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日蓮大聖人・池田大作

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豊かな人間学の宝庫 司馬遷『史記』

「若き日の読書」「続・若き日の読書」(池田大作全集第23巻)

前後
5  戸田先生は、よく語っておられた。
 「まさに『卒に将たるは易く、将に将たるは難し』だ。学会の青年は、この『将に将たる器』にならなければならない」と。
 この件も『史記』「淮陰侯わいいんこう列伝」に出ている。
 ──漢が天下を平定した翌年、楚王に封じられた功臣・韓信に謀反の嫌疑がかけられた。そこで高祖は、諸国を巡幸することに事よせて楚へ向かった。
 韓信にしてみれば、とがめられる罪はないつもりだったが、兵を発して謀反しようかとも思った。だが彼は、かつて青年時代にある少年から辱められ、股をくぐらされたこと(「韓信の股くぐり」として有名)があった。それを思い出したのであろうか。このときもよく忍耐して謀反を思いとどまり、高祖に謁見して縛についた。
 「そなたの謀反を密告した者があるのだ」
 そう高祖は言った。かくして韓信は罪人として洛陽に護送されたのち、赦されて王から位をさげられ、淮陰侯とされた。
 ある日、高祖は寛いで韓信と将軍たちの才能を語り合い、それぞれに等級をつけたことがある。高祖は、韓信に問いかけた。
 「わしなどは、どれだけの兵に将たることができるだろうか」
 「陛下は、まあ、十万の兵に将たるにすぎません」
 「そなたはどうか」
 「わたくしは、兵が多ければ多いほど、ますますよろしいです」
 高祖は笑って言った。
 「多ければ多いほどますますよいというのに、どうしてわしのとりこになったのか」「陛下は兵に将たることはおできになりませんが、将に将たることはおできになります。これが、わたくしが陛下の禽にされた理由です。その上、陛下はいわゆる天授の才能を受けておられまして、人力の及ぶところではありません」
 この条、韓信の皮肉とみるか、あるいは慢心の言とみるか、さまざまに解釈されよう。だが韓信はその後、数年にして実際に謀反を企て、捕えられて斬殺の刑に処せられた。さらに三族まで諒殺されたというから、かなり厳しい処罰である。
 韓信に対する司馬遷の評価も厳しいものであった。要するに韓信は謙譲でなく、おのれの功を誇り、天下が安定してから謀反を企てた罪は重いというのである。
 戸田先生も、よくおっしゃっていた。
 「人生は、最後に勝っか負けるかだ」と。
 ともあれ、今でも私は『史記』を読みかえすごとに、恩師戸田先生の指導を思い起こす日々である。

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