Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

独立自尊の意気高く 福沢諭吉『学問のすめ』『福翁自伝』

「若き日の読書」「続・若き日の読書」(池田大作全集第23巻)

前後
1  「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり」
 近代日本を代表する思想家にして教育者・福沢諭吉の名著『学問のすゝめ』の冒頭の一節。──あまりにも有名な言葉である。
 戦後の一時期、この言葉はNHKのラジオを通じて全国に放送された。日本を占領中だったGHQ(連合国総司令部)が民主化政策の一環として流したものという。私は、そのころ懸命に働きながら勉強していたが、なぜかこの言葉に励まされる思いだった。
 その影響力は絶大だった。人びとは『学問のすゝめ』を読みなおし、すぐ後に続く言葉の意義をあらためて噛みしめた。
2   されば天より人を生ずるには、万人は万人皆同じ位にして、生れながら貴賎上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働を以て天地の間にあるよろづの物をり、以て衣食住の用を達し、自由自在、互に人の妨をなさずして各安楽にこの世を渡らしめ給ふの趣意なり。
3  今の若い人が読むと、いささか古い文体に見えるかもしれない。だが、この書の初編が小冊子として出版された当初、明治維新直後の人びとには新鮮で、いかにも平易な文章として好評だったという。
 福沢諭吉が『学問のす』め』を著したのは明治五年(一八七二年)二月のこと。初編が発表されるや、あまりの評判に著者自身が驚いた。正版二十万、それに当時さかんに行われた偽版を合わせると推定二十二万部が売れたといわれる。
 気をよくした福沢は翌年に第二編を出し、さらに十七編まで書きついだ。明治十三年(一八八〇年)に「合本」を出すまで、およそ三百四十万部が売れたという。たぶん近代日本最初のベストセラーだろう。
4  「封建門閥」制度は親の敵
 多くの論者が指摘するように、福沢諭吉が『学問のす』め』で読者に訴えようとしたのは、第一に「封建門閥」制度の打破である。
 徳川時代のように、人は生まれによって差別されてはならない。誰もが生まれながらにして平等の存在であることを、彼は解りやすい言葉で語った。いわば「民主主義」の原点を説いたものである。
 福沢諭吉は、幕末の天保五年十二月十二日(西暦では一八三五年一月十日)、大坂(当時)の中津藩邸内に生まれた。父の百助が徳川親藩・豊前中津藩の蔵屋敷で廻米方かいまいがたを務めていたからである。
 父親は漢学の素養もある教養人だったが、軽格の下級武士である。諭吉が満二歳たらずの天保七年六月、その父は不遇な生涯を閉じた。残された妻と子(一人の兄と三人の姉)は九州中津に帰ったが、その後は貧しい生活を余儀なくされた。
 少年時代の諭吉は「勉強ぎらい」で、本を読み始めたのは遅かった。数えで十四、五歳からである。このことは、彼が晩年になって語りおろした『福翁自伝』に詳しい。就学が遅れたのは父親を失った身として「扶持米」(俸禄として与えられる米)の不足を補うため、母親の内職を手伝ったりしたからだという。少年諭吉は、子ども心にも「封建門閥」制度に腹が立ってたまらなかった。
5  父の生涯、四十五年の其問、封建制度に束縛せられて何事も出来ず、空しく不平を呑んで世を去りたるこそ遺憾なれ。又初生児の行末を謀り、之を坊主にしても名を成さしめんとまでに決心したる其心中の苦しさ、其愛情の深き、私は毎度此事を思出し、封建の門閥制度を憤ると共に、亡父の心事を察して独り泣くことがあります。私の為めに門閥制度は親の敵で御座る。
6  これも有名な諭吉の心からの叫びである。彼が学問を志したのは、まさに「親の敵」を討つためでもあった。
 諭吉は安政元年(一八五四年)二月、数えで二十一歳のとき、八歳上の兄・三之(申)助に勧められて長崎に出た。「蘭学」(オランダ語)を学ぶためである。ところが、長崎での勉学は結局、ものにならなかった。翌年、彼は故あって長崎を去り、江戸へ出るつもりで途中、大坂に立ち寄った。ここで兄の勧めもあり、たまたま当時評判の蘭学者・緒方洪庵の「適塾」(適々塾、または適々斎塾ともいう)に入門したのである。
 「大阪に来て緒方に入門したのは是れが本当に蘭学修業の始まり、始めて規則正しく書物を教へて貰ひました」
 このように『福翁自伝』のなかで語っている。諭吉が適塾で学んだのは、途中に中断があって三年たらずだが、ここで彼は学問の基礎を「初めて規則正しく」徹底して学んだ。師の緒方洪庵の教え方は、厳しさのなかにも独特の温かさがあったという。学問の修業においても、就くべきよき師に就かなければならないことを示している。
 思えば、私が恩師戸田城聖先生に学んだのも諭吉と同じ二十代だった。戸田先生は、よくおっしゃっていた。
 「人の一生は、二十代で決まる。二十代で、しっかり基礎をつくるかどうかで左右される。その時代に勉強したことは一生残るものだ。勉強は、やる気さえあれば、どんな方法でもできるものだよ」
 要するに先生は、「一生残る学問」すなわち学問を実際に活かす方法を教えられた。このことは、福沢諭吉も『学問のすめ』のなかで繰りかえし説いている。
7  学問の要は活用に在るのみ。活用なき学問は無学に等し。在昔或る朱子学の書生、多年江戸に執行して、其学流に就き諸大家の説を写取り、日夜怠らずして数年の間に其写本数百巻を成し、最早学問も成業したるが故に故郷へ帰る可しとて、其身は東海道を下り、写本は葛籠に納めて大廻しの船に積出せしが、不幸なる哉、遠州洋に於て難船に及びたり。
8  これも有名な話で、戸田先生もよく青年に語っておられた。
 「君たちは大丈夫だろうな。『学問は東京に残し置きたり』なんて言い訳しても始まらないぞ。今の大学で、学生がせっせと講義をノートしているのは、マアとの類だ。学会の教学では『御書』を身・口・意の三業をもって拝するのです。御文に『声仏事を為す』と仰せのように、仏法で学んだことは、どしどし口に出して話しなさい。そうすれば、やがて身につくものです」
9  苦学し初めて海を渡る
 若き諭吉は寝食も忘れ、蘭学をマスターしていった。適塾の塾頭に就いてからは、師の洪庵に代わって原書を講じるまでになった。そのころの猛勉強のさまを『福翁自伝』のなかで語っている。
 「殆んど昼夜の区別はない、日が暮れたからと云て寝ようとも思はず頻りに書を読んで居る。読書に草臥れ眠くなって来れば、机の上に突臥して眠るか、或は床の間の床側を枕にして眠るか、遂ぞ本当に蒲団を敷いて夜具を掛けて枕をして寝るなどと云ふことは只の一度もしたことがない」
 塾生は皆、そうだった。諭吉は自分の枕を探したが、そのときに初めて枕のないことに気づいたという。
 「成程枕はない筈だ、是れまで枕をして寝たことがなかったから」と。「同窓生は大抵皆そんなもので、凡そ勉強と云ふことに就ては実に此上に為ようはないと云ふ程に勉強して居ました」
 こうして適塾からは、日本の命運を決するほどの逸材を輩出したことは、よく知られている。幕末の革命家・橋本左内、明治初期の軍人にして政治家・村田蔵六(大村益次郎)、日清戦争の際の外交官として活躍した大鳥圭介、日本の医療制度を改めた長与専斎、日本赤十字社(創立当時・博愛社)をつくった佐野常民などがいる。
10  さて諭吉は、その学力が天下に知られるようになると、やがて江戸へ出て蘭学を教える身となった。安政五年(一八五八年)秋、数えで二十五歳のときである。彼は大坂から徒歩で江戸に達し、築地にあった中津藩下屋敷内に蘭学塾を開いた。これが今の「慶応義塾」の起こりである。
 江戸に出て二年後の万延元年(一八六〇年)正月、若き諭吉の前に世界が大きく開けた。幕府が米国に使節を派遣することになったのである。その使節一行を警護するとの名目で「威臨丸」を派遣するという。坐乗の軍艦奉行は木村摂津守喜毅、艦長は勝麟太郎(海舟)である。話を伝え聞いた諭吉は、居ても立ってもいられなくなった。
 諭吉は、すでに蘭学が時代遅れになりつつあるのを知っていた。これからは「英学」の時代になると思い、開港したばかりの横浜へ行つては外国人に英会話を試みたりしていた。しかし今、その英語の本場へ幕府公認の使節が派遣されると聞き、彼は何としても一行に加えてもらいたいと考えたのである。
 だが、江戸に出て間もない諭吉には、幕府の要路に縁故もなかった。ただ幕府お抱えの蘭学医・桂川甫周の家には、よく通っていた。その家で訪問客にお茶を出してくれる夫人が、じつは木村摂津守の夫人の実妹だった。
 そこで諭吉は桂川甫周の家を訪れ、木村軍艦奉行への紹介状を書いてくれるよう懇願した。まさに「当たって砕けよ」の精神である。
 幕府は長い間、「鎖国政策」をとってきたから、幕臣にとっては初の洋行である。命がけではあるが、威臨丸での渡航は日本の壮挙である。むろん諭吉にとっても、願ってもない第一回の洋行となった。
 一行はアメリカ西海岸のサンフランシスコに五十一日間だけの滞在だったが、とのときの見聞は、数え二十七歳の青年諭吉にとって裨益するところ大であった。
 帰国後、福沢は幕府の外国方(外交部)に雇われた。幕府の直臣である。中津藩の下級藩士にしてはたいへんな出世だった。しかし彼は幕臣となりながらも「このままでは国が保たない」と思った。活きた学問をもって日本を独立させる方途を真剣に考えた。
11  「一身独立して一国独立す」
 福沢は慶応四年(一八六八年)四月、それまで築地鉄砲洲にあった私塾を芝・新銭座の旧有馬家中屋敷に移した。また時の年号をとって正式に「慶応義塾」と名づけた。
 この年は九月になって「明治」と改元され、新時代を迎えるが、その五月十五日、上野の山で彰義隊(すなわち旧幕府軍)が新政府軍と激しく交戦した。だが、銃声が聞こえる最中でも諭吉は平然と講義を続けていた話は、よく知られている。
 戸田先生も、この話を例にして、世情に動かされるととなく学問することの重要性を語っていたものだ。『福翁自伝』には次のように伝えられている。
12  明治元年の五月、上野に大戦争が始まって、其前後は江戸市中の芝居も寄席も見世物も料理茶屋も皆休んで仕舞て、八百八町は真の闇、何が何やら分らない程の混乱なれども、私は其戦争の日も塾の課業を罷めない。上野ではどんどん鉄砲を打て居る、けれども上野と新銭座とは二里も離れて居て、鉄砲玉の飛で来る気遣はないと云ふので、丁度あの時私は英書で経済エコノミーの講釈をして居ました。
13  そのうちに大分騒々しい様子で、「煙でも見えるか」というので、生徒らは面白がって梯子に登り、屋根の上から見物したりした。だが諭吉は、そのとき塾の者に次のように語ったという。
 「世の中に如何なる騒動があっても変乱があっても未だ曾て洋学の命脈を断やしたことはないぞよ、慶応義塾は一日も休業したことはない。此塾のあらん限り大日本は世界の文明国である、世間に頓着するな」
 まさに「その言や善し」である。戸田先生も、この話を引いておっしゃった。
 「戦争の際、あのように泰然自若としていたのはたいしたものだ。彼には、日本の将来が見えていたのでしょう」
14  福沢諭吉は、こうして維新の夜明けを迎えた。だが、新政府への仕官は拒否した。何度も誘いの使者があったが、頑なに拒否した。その理由はさまざまに言われているが、彼は教育により「文明開化」の日本を担って立つ人材の育成に全力を傾注した。しかも官立ではなく、あくまで私塾を拠点として「独立自尊」の教育を心がけた。
 福沢が『学問のすゝめ』を書いた目的は、その第三編に「一身独立して一国独立する」とあるように、新生日本を文明国として独立させるためである。彼はまた「慶応義塾」建学の根本に「独立自尊」の精神を置いた。国民の一人ひとりが「独立」の気風を確立していくところにこそ「一国独立」の基本があると主張したのである。
 たしかに、一個の独立した人格のないところには「人間」としての信念・節義・識見もない。封建時代からの「長いものには巻かれよ」とか「寄らば大樹の陰」といった日本人の隷属根性を、彼は徹底的に批判した。
 また『学問のすゝめ』第十二編の「演説の法を勧むるの説」において、次のように述べている。
15  演説とは英語にて「スピイチ」と云ひ、大勢の人を会して説を述べ、席上にて我思ふ所を人に伝るの法なり。(中略)西洋諸国にては演説の法最も盛にして、政府の議院、学者の集会、商人の会社、市民の寄合より、冠婚葬祭、開業開店等の細事に至るまでも、僅かに十数名の人を会することあれば、必ず其会に付き、或は会したる趣旨を述べ、或は人々平生の持論を吐き、或は即席の思付を説て、衆客に披露するの風なり。此法の大切なるはもとより論をまたず。
16  このように諭吉は「スピイチ」の重要性を説いた。大いに人前で演説することこそ「独立」「自由」「民主」の原点であると主張したのである。
 何事も実行の人である彼は、さっそく明治七年(一八七四年)、慶応義塾内に「三田演説会」を開いた。最初は弁論大会のようなものだったが、これを盛んにするため翌年、義塾内に「三田演説館」を建て、公開の演説会とした。諭吉自身も演壇に立ったのはいうまでもない。ちなみに、この「演説館」なる建物は日本最初のものとされ、今は各地に見られる「公会堂」、あるいは「文化会館」などの嚆矢こうしともいえよう。
 明治十五年(一八八二年)三月一日、福沢はまた中立不偏の新聞「時事新報」を創刊した。独立自由の言論の府である。彼は、みずから社説の筆を執ってもいる。同月十一日、彼は三田の演説館で演説した。その演説をきいた聴衆のなかには、昂奮のあまり卒倒する者も出たという。さっそく演説筆記が「僧侶論」と題して「時事新報」三月十三日付の社説となった。肉食妻帯した僧侶の腐敗堕落、腰抜けぶりが痛撃されている。
 百年後の今日でも彼の「僧侶論」さながらの姿が見受けられる。百年たっても封建遺制のくびきは取り去られていないのだ。今なお福沢諭吉の著作がひろく読まれる所以であろうか。

1
1