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日蓮大聖人・池田大作

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大いなる運命への挑戦 デフォー『ロビンソン・クルーソー』

「若き日の読書」「続・若き日の読書」(池田大作全集第23巻)

前後
4  ロビンソンは、両親の許を去るときには、神の存在を信じない不信の人であった。しかし孤独の運命に身をゆだねているうちに、頑な彼の心にも信仰心が芽生えてくる。そして、無人島の洞穴のなかで熱病に襲われたときに、手元の聖書をひもとく。
 以後は、彼の信仰告白が、何回となく繰りかえされる。見方をかえて読むと、作者はプロテスタントの倫理観を説くために、この本を著したとも思われるほどだ。そのため、子ども向けの省略本や非キリスト教国などでは、翻訳にあたって、その部分が意図的に削除される例もある。
 しかし、水滸会では、むしろロビンソンの信仰観、運命観を真正面から討議した。
 ──運命は神がつくったもので、どうにもならない神の摂理であると作者は見ている。そこにキリスト教思想の反映がある。
 次々に発表する会員の意見が、どうやらこの辺に落ち着きそうなころ、戸田先生は厳然と言われた。
 「宿命をどう扱うかによって、宗教の正邪がわかる。──運命はない、すべて努力によって解決するのだ、という努力説もある。しかし、人間誰しもいかに努力しても、解決できない運命をもっているものだ。運命の根本を知らないで、今世だけの性格がつくりだすものと思っているのは誤りである。
 人間は子どものときから、運命をどう解決していくかを考えているものだ。しかし、どうしでも解決できないので、宗教に求める。だが、まちがった宗教は逆に宿命を悪い方向にもっていくように手伝っている。この小説でも、キリスト教の諦めの運命観によって、島の生活を諦めている。ここに幸福観をもたせようとしている」
 ロビンソンは運命に抗し、運命を呪い、そして不可視な運命に伏した。それは、作者デフォーの運命観でもあったろう。
 戸田先生は、運命や信仰について語るときには、ひときわ語気を強められた。それは、いうまでもなく、宗教こそ、人間の幸不幸を左右する根本法理であるとの強い信念からである。

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