Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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ルネサンスへの讃歌 ダンテ『神曲』

「若き日の読書」「続・若き日の読書」(池田大作全集第23巻)

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2  迫害の連続だった生涯
 イタリアの詩聖と仰がれるダンテ・アリギエリは、花の都フィレンツエ(フローレンス)に生まれた。日本でいえば鎌倉時代の文永二年──日蓮大聖人が伊豆流罪から故郷安房(今の千葉県南部)に戻られたとろ──すなわちダンテは、大聖人より四十三年後に生まれた人である。
 そのダンテの生涯と『神曲』について、私は今から二十年近く前に対談したトインビー博士の言葉が忘れられない。談たまたま「好きな作家は誰ですか」と私がうかがったところ、博士は真っ先にダンテを挙げられた。
 「ダンテは二つの点で、とても不運な人間でした。一つは愛する人と別れねばならなかった。一つは愛する故郷フィレンツェを不当な理由で追放された。しかしダンテがもしこの二重苦を味わわなかったとしたら、あの『神曲』は決して生まれなかったでしょう。ダンテは、偉大な芸術を生みだすことによって、みずからの私的な不幸を世界の多くの人びとの僥倖へと転換しました。だから私は、ダンテの人格を敬愛してやまないのです」
 たしかにダンテは、その生涯において二つの不運を経験した。しかし彼は、みずからの不運と悲哀を発条として、不朽の名作『神曲』を残すことになったのである。
 ダンテの生涯における第一の不運とは──永遠の恋人ベアトリーチェとの出会いと別れである。二人の出会いは一二七四年春、フィレンツェの花祭りの日だった。その日、ダンテは父親と一緒に、ある銀行の重役の家に招かれた。その家には、少年ダンテと同じ年ごろの娘で、通称「ビーチェ」と呼ばれる令嬢がいた。初めて見る彼女は、この世の人とも思えないほど清純で美しく、白い服を着て客の接待をしていた。
 九年後、ダンテ十八歳のとき、近くのアルノー河の聖トリニタ橋のたもとで、二人の友達にはさまれて歩いてくるビーチェ(ベアトリーチェ)に再会した。彼女は、ダンテを見ると懐かしそうに微笑んだ。ダンテは天にも昇った気分で帰宅すると、すぐに「新生」と題する詩を書いた。
 その後もダンテは、しばしば彼女を主題とする詩を書いた。だが二人の恋はプラトニックなものに終わり、ついに結ばれることはなかった。両家が経済的にあまりにもかけ離れていたからである。その後、彼女は銀行家シモーネ・デ・バルディの一族に嫁し、二十四歳の若さで病死してしまった。心の恋人が死んだのを知ったとき、ダンテは精神的に大きな打撃を受けた。その悲哀に打ちかっために、ひたすら哲学書を読み耽ったという。
 そんなとき、悲しみに沈むダンテに同情する女性が現れた。彼女は『新生』第三十五章に描かれる「窓辺の貴婦人」とされている。恋人を失い、失意の底にいたダンテの姿を見て、慈愛深く同情してくれたという。
3  ダンテは、こうしてベアトリーチェの死という悲哀から立ち直った。ボローニャ大学に留学し、やがて祖国フィレンツェのために働く政治家となった。彼は富裕な市民に支持された平和愛好の「白党員」となって活躍。
 だが皮肉なことに、ダンテ三十歳のとき、彼の妻となったジェンマ・ドナーティの一族は、古い封建貴族に支えられた「黒党員」である。この黒白両党は以後、骨肉相食む血みどろの抗争を繰りかえすことになる。
 ダンテは三十五歳のとき、他の四人の政治家とともにフィレンツェの最高責任者である「統領」の一人に選出された。このとき彼が戦ったのは、ローマ教皇ポニファチオ八世。野心家の教皇はフイレンツェを自己の支配下に置こうと圧力をかけ、さまざまに画策した。聖職者にあるまじき策謀家である。剛勇の人ダンテは、その矢面に立って教皇の圧力をはねかえそうとする。
 しかし、当時の教会権力は絶大だった。腹黒い教皇と結ぶ黒党の勢力が増し、ダンテはやむをえず和解のためローマ教皇のもとへ向かった。ところがダンテらが旅立った直後、教皇の息がかかったフランス王弟が軍を率い、フィレンツェに入城したのである。白党員は総崩れになり、ダンテ自身もまた欠席裁判で有罪となってしまった。
 公金横領、教皇庁への陰謀、フランス王の弟への妨害運動など、ダンテにとっては身に覚えのない罪である。判決は多額の罰金と国外追放、さらには見つけしだい「火あぶり」に処すという厳しいものだった。財産は没収され、フィレンツェに残された妻子も狙われた。ダンテにとって第二の不運である。
4  放浪中に書いた『神曲』
 ダンテは「何もかも失った男」となった。若き日には恋人を失い、今また地位と名声を失い、天涯孤独の身となってしまった。人生半ばの三十七歳にして、何よりも美しき故郷までも失った。彼は以後十九年間、五十六歳でその波澗の生涯を終えるまで、放浪の旅を続けざるをえなかった。
  われ正路を失ひ、人生の羈旅きりょ半にあたりてとある暗き林のなかにありき
  あゝ荒れあらびわけ入りがたきとの林のさま語ることいかに難いかな、恐れを追思にあらたにし
  いたみをあたふること死に劣らじ、されどわがかしこにけし幸をあげつらはんため、
  わがかしこにみし凡ての事を語らん
 このように『神曲』地獄篇の冒頭に歌われている。人生の旅の半ばにして光なき「暗闇の森」に迷いこんでしまったダンテ。彼は、そこで出会った師のヴィルジリオ(ローマの詩人ヴェルギリウス)に導かれ、死後の世界ともいうべき彼岸へと旅立っていく。
5  さて『神曲』の題名は本来「コメディア」、すなわち「喜劇」もしくは「喜曲」といったものだった。その構成は第一部「地獄篇」に始まり、第二部は罪を浄化するという意味の「浄火篇」(浄罪篇、煉獄篇とも訳される)、そして第三部は浄められた生命のいたる「天堂篇」(天国篇とも)となっている。このように、地底の闇から天上へと昇って最後がハッピーエンドで終わるので、ダンテは題名を「喜曲」としたのだという。
 「神聖なる喜曲」という意味の『神曲』の書名は、後世の人が敬称として付けたもの。ちなみに『神曲』が最初に出版されたのは、ダンテ死後百五十年も経った一四七二年のことだ。なお、ここにいう「神」は、必ずしもキリスト教の「神」のみを指すのではない。
 『神曲』を読めば明らかなように、そこにはギリシア・ローマの古典やアラビアの自然科学、インドや砂漠の風物など、当時のありとあらゆる知識が盛りこまれている。いわば『神曲』は、一種の百科全書的な長篇叙事詩であるとの見方もなされている。
 ダンテが長篇詩『神曲』で意図したものは何か。彼は、ある書簡(カン・グランデ・デルラ・スカーラに宛てたもの)のなかで、その目的を次のように書いている。
 「この世に生きている人々を、みじめな状態から幸福な状態に導こうとするのであります」と。また「喜曲ははじめ悲惨な状態ではじまりますが幸福な終局で終ります。私の作品も地獄ではじまり天堂で終る」(大意)という。文体も勿体ぶらず、婦女子も用いる俗語で書かれているから「喜曲」と命名するに相応しいとも書いている。
 悩める人を、いかにして幸福へと導くか。中世暗黒の地獄の苦しみにある民衆を、いかにして幸福の天上へと誘うか。──ここにダンテの透徹した視点があり、後世まで人びとの心を魅了した秘密があるといえよう。
 ところで『神曲』地獄篇には、大きく九つの地獄が描かれている。それぞれ「肉欲者」「浪費者」「憤怒者」「暴力者」「汚職者」「反逆者」などが地獄に堕ちて苦しむ姿が、きわめてリアルに表現される。その生々しい描写は、洋の東西を問わず読者に激しい衝撃を与えたほどである。
 ダンテは、地上の最高権威とされたローマ教皇すら恐れなかった。聖職者であっても、酒飲みで美食に耽り、あるいは陰険な策謀をめぐらしたりする教皇を、ダンテは「人間正義」の立場から容赦なく断罪した。永遠の高みから見るならば、現世の地位や肩書など幻にすぎず、死後にはしかるべき報いがあることを示したのである。ために『神曲』のなかでは、教皇をも地獄に堕とし、敵味方を問わず公正に死後の「居場所」を定めた。
 軽い罪から重い罪へ、ダンテは師とともに地獄の下方へ進む。愛欲や浪費など不節制の罪、自分に対する暴力(自殺)の罪、汚職や金儲け目当ての聖職者の罪など具体的に名を挙げて断罪する。なかでも恩ある主人に反逆した罪は重く、彼らは地獄の最低の場所で、極寒の氷の中に永遠に閉じこめられ、魔王に食べられ続けていた。
 この世では正義の人が罪に陥り、なぜ悪人が栄えるのか。その迷いを晴らすためダンテは『神曲』の完成に精魂を傾けた。「書くこと、語ること、そして歌うこと」──それは、ダンテにとって全生命を賭けた戦いでもあった。彼は亡命の悲哀の最中、死の直前に執念の書『神曲』を完成させる。
6   ミネルヴァの木葉に巻かれしかおおほひその首より垂るゝがゆゑに、我さだかに彼を見るをえざりしかど
  凛々しく、気色なほもおごそかに、あたかも語りつゝいと熱き言をばしばし控ふる人の如く、彼続いていひけるは
  よく我を視よ、げに我は我はげにベアトリーチェなり、汝如何してこの山に近づくことをえしや汝は人が福をこゝに受くるを知らざりしや。
7  『神曲』浄火篇の第三十曲──地上の楽園の花の雲の中から天使ベアトリーチェが現れ、十数年ぶりに再会したダンテに語りかけるくだりである。『神曲』はイタリア語で書かれた、もっとも美しい叙事詩だといわれるが、このあたり私も若き日に愛読した一節であった。
 作者自身が予告しているように、このあと第三部「天堂篇」では、彼が九歳のときからずっと心の恋人としてきたベアトリーチェの魂に導かれ、至高の天へと昇っていく様子が描かれる。いかにもハッピーエンドで終わるところに救いがある。おそらくダンテは、人間復興への愛と正義の讃歌を書こうとしたに相違ない。
8  ルネサンス原点の地
 ダンテの生きた十三世紀末から十四世紀にかけて、フィレンツェでは市民が教養としての学問や芸術を修道僧から取り戻し、自分たち独自のものを創造しはじめた。とくに詩人たちは、権威主義的な教会の改革運動に熱心だった。これがのちにイタリア全土での「人文主義」(ヒューマニズム)によるルネサンスへと発展していった。
9   それフィオレンツァはその昔の城壁──今もかしこより第三時と第九時との鐘聞ゆ──の内にて平和を保ち、かつひかへかつ慎めり
  かしこにくさりも冠もなく、飾れる沓を穿く女も、締むる人よりなほ目立つべき帯もなかりき
  まだその頃は女子生るとも父の恐れとならざりき、その婚期その聘礼おくりものいづれも度を超えざりければなり
10  『神曲』天堂篇の第十五曲で、ダンテは故郷フイレンツェの平和な風俗を歌っている。その美しくも平和なフィレンツェの街を、私は一九八一年六月に訪れた。そのときダンテの生家を訪問し、かの偉大なる生涯を偲んだものである。
 思えば──緑なすフィレンツェの天地は、私にとって青年時代からの憧れの地だった。その地は「神」に縛られた中世の暗黒時代から、光揮く人間復興のルネサンスへの波をつくった震源地であったからである。
 フランス語で「再生」を意味する「ル、ネサンス」は、イタリアで生まれたものである。その淵源を遡れば、イタリア語で「再生」を意味する「リナッシタ」に由来するという。すでにダンテの『新生』や『神曲』にも現れていた語である。しかも彼は、イタリアでも最初の人文主義者といわれる。いわばダンテは、名実ともにル、ルサンスの「生みの親」ともいうべき詩人であった。
 ダンテの時代、書物は主としてラテン語で書かれた。教会や学問の世界でもラテン語が用いられた時代である。むろん庶民は、イタリア各地の俗語で話したが、それも無数の方言に分かれ、統一した形はなかった。
 そうしたなかでダンテは、あえて当時の俗語である「トスカナ語」(今のイタリア語)で『神曲』など多くの著作を記した。より広く、より大勢の民衆に理解できるように願つてのことであろう。いわゆる「象牙の塔」に閉じこもるのではなく、彼は「権威の世界」よりも「庶民の人間性」を愛した。
 祖国の政治的統一をも願っていたダンテ。その統一が果たされた十九世紀(イタリアが統一されたのは一八七〇年のこと)に、ある思想家は「ダンテが蒔いた種は実った。イタリアの各都市は、彼の彫像を建てるべきだ」と叫んだという。はたして今、イタリア各地の都市には「ダンテ通り」があり、また主要都市には彼の銅像がある。
 ともあれダンテは、私にとって忘れられない詩人である。青春時代に出あった一書は、生涯にわたって胸に深く刻まれゆくものだ。とくに『神曲』を繰りかえし読んだ私にとって、ダンテは今なお親しい詩人である。

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