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革命と良心の葛藤劇 ユゴー『九十三年』

「若き日の読書」「続・若き日の読書」(池田大作全集第23巻)

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2  波澗万丈の生涯
 ヴィクトル・ユゴーは、十九世紀フランスの詩人にして偉大な文豪である。日本でも黒岩涙香の翻案になる『噫無情』(『レ・ミゼラプル』のこと。この作品については前に取り上げた)の原作者として有名だ。彼は詩人として出発、その天賦の才能をほしいままにした。
 「ぼくの小さかったころ、偉大な人物がごく近くにいた。父親と皇帝だ。なぜだかはっきりとは分からない。心の中では憎んでいたのに、この二人にとてもあこがれたなあ」
 ユゴーは少年時代を回想して、こう述べている。彼の父親は偉大なるナポレオン軍の将軍だった。となれば「皇帝」は、若くしてフランス革命に身を投じた英雄ナポレオン一世であろう。二人とも少年ユゴーにとって、ごく親しい人物だったのは当然である。
 早くから「神童」とうたわれたユゴーは、十七歳で兄とともに雑誌を創刊、創作活動を開始した。二十歳のころには処女詩集『オードと雑詠集』を著した。ロマン派の詩人ユゴーの華々しい出発である。
 一八二九年、ユゴーは二十六歳で『東方詩集』を発表した。これはオリエント、ギリシァ、トルコ、アラビア、ぺルシアなど、東方の新世界への憧れを歌ったもの。この詩集によって、詩人ユゴーの名声は不動のものとなった。彼は、たちまちにしてロマン派の若きリーダーとなる。
 一八四一年、ユゴーは念願のアカデミー・フランセーズ(フランス芸術院)入りを果たした。三十九歳である。さらに一八四五年、四十三歳で貴族院議員となった。
 むろん彼は、政治の力だけで社会を変革しようとしたのではない。一八四八年、嵐のような「二月革命」の際には民衆の側に立ち、素手で銃剣に立ち向かった。また一八五〇年の議会では「地上の貧困を絶滅させなければならない」と熱弁をふるった。彼は社会の矛盾を深く自覚し、一部の権力者がいっさいを独占しようとする事態に猛然と抗議し、民衆を擁護したのである。
 だが一八五一年十二月、ルイ・ナポレオン(皇帝ナポレオン三世)がクーデターを起こし、ユゴーなど共和派は追放された。この新たな独裁者により虐殺された共和主義者もいた。その結果、ユゴーはベルギーのブリュツセルから当時は英領のジャージー島、さらにガーンジー島へと、じつに十九年にもおよぶ長い亡命生活を余儀なくされた。年齢でいえば、最も活躍すべき四十九歳から六十八歳にいたる期間である。
 しかしユゴーは「亡命しているのはわたしではない。自由が亡命しているのだ」と、そう言って怯まなかった。「祖国フランスに『自由』が戻るとき、わたしもまた、フランスに帰るであろう」との決意のままに、彼は最後まで皇帝ナポレオン三世の圧政に屈しなかった。
3   悪運のつよい、光り輝くあの帝国の上に、
  神の怒りの雷をまぬがれた勝利の上に、
  さらし台をいくつもうち建てて、それを一つの叙事詩としよう!
4  一八五三年に出したこの『懲罰詩集』では、皇帝ナポレオン三世に対する抗議・抵抗・復讐心などが、まるで言葉の嵐のように吹きまくっている。ユゴlは神に代わって「言葉」でナポレオン三世を罵倒し、懲罰し、その卑劣な行いを「さらし台」に引き立て、告発しようとしたのだ。名指しこそしないが「あの悪党!」と呼んで、皇帝の圧政を糾弾した詩も見られる。
 思うにユゴーの生涯は、ある面では不遇の連続だった。社会的には迫害・弾圧・亡命が打ち続いた。家庭の不和、そして子どもたちの死が次々と彼を襲った。その怒涛のごとき生の軌跡からして、どうして人間は、あんなにも光輝みつ魂の叫びを表現できるものかと、私は不思議に思ったほどである。
5  革命と内乱の一七九三年
 戸田先生を囲んでの青年研修会において、ユゴー最後の小説『九十三年』が取り上げられたことがある。この作品はフランス革命を主題としたものだが、同時に「暴力と非人間的なものに対する人間愛の勝利」という一貫したテーマが脈搏っている。
 ある友人に宛てた手紙のなかで、ユゴーは小説の意図を次のように述べる。
 「革命をこの恐怖から解放したいと思います。この作品の中で、わたしは革命が無邪気なおさな児に支配されるさまを描きました。わたしはこの恐ろしい『九十三』という数字の上に、恐怖をやわらげる光を投げるようにつとめました」
 ユゴー自身、作品の題名ともした『九十三年』とは、一七九三年のこと。この年の初め、四年まえに起こった「大革命」の混乱も収まらず、ついにルイ十六世が処刑された。残忍なる「ギロチン」によって、国王が処刑されたのだ。
 ユゴーが「無用の長物」という恐怖の断頭台は、前年の一七九二年から使われていた。王党派であれ革命派であれ、次々とギロチンにかけられ、いわゆる「恐怖政治」が続いていたのである。
 そうした混乱の最中、小説の舞台となったヴァンデ地方にも反乱の火の手があがった。一七九三年、王党派と共和党派とに真っ二つに分かれ、激しい憎悪の惨劇が繰りかえされていた。──物語は、今を去ること二百年まえの、その「ヴァンデの森」に始まる。
6  ここまで『九十三年』の時代背景を書いてきて、私は戸田先生の読書法に関する指導を思い出した。前にも書いたが、もう一度、懐かしい恩師の話を紹介したい。
 「本の読み方にも、いろいろな読み方があるまず筋書だけを追って、ただ面白く読もうというのは、もっとも浅い読み方だ。
 次に、その本の成立事情や歴史的背景を調べ、当時の社会情勢や登場人物の性格などを見きわめながら、よく思索して読む読み方がある。
 そして第三に、作者の人物や境涯、その人の人生観、世界観、宇宙観、さらには思想まで深く読みとる読み方がある。そこまで読まなければ、ほんとうの読み方ではない」
 先生は、そうおっしゃって、私どもが研修会にのぞむにあたっても「事前によく調べておきなさい」と言われた。ユゴーの『九十三年』が取り上げられた際にも担当を決め、それぞれが物語の粗筋、フランス革命の時代背景、登場人物の性格など次々に立って発表したものである。
7  まず小説に登場する主人公は、ヴァンデの反乱軍の首領ラントナック侯爵、その甥の子で鎮圧軍の若き将軍ゴーヴァン、そして共和国政府から戦場に派遣された元神父シムールダン。この三人は、いわばユゴーの革命観を表現するためのシンボル的な存在であろう。すなわち、シムールダンは「革命」と「恐怖政治」の権化である。対するにラントナック将軍は、これまた苛烈な「反革命」の旗頭だ。そして若きゴーヴァンは「人間愛の革命家」として描かれる。
 粗筋は、大革命の混乱から逃れ、イギリスに亡命していたラントナック侯爵が、かつての領地に戻って反革命の戦を起こすところから始まる。ヴァンデ地方は、もともと反革命の王党派が強いところだった。
 有名な場面がある。──ラントナック将軍がイギリスからフランスに渡る航海の途中、砲手のふとしたミスで大砲の鎖が切れてしまった。大砲は甲板の上を暴れまわり、船そのものを破壊し、乗組員をなぎ倒した。やがて砲手は、命がけで大砲を鎖に繋ぐことができた。
 だが、ラントナックは砲手を呼び、まず勲章を与え、その後に銃殺する。
 明治生まれの恩師は、この例を引いて指導者のあり方を教えてくれた。つまり指導者は「賞罰を明らかにすることが大切だ」というのである。このことは恩師自身が日ごろ身をもって青年に示した教訓でもある。
 またユゴーは、三人の幼児を人質にとられた母親が、わが子らを探し求めて何ものにもへこたれず歩く姿を丹念に描く。
 戦争を憎む母親の悲痛な叫びは冷酷無比なラントナックをして、燃えさかる塔の中から幼児を救助させる行為へとつながる。
 結局、冷酷無惨な人間の心をも動かし、人間の良心をよみがえらせるのは、名もなき庶民の必死な姿である。ことに「非人間的なものに対する人間愛の勝利」という大きな主題が、よく表れている。
 ヴァンデ反乱の鎮圧に派遣されたシムールダンとゴーヴァンは、ついにラントナックを捕虜とした。しかし、一度は逃げきったラントナックが戦火につつまれた三人の幼児を救うため、敵中に舞い戻って捕えられてしまう。そして敵将に対する死刑宣告の前夜、こんどはゴーヴァンが大伯父ラントナックを逃がし、その罪により自身が断頭台にあがる運命となった。まさに革命と良心の葛藤劇である。
 これはラントナックの英雄的な行為に対し、どう報いるかを悩みぬいたゴーヴァンの選択だった。そのゴーヴァンを死刑にしたのは、かつての師父シムールダンである。彼もまた教え子が「法と正義」に殉じたあと、みずからの生命を断った。いかにもユゴーらしい、詩的な悲壮味をおびた劇的な幕切れとなっている。
8  未来を見つめて
 この小説のラストシーンは、まさに叙事詩のような結末である。作者は、ゴーヴァンとシムールダンの死を描いたあと、「この悲劇的な姉妹である二つの魂は、もろともに、一つは影となり、一つは光となって、まじりあいながら、とび去っていった」と述べている。
 二人は死ぬ前夜、師弟の対決ともいうべき一時をもった。法にもとづく「剣と絶対の共和国」を説くシムールダンに対し、ゴーヴァンは「理想と精神の共和国」を対置して互いに譲らなかった。むろんユゴー自身の思想は、ゴーヴァンの説く「理想と精神の共和国」であることは明らかだ。
 ゴーヴァンは、師に対して言った。
 「先生のおっしゃる共和国は人間を調合したり、はかったり、整頓したりします。わたしの言う共和国は人間を青空のまっただ中につれていきます。ここに、定理と鷲とのちがいがあるのです。
 つまりゴーヴァンの理想では、民衆を手段にしたり、犠牲にしない社会への転換が強く志向されている。ゴーヴァンは、また次のように言う。
 「わたしが望むのは、精神に対しては自由を、心に対しては平等を、魂に対しては友愛を、ということです。たくさんです! もう束縛はたくさんです! 人間が作られているのは、くさりを引きずるためではなくて、つばさをひろげるためなのです」
 ゴーヴァンは、みずからギロチンの犠牲となる道をえらんだが、最後まで眼前の悲劇の彼方に「偉大にして高貴な未来」が準備されていることを確信していた。彼は死の直前に、師のシムールダンから「何を考えているのか」と問われ、微笑みながら一言「未来のことを」と答えている。
9  ユゴーは、革命と内乱の渦巻く十九世紀に生き、絶えず「未来のこと」を考えていたといわれる。とくに「未来」の象徴としての子どもを大切にしたのは、その一例である。たとえば『九十三年』でも、ラントナック侯爵が最後に三人の幼児を救い出したシーンについて、戸田先生は言われたものである。
 「あの三人の子どもは、作者にとって『未来』の象徴だった。だから、救いだすように設定しであるのだ。子どもは未来の宝だ。未来からの使者だと思って大事にしなさい」
 ユゴーは、フランス文学に初めて「子ども」を主役として登場させた作家であるといわれる。子どもに深い愛情をそそいだ詩人として、あまりにも有名だ。
 かつての亡命の地、ガーンジー島で『九十三年』を執筆したのは、ユゴー七十歳の時だった。
 「そうだ!」「子供たちに囲まれて食事をするなんて楽しいだろうなあ」──そう思って週に一度、島の貧しい子どもたちを集めてご馳走会を開いた。『九十三年』のなかでも三人の幼児の生態が見事に描かれているのは、そのとき無邪気な子どもたちと遊んだ際の観察が活かされているからである。
 作者は『レ・ミゼラプル』で貧しい人びとへの愛を書いたが、この『九十三年』では未来に生きる子どもらへの愛を描きだしたといわれる。彼は七十五歳の時、『よいおじいちゃんぶり』と題する詩集まで出版した。
 ユゴーは、老いてなお未来を見つめる人だった。飛行船を歌った「大空」という詩では、未来の世界共和国まで構想していた。
10  大空を使って人間のために、未来の世界共和国の首都を作り、
 広大無辺な空間を使って思想をつくりながら、
    船は廃止する、古い世界の掟を。
 船は山々を低くし、塔や城壁を無用にする。
 このすばらしい船は、地上をのろのろと歩く諸国の民を参加させる、
    天翔ける鷲たちの集いに。
11  私は一九八一年六月に訪仏の際、ポエール上院議長の案内でフランス上院内の「ユゴーの部屋」などを見学した。そのとき、ポエール議長は私に、次のように語りかけた。
 「ユゴーは一八四八年にヨーロッパ統一ということを考え始めています。ヨーロッパの各国が互いにいがみ合っていた当時にあって、‥‥それぞれが互いに理解しあっていくことを夢みたということは、たいへんにすばらしい」
 ユゴーは、まさに未来を見つめる詩人であった。ちなみに、私がユゴーの「文学記念館」開設への着想を得たのは、このポエール議長との会見が縁となった。
 ユゴーには、早くから「一つの欧州」への願いがあった。それは国家の壁、民族の壁、そして人間の心の壁を打ち破る挑戦でもあった。ユゴーの夢みた「ヨーロッパ連合」の理想が、今や現実化しようとしている。

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