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日蓮大聖人・池田大作

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人間の魂に触れる詩 ホイットマン『草の葉』

「若き日の読書」「続・若き日の読書」(池田大作全集第23巻)

前後
2  これを「″人の自主″をわたしは歌う」との『草の葉』冒頭の題詩の一節。彼は底知れぬ情熱と、活力溢れる生命を讃歌し、陽気で、奔放な行動力の新たな人間を、心からの共感をこめて歌った。
 また彼は、素朴で広大なる自然を歌った。瑞々しい草の葉、青草の大地に生きる庶民への人間愛、貧しくとも緑の新天地を求めゆく開拓者たちを歌った。彼の詩は、民衆の誰もが共鳴しうる「人間の詩」だ。まさしく人間の魂に触れる詩といってよい。
3  逆境の中から歌い出す
 アメリカの「国民詩人」といわれたウォルト・ホイットマン。彼はニューヨーク州ロングアイランドの小さな村、ウエストヒルズに生まれた。貧しい農家の九人兄弟の上から二番目、家族からは「ウォルター」と愛称された。
 大工仕事が好きだった父親は、ウォルターが四歳のとき農業をやめ、住みなれた土地を売り払ってブルックリンに移り住んだ。だが、子だくさんの一家の生活は苦しく、ホイットマンも十一歳で通学をやめ、小学校五年までしか行かせてもらえなかった。
 働きに出た少年ウォルターは、弁護士事務所の給仕を皮切りに、医師の家で使い走りをしたり、さまざまな職を転々とする。少年は、やがて印刷所の植字工見習いになり、何よりも「活字」の知識を身につけたことが生涯の財産となった。文学書を読みあさり、新聞に論文や随筆を投書するまでに成長した。いわば「活きた学問」を身につけて大きく育ったのである。
 少年ウォルターは、十四歳のとき家を出て自立し、その後、十七歳のときから小学校の教師を務めた。生徒の家に寄宿して学校に通い、二年間に七校も変わったという。成人すると、大統領選挙などでは支援の活動にも積極的に参加したが、建前と本音の違う政治の世界に失望し、やがてジャーナリストとしての道を歩むことになる。
 二十二歳のときニューヨークに戻ってからは新聞の植字工をしたり、また記者としても活躍した。彼は若いころに二十四篇の小説を書き、そのうち一篇は二万部も売れるなど、多様多彩なる文筆活動を展開した。一八四六年三月(二十六歳)には、ブルックリンで発行される新聞の主筆にまでなった。
 念願のジャーナリストである。彼は、社説に書評に劇評にと縦横無尽の筆をふるった。しかし、奴隷制度廃止の意見で社主と衝突、退社のやむなきにいたる。彼は急進的ではないが、熱心な奴隷解放論者であった
 若きホイットマンは、信念の筆を決してげなかった。かえって逆境を発条に、新しい世界に挑戦していったのである。アメリカ南部を旅行し、いくつかの新聞に記事を書くかたわら、父親の仕事を手伝ったりした。バスの運転手や渡船夫、街の労働者など多くの友人を得た。庶民とともに、懸命に生きぬくなかで、真の人間の魂の息吹を吸収していったのであろう。このことが、あとで『草の葉』の「国民詩人」として庶民の共感を得る土壌ともなっている。ホイットマンは三十二歳ごろ、みずからブルックリンに建てた家で印刷所と書店の経営を始める。そして、逆境にあっても雑草のように強い詩人として、彼は人間の魂に触れる詩を歌おうとしたのだ。
 また「何の拘束も受けず、本来の活力のままに」、己のヴィジョンを語る詩人たろうとしたのである。詩人として立つにあたり、こんな自戒の言葉を書きとめている。
 「わが詩は──簡単明瞭であること──超自然であってはならぬこと」
 「これから幾世紀の後までも流用さるべきもののみを取り入れることに注意せよ」
 「完壁な詩歌とは、単純で健康で、自然であること──天使やギリシア神話の怪物どもの出てこないこと、不潔でないもの、消化不良や自殺的意志のないもの‥‥」
4  「国民詩人が遂に出現した」
 さて一八五五年、ホイットマンは三十六歳のとき詩集『草の葉』を自費出版した。著者名の代わりに一枚の労働者風の肖像を掲載しただけのもの。目次もなく、たった十二篇の作品が、すべて無題のまま収められている。体裁も九十五頁の薄い四つ折り判。部数は七百九十五冊。
 その記念すべき著者サイン入りの一冊が現在、創価大学の重宝となっているが、決して豪華本とはいえない。
 ホイットマンは、それでも自信たっぷりだった。みずから匿名で推薦文を書き、いくつかの新聞や雑誌に発表した。そのうちの一つに、こんなのがある。
 「アメリカの国民詩人が遂に出現した。朴訥漢で体躯偉大、性倣岸、情深く、食い飲みかつ産む。その服装は男らしく自由である。彼の顔は陽に煩け、顎鬚が生えている。彼の姿勢は雄々しく真っ直ぐだ」
 この一文は、のちに彼の代表作としてよく引用される「わたし自身の歌」のなかの次の一節に、きわめてよく似ていよう。
  ウォルト・ホイットマン、一個の宇宙人、正真正銘のマンハッタン子、
  騒ぎ立てることが好きで、肥りじしで、肉感的で、よく食い、よく飲み、(中略)
  メソメソ屋ではなく、男たちや女たちのうえにはだかるものでもなければ、彼らから超然と離れているものでもない、
  不道徳者にくらべて堅造かたぞうというのでもない。
5  これがウォルト・ホイットマンの自画像であろうか。
 しかし詩集の評判は、必ずしも芳しくなかった。ある雑誌は「形式に拘泥せぬ奇妙な詩集]と書き、またある新聞は「ホイットマンは豚が数学を解さない程度に芸術に理解がない」と酷評した。
 ただ一つ救われたのは、そのとろ「アメリカ詩壇の大御所」といわれたエマーソンから『草の葉』出版二週間後に、激励の手紙が届いたことであろう。この「コンコードの哲人」とも呼ばれた高名な思想家は「アメリカが元来有した叡智のうちで最も卓抜な作品である」と激賞している。この詩集は「太陽光線」の如く、まさに「確固として人を鼓舞する」とも讃えていた。
 こうして大家からの手紙にも励まされたのであろう。ホイットマンは翌年、新たに二十篇の作品を加え、合わせて三十二篇の詩を収録、三百頁を超える第二版を自費出版した。表紙にはエマーソンからの手紙の一節「偉大なる経歴の冒頭における貴下に挨拶を送る」との句が、金文字で記された。
 ここに「大道の歌」と題する作品がある。詩人にとっては、この宇宙そのものが、旅する魂のための道であると歌う。私も昭和三十年(一九五五年)の「日記」に、その一節を書きとめたものである。
6  いつまでも生き生きとして、いつまでも前方へと、
 堂々と、荘重に、悲痛に、引っ込んで、もがいて、物狂おしく、手に負えず、弱々しく、不満足で、
 絶体絶命に、誇らかに、溺愛して、人々に受容され、人々に排斥され、
 彼らは行く! 彼らは行く! わたしは彼らが行くのを知っている、が、彼らがどこへ行くかは知らないのだ、
 だが、わたしは彼らが最もよきものの方へと行くことだけは知っている──偉大な何ものかの方へと。
7  詩人は「宇宙の堂々たる道路に沿っての男女の」魂の前進のために、終生歌い続けた。初版から五年後、一八六〇年に出た第三版では新たに百二十二篇を加え、四六判で四百五十六頁の分厚い本となった。版を新しくするたびに作品の数をふやし、死の前年に出した第九版(いわゆる臨終版)では、四百篇近い作品が収められるにいたった。
 その間、なんと三十六年である。ホイットマンは自身の生涯の輝かしい記念碑として、この詩集一冊に賭けた。彼こそは『草の葉』とともに成長し、大衆のなかに生きぬいた詩人といっていいだろう。
8  『草の葉』第三版が出た翌年──一八六一年四月に「南北戦争」が勃発した。この戦争でホイットマンの弟ジョージが前線で負傷したという報せが届くと、すぐさま彼は最前線にかけつけた。幸い弟の傷は軽かったが、兄は戦場に残り、しばらく負傷兵の治療や看病に奔走、戦争の悲惨を目のあたりに見た。
 戦争終結後、尊敬するリンカーン大統領が暗殺されるという衝撃的な事件も起こった。こうした南北戦争での体験やリンカーン追悼の詩も、第四版から収められている。また、このころからイギリスなどでもホイットマンの詩が注目されるにいたっている。
9  日本と東洋への憧れ
 ところで、ホイットマンの詩には未知の世界に憧れるものが多い。とくに東洋的なものに憧れていたことは、多くの論者が指摘するところだ。たとえば南北戦争の前年(一八六〇年)、日本から初の使節団がアメリカを訪れた。
  西の海を越えていま日本から渡来した、
  頬に日焼けのあとをとどめ、二本の刀をたずさえる礼儀正しい使節たち、
  無蓋の馬車にゆったりと身を託し、無帽のまま、動ずる気配もなく、
  きょうマンハッタンの街を進む。
  
  「自由」よ、使命を帯びる日本の貴公子に伍して、
  うしろからつき従い、上からのぞき、まわりに群がる行列のなかに、あるいは進みゆく
  隊列のなかに、
  わたしが認めているものを他人も見ているかどうかは知らず、
  ともかく歌おう君のために「自由」よわたしの目にうつるものの歌を。
10  これは「ブロードウェイの華麗な行列」と題する長詩で、日本から来た使節団の行列を詩人がニューヨークの群衆にまじって見物したときの感懐を歌ったものである。
 一八六〇年といえば、日本では江戸幕末の万延元年のこと。ワシントンでの日米通商条約批准のため、新見豊後守忠興を正使とし、村垣淡路守範正を副使とする初の訪米使節団が海を渡った。このとき、使節団の護衛艦「威臨丸」に勝海舟や福沢諭吉が乗りこんでいた話は、よく知られている。
 もっとも、ここで詩人が「日本の貴公子」と呼びかける行列のなかに海舟や諭吉は含まれていない。彼らは西海岸のサンフランシスコに滞在し、帰国の準備に忙しかった。しかし、それにしても日本にとっては初の国際舞台への登場という壮挙である。
 ブロードウェイの群衆にまじって見物したホイットマンにとっても、よほど珍しかったにちがいない。当時の彼は四十一歳だったはずだが、興奮した勢いで「使命の捧持者たち」と題し、「ニューヨーク・タイムズ」紙上に発表したものである。のちに改題され、詩集『草の葉』に第四版から収められた。
 今、あらためて読みなおしてみると、詩人は日本からの使節団を迎え、東西融合の夢が実現しつつあるのを率直に喜んでいる様子が、よく解る。また彼が東洋そのものに憧れをいだいていたことは、他の詩によっても窺えよう。
 たとえば『草の葉』第五版(一八七一年)に付録として収められた「インドへの航旅」と題する偶作詩がある。
  インドへの航旅よ!
  はるかなコーカサスからの冷涼な風は人類の揺監をなだめすかし、
  ユーフラテスの川は流れ、過去は再び輝かされた。
  
  見よ、霊魂、回顧は前の方へと持ち来たされた、
  地上の国々の古い、最も人口の調密で、最も富貴なもの、
  インダス川とガンジス川とそれらの多くの支流の流水、
11  スエズ運河の開通、北米横断鉄道の完成、大西洋海底電線の敷設を記念して歌われた詩の一節である。わが民衆詩人は輝かしい近代科学の成果を讃えながらも、たんに物質的な繁栄のみでなく、これからの人類が東洋の精神文明に着目し、大いなる航海へ船出すべきだと歌いあげている。
 しかしホイットマン自身は一八七三年一月、五十三歳のときに突然の発作に倒れ、インドへの航海に出ることはなかった。晩年は外出も困難になった。彼は、今から百年前の一八九二年三月二十六日の早朝、肺炎がもとで七十二歳の生涯を閉じている。
 大洋に船出せんとしていたホイットマンが波瀾の生涯を終えた年、東京帝国大学の学生だった夏目金之助(のちに「激石」と号す)は、早くも「文壇に於ける平等主義の代表者『ウォルト・ホイットマン』の詩について」と題する論文を、明治二十五年十月の『哲学雑詩』に発表した。
 この論文のなかで「作者は是れ宛然たる一個の好詩人なるべし蓋し其文学史上に占むべき地位に至っては百世の後自ら定論あり」と、若き激石は記す。まさに「具眼の士」といえよう。詩人の没後百年を記念し、今秋(一九九二年)には創価大学にホイットマンの銅像が建つことになっている。

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