナポレオンが何を求め、何をめざしていたかが判る。一つひとつが将来に成さんとした事業に、必要なものばかりであった。しかも彼は、丹念に「読書ノート」を記している。残された読書録を印刷してみると、四百頁にもおよぶ膨大なものとなったという。読書録の一節には、このようにある。
 「エジプトが二つの海のあいだに横たわり、東西両洋の中位に介在するがゆえに、アレキサンダー大帝はこの国に世界帝国の首府を設け、もって世界通商の中心となさんと計画したのである。ゆえにこの賢明なる征服者は世界征服ののち、その各邦を統一するの道は、このエジプトを利用して、アジア、アフリカ、ヨーロッパ結合の楔子(くさび)となすにあった。
 まことに壮大な考察力である。若き想像の翼は、はるか国境を越え、海を渡り、全世界を駆けめぐったのであろう。
 なるほど人生とは、みずから志し、みずから努力し、みずから勝ちとるものである。この真理は、いつの時代も変わることはない。
 恩師戸田先生は折にふれ、私たち青年に対して、いかに生きゆくかを語ってくださった。
 「青年は、望みが大きすぎるくらいで、ちょうどよいのだ。この人生で実現できるのは、自分の考えの何分の一かだ。初めから、望みが小さいようでは、なにもできないで終わる」と。
 当時、戦争の傷痕はいまだ生々しく、未来も決して明るいものではなかった。先生は青年たちに対して、無限の希望をおくつてくださった。青年を心から愛され、育んでくださった。また、ご自身、生涯青春の先生であられた。
8  フランス革命の申し子
 ナポレオンは、自身のことを誇りをもって、こう語る。
 「私は民衆のふところから出た軍人だ、‥‥フランス革命の申し子だ」
 一七八九年七月、パリに革命の火が燃えあがったとき、ナポレオンは十九歳だった。兵学校を出た彼は砲兵少尉から中尉に昇進し、オーソンヌの連隊に駐屯していた。そこで、群衆が市の税関事務所に乱入するのを目撃する。絶対権力におさえつけられていた民衆が、その抑圧のくびきを解き放ち、立ち上がった。みずから考え、語り、行動を開始したのだ。青年の心は、新しき時代の到来を実感したにちがいない。
 当時、ロベスピエール三十一歳、ダントン三十二歳、ラ・ファイエット三十二歳、サン・ジュスト二十二歳。まさに「フランス革命の若き申し子たち」が大舞台に飛び出し、勇壮に舞いに舞った時代であった。
 恩師も「大事業は、二十代、三十代でやる決意が大切だ。四十代に入ってから″さあ、やろう″といっても、決してできるものではない」と言われていたが、若さこそ力であり、前進への限りなきエネルギーを秘めている。
 さて翌月、ナポレオン中尉はコルシカに帰省する。革命の大波は、海を越え故郷にも押し寄せていた。兄のジョセフは弁護士となり、コルシカ県会の議員になっていた。兄弟は政治討論に熱中し、クラブで語り、パンフレットを編集したりする。
 ユゴーの『九十三年』にも描かれているように、一七九三年は革命の成否を決する大乱の年となった一月、国王ルイ十六世が断頭台の露と消える。革命の果実をもぎ取ろうとする周辺諸国の軍隊が介入しはじめた。ナポレオンは、この年十二月、ツーロン港の攻囲戦に大勲功をおさめ、一気に陸軍少将へと駆け上がる。弱冠二十四歳、凛々しい将軍であった。
 一七九六年三月、ナポレオンは二十六歳のとき、イタリア遠征軍の司令官に任命された。
 「アルプスの峻嶺を越えてローマに入る」──それが、少年のころ『プルターク英雄伝』を愛読した彼にとっての念顕であった。英雄シーザーのごとく、「ルビコンを渡ってローマへ!」との思い切なるものがあったにちがいない。
 だが、本営に着いた彼を待っていたのは、あまりに厳しい現実であった。軍には食はなく、疫病は蔓延し、軍備も、軍資金もまったく不足していた。兵士たちに不安は広がり、老いた副将たちは若輩のナポレオンを甘く見、なめきって、動こうともしなかった。
 ナポレオンのただ一言の決意──それはただ「前進」であった。彼は全軍に向かって宣言する。作品では、少々古い言いまわしとなっている。
 「余は諸君をみちびいて世界最肥沃の原野に進まんとす。そこには富める都市と豊沃なる郡県あるべし。そこに諸君は名誉と光栄と財宝とを得べし。イタリア軍の兵士よ、諸君は勇気と堅忍とにおいて欠くるところありや?」
 司令官が直接兵士に呼びかけたのは、ナポレオンの演説が初めてだという。簡潔にして要を得た若き将軍のスピーチは、幾万の武器や兵糧よりも、兵士たちを鼓舞する大いなる力となった。まさしく「言葉は力なり」である。
 一七九八年五月、エジプト遠征に赴いた折のスピーチも有名である。眼前にそびえ立つ、ピラミッドやスフィンクスを指さしながら、彼はこう叫んだ。
 「健児よ! 四千年の歳月が君たちを見下ろしているぞ」
 彼は行く先々で、このような名言を多く残した。イタリアの詩聖ダンテの詩を愛読していた彼が、後世「行動する詩人」と、いわれたのも頷けよう。
 またナポレオンは、エジプト遠征の際、歴史学・考古学・言語学・地理学・地質学・生物学など、二百名もの学者や文学者を連れていき、いわゆる「エジプト学」を興した。かつてアレキサンダー大王は東征の道に、哲学者アリストテレスの下で、ともに学んだ歴史家や植物学者を同行させている。その例にならつてのことであった。
9  栄光と挫折の果てに
 一九六二年二月、私はエジプトのカイロを初めて訪問した。そのとき、ピラミッドの前に立ち、遥か古代の限りないロマンに、思いを馳せたことも懐かしい。
 たしかにナポレオンは、フランス革命の理想を掲げ、いったんは欧州大陸を制覇したかに見えた。一八〇四年、花の都パリで燦然と輝く戴冠式を挙行、三十四歳にしてフランス皇帝となり、栄華を極めるのである。
 しかし、最初のうち革命の防衛戦争であったものが、やがて皇帝の座に就いてからは征服戦争の色あいを濃くしていく。
 戸田先生は、「戦いには大義名分がなければならない」とよく言われていた。いつしか大義をなくし、民衆の支持をなくしたものは、たとえ一時の隆盛を誇ろうとも、長続きはしない。
10   一八〇八年 スペイン戦争
  一八一二年 ロシア遠征
  一八一四年 退位、エルバ島へ流罪
  一八一五年 百日天下
        ワーテルローの敗戦
  一八二一年 死去
11  このように、ナポレオンの末路もまた坂道を転げ落ちていくがごときであった。信頼していた部下たちの裏切りにもあう。みずからの人生をふりかえり、彼はこうつぶやく。
 「名誉や、利害でつった戦友は、最後は、皆だめだ。理想と純愛とをもって、ひきつけた人々のみが、最後の味方でありうるのだ」
 真の友情こそ、かけがえのない宝である。とともに、人生最期が最も肝心である。飛行機もたとえそれまでいかに順調に飛行しようとも、最後の着陸を誤っては元も子もない。総決算のとき、いかなる一念を持ち得るのか。満足の心か、それとも悔恨の情か。この厳粛なる実相は、いかなる権力をもってしでも、財宝で飾りたてようとも、隠しょうもない事実なのである。
 若き日、私は「日記」にこう記した。
  ナポレオンは、戦勝した。次に、大敗、文戦勝。最後は、敗戦の英雄であった。
  ぺスタロッチは、五十年の人生の戦いは、完敗の如くであった。而し、最後は、遂に勝利の大教育者として飾った。
  今、自分は、どのように戦い、どのように終幕を飾るかが重大問題だ。
12  一八二一年、ナポレオンは遥か南大西洋の孤島で五十一年の波澗万丈の生涯を終える。最後の言葉は「フランス‥‥先頭‥‥軍」であったという。無意識のなかに、なおも万軍に号令をかけようとしたのだろうか。
 「それにしても、私の生涯は、何というロマン(小説)であろう」──このナポレオンの言葉どおり、英雄の生涯には、どこか人びとの心を打つ詩がある。

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