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時代を変えた民衆の風 サバチニ『スカラムーシュ』

「若き日の読書」「続・若き日の読書」(池田大作全集第23巻)

前後
1  ラフアエル・サバチニ作の『スカラムーシュ』は、かのフランス大革命を背景にした、まさに血わき肉おどる熱血小説である。大衆小説としての面白味と、歴史小説の教訓も加味したこの名作は、一九二一年にイギリスで出版されるや、たちまち評判を呼び、アメリカでは長いあいだベストセラーを続けたといわれる。
 わが国では、昭和三年(一九二八年)に改造社の「世界大衆文学全集」第二十七巻として、小田律氏の翻訳で出版されている。私は戦後、それを神田の古本屋街で見つけて読んだ。
2  一人の才知あふれる青年が、激動のフランス大革命期を舞台にして縦横に活躍するロマンは、まことに痛快そのものであった。あたかも敗戦直後の日本にも、混沌たる激動期に通ずる雰囲気があったからであろうか。
 この小説を読んでフランス大革命に興味を抱いた私は、相前後して、ヴイクトル・ユゴーの『九十三年』も読んだ。また『スカラムーシュ』が映画化され、昭和二十八年の新春ロードショーとして有楽座で上映されたときにも、数人の同僚と一緒に観ている。
 しばらくして三笠書房から大久保康雄訳の『スカラムーシュ』が「百万人の世界文学」と銘打たれて出版されると、早速、華陽会の教材に取り上げられていった。
3  大革命以前のフランスは、特権階級に属する一部の僧侶と貴族が君臨し、第三階級と呼ばれた平民は虐げられ、苦しめられていた。徹底した差別主義の社会である。
 だが、やがてアンシャン・レジーム(旧体制)の圧政は、奇しくも第三階級の底力によって打ち破られていく。しかも、その発端は一地方の小さな不満の火が、くすぶり出したところから起こっている。わずか一、二カ月のうちに、革命の火は連鎖的に燃えひろがり、いつしかパリの都をおおい尽くすまでになっていった。
 サパチニが描く『スカラムーシュ』は、そのフランス大革命の発端から、もっとも昂揚しつつあった時期までを舞台背景としている。主人公のアンドレ・ルイ・モローは、些細なことから革命の火つけ役になってしまった。
 もともと彼は、父母の名も知らず、養父によって育てられた、穏健な考えの若者である。ところが、ある事件をきっかけにして、彼は急進的な行動と、変転きわまりない生活に入っていく。
 アンドレの運命を大きく変えたのは、親友の神父フィリップ・ド・ヴィルモランが決闘で殺されたときのことである。決闘のいきさつは──ヴィルモランが母親のことを、ラトゥール・ダール侯爵から「身持ちが悪い」と罵倒され、憤激のあまり侯爵の頬を平手で打ってしまったことに端を発する。打たせたのは、侯爵の罠である。
 若きヴィルモランは稀有な雄弁家であった。特権階級を攻撃する正義の言論は、喉元を射るような鋭さがある。彼を生かしておくことは、ダジール侯爵にとって危険このうえないことであった。
 罠にはまったヴィルモランは、侯爵を侮辱したかどで決闘を申し込まれる。だが、剣の達人と、筆以外は手にしたこともない聖職者との決闘である。勝敗は戦わずして明らかであった。双方剣を構えてからヴィルモランが倒れるまで、ほんの一瞬の出来事である。
 鮮血を流し、見るまに青ざめ、死んでいくヴィルモラン──立ち会い人のアンドレは親友の身体を抱えながら、不条理な決闘の顛末に怒りの炎を燃やす。そして彼は、亡き友の正義感と雄弁とを、みずから承継せんものと固く心に誓うのである。
 この事件があってからアンドレは、特権階級に対する反撃を開始する。穏健であった彼の性格は、火を噴くように苛烈な精神へと変貌していった。
 「ひとかどの人物は、必ずなにかのきっかけをつかんで、決然と立ち上がるものだ。とくに人間の死というものに直面したときの決意は、もっとも強く、大きいものがある」
 アンドレが親友の死を転機として立ち上がっていく場面について、戸田先生は、このように語っておられた。それは、恩師である牧口初代会長の獄死を牢の中で聞いたときの衝撃と、胸中に秘めた決意を、泌々と思い出されているような口調であった。
4  激浪の人生進む主人公の魅力
 アンドレ・ルイの人生行路は、波静かな大洋から一転して激浪へと突き進んでいく。まるで人が変わってしまったかのように──。
 若き弁護士である彼は、故ヴィルモランの雄弁をそのまま受け継ぎ、国王代理判事を訪ねて公平な裁きを要求する。事件の顛末を詳細に説明し、件の決闘は、合法を装った殺人である、と。
 ここでサバチニは、風車に向かって突進するドン・キホーテの話を挿入している。養父のケルカディウ公は、告訴におもむこうとするアンドレに対して「お前、ドン・キホーテを読んだことあるだろう。彼が風車に向かって突進した時何が起こった? お前の身に起こるのはあれと同じだ」と、その無謀な行為を揶揄していた。
 アンドレは、養父の保守主義を熟知している。その程度の揶揄で、男が一度きめた信念をくつがえすことはできない。彼は皮肉まじりに反撃して、養父のもとを去っていった。
 「もし風車が強すぎるようでしたら‥‥」「‥‥風のほうを何とかするようにつとめてみるつもりです」と。
 つまり、風車は特権階級であり、風は民衆である。風車は槍では倒せないが、風が吹けば、いやでも回りだすだろう。まさにフランス大革命は、民衆が巻きおこした一陣の風が風車を回しに回し、やがて全ヨーロッパにヒューマニズムの薫風を吹きこんでいったものである。
 サパチニの筆は、じつに軽快である。ドン・キホーテと風車の話が出てきたところで、戸田先生もハタと膝を打たれ、いかにもわが意を得たという表情であった。
 ところで、絶大な権限をもっ国王代理判事という風車は、田舎出の一弁護士の小さな槍には微動だにしなかった。無念の涙をのんで帰る道すがら、アンドレは急進派の若者の騒然たる群れに出会う。それは、一人の学生が当局の役人の銃弾に当たって死んだことへの抗議の集会であった。
 アンドレは、銅像の台にのぼって「レンヌの市民諸君! われわれの母国はいま危険に瀕している」と、あらん限りの声をふりしぼって叫ぶ。ついで邪悪な政治を弾劾し、親友が不法な決闘で殺されたこと、その告訴を代理判事が無視したことなどを、熱烈な調子で訴えた。
 この演説の効果は、電撃的であった。大喚声が湧き、群衆は熱気につつまれていった。風車を相手にして失敗したばかりのアンドレは、ここでは風を支配する人となったのである。
 民衆からの絶大な支持を受けたアンドレは、早速、レンヌの急進派の代表として、運動の中心地ナントに派遣される。そこでも彼は、大衆を前にして祖国フランスの危機を訴え、第三階級の奮起を促す熱弁をふるう。レンヌと同様に、ナントの町も騒然とし、ほどなくしてパリの革命的状況へとつながっていくのである。
 ここで戸田先生が、群集心理について指摘された言葉を、私は肝に銘じている。
 「大衆は、一人の煽動者によって、どうにでも動いていくものだ。したがって、中心に立つ者の言語、動作というものが大事になってくる。群衆を見下してはいけない。いつも民衆の味方になっていくようでなければならない」
5  革命の因となる病弊を嘆く
 さて、急進派の英雄に祭りあげられたアンドレは、他方、特権階級にとっては仇敵と目されるようになった。彼を「煽動罪」に問う手配書が各地に貼られ、偽名をつかっての逃亡生活を余儀なくされる。
 もっとも、すでに平穏な生活に見切りをつけた彼にとって、波瀾の人生は覚悟のうえであった。彼は逃亡の途次、旅芸人の一座にまじって身を隠す。
 旅廻りのビネ座は、イタリア喜劇の伝統をフランスに復興しようとする。その劇団の脚本を、座員と巡業しながら書くことになったアンドレは、たちまちにして才能を発揮し、抱腹絶倒の喜劇を次々と編みだしていく。
 一座の当たり狂言は、いうまでもなく「スカラムーシュ」である。スカラムーシュとは道化役者の意で、彼自身が道化役を演じ、各地で爆発的な人気を呼んで、いつしか一座の中心人物になる。
 ともあれ、こうした物語の進展に並行して、現実の大革命の様相も、ますます濃くなっている。もはや、アンドレが起こした民衆の風が、巨大な風車を押し倒しかねない気配を見せていた。各地で好評を博したビ、ビネ座は、その圧倒的な人気を背景にして、ナントの劇場に乗りこんでいく。
 アンドレは、そとでダジール侯爵が観劇しているのを見つけると、舞台上から名指しで特権階級の悪事を暴く。劇場は蜂の巣をつついたような騒ぎとなり、アンドレは辛くも脱出して、ふたたび身を隠さなければならなくなった。
 その後の主人公は、大革命前夜のパリに登場し、剣の修行に打ち込んでいる。孜々として一剣を磨いた彼は、並はずれた能力と努力とによって、短期間のうちにフェンシングの教師となり、名剣士と謳われるまでになった。
 バスチーユ襲撃の後、アンドレの剣の師は革命の犠牲者となった。作者サバチニは、本書の扉にフランスの歴史家ミシュレのエピグラムを記している。
  良識のある者は、革命による災害を嘆くのみでなく、革命を起こす原因となった病弊そのものをもまた嘆くものなり。
6  おそらく作者の意図も、ここに尽くされていよう。小説にはロベスピエール、ダントン、マラーといった実在の人物も登場するが、彼らは野心家として描かれている。むしろ架空の人物ではあるが、この小説に登場する主人公のアンドレたちのほうが生きいきとしているのは、大革命の主役が無名の庶民の起こした風であったことを、作者は訴えたかったからであろう。

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