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大いなる運命への挑戦 デフォー『ロビンソン・クルーソー』

「若き日の読書」「続・若き日の読書」(池田大作全集第23巻)

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2  宗教は人間の根本原理
 私も少年のころ、たしか『十五少年漂流記』とともに収められた『ロビンソン・クルーソー』を、改造文庫版で読んだ。遠い日の記憶をたどっていくと、そのころ、外国の冒険譚を夢中になって読みふけった一時期がある。世界地図をひろげでは、ロビンソンが漂流したとされる航跡を想定してみたりした。
 戦後になって戸田先生に邂逅すると、先生自身の獄中体験との比較のうえで、よくロビンソン・クルーソーの孤島生活が話題になった。
 たとえば、無人島でのロビンソンの生活の第一課は、まず時間の経過を知ることから始まる。彼は木の側面にナイフで刻み目をつけ、日付と曜日を記録している。そのことにふれて戸田先生は「私も獄中で、時間を知りたくて、棒を立てて日時計を作ってみた。そうとう確実に知ることができるようになったよ」と、つい昨日のととのように語っておられた。
 作者のデフォー自身は、実際には孤島生活を経験したわけではない。彼は作家生活に入るまえに、現実の政治に関係して、二度の入牢体験を持っている。、おそらく、そのときの孤独な体験から、時間の経過に対する関心の切実さを知ったのであろう。
 アレクサンドル・デュマも『モンテ・クリスト伯』において、その主人公が十四年におよぶ獄窓生活のなかで、時間の感覚を失い、日付も年号もわからなくなって焦燥感に陥る様を描いている。
 ダンテスにしても、クルーソーにしても、戸田先生が主人公を語る口調は、まるで掌中の珠をさすように、自在に論評されていく。時間とは何か、といった問題についても、過ぎゆく時の測定の仕方から、哲学的な時間の概念へと論及される。
 「時間というものは永遠だ。なにか相対するものがあるからこそ、時間というものがあるので、相対する何物もなければ、一念であり、それが永遠であるのだ」
3  また戸田先生の読書法は、水滸会の教材となった本について「作者は、この本で何を言わんとしているのか」を、最初に掘り下げていく。会員の境涯に応じた意見が、ほぼ出そろったところで、おもむろに考えを述べられる。
 「ロビンソン漂流記は、その時代の頽廃的な怠惰と栄華に反駁した書である。
 また、クルーソーの孤独の苦しみは、まだ切実にでていない。私の獄中の苦しみと比べて、まだまだ甘く、筆の先で弄んでいるように思える。
 だいたいクルーソーの境遇は、無から出発したのではなく、必要な道具は全部、船のなかから供給されているから、まだ切実とはいえない」
 ちなみに、難破した船から彼が持ち出した持物は銃と火薬、大工道具、ナイフやフォークなどの生活用具のほかに、コンパス、日時計、望遠鏡、海図、そして聖書、さらにはぺンとインクと紙もあって、はじめは日記を付けることさえできた。
 作者は、あらかじめロビンソンに必要な用具を持たせている。しかし、獄中における戸田先生は、茶殻を噛みくだいてインクをつくり、思索の結晶を一字でも文字にとどめようと工夫されたという。
 だが、囚われの身と孤島生活との決定的な違いは、何よりも獄窓には自由がないことである。無人島とはいえ、ロビンソンには島中を歩きまわる自由があった。彼は住居を構え、一つの別荘と広大な牧場をつくり、小さな舟を持っている。最後の三年間の島生活では、フライデーという忠僕も得、上陸してきたスペイン人や母国人に島の「総督」として振る舞う力さえ蓄えていた。
 そうしたロビンソンの孤島生活について、戸田先生は「これはフィクションだよ。塩を作ることが書いてないじゃないか」と言われたのを、私は鮮明に記憶している。絶望と極限の世界を描こうとしたデフォーと、獄中の孤独を体験した戸田先生との、厳しさの違いによるのかもしれない。
4  ロビンソンは、両親の許を去るときには、神の存在を信じない不信の人であった。しかし孤独の運命に身をゆだねているうちに、頑な彼の心にも信仰心が芽生えてくる。そして、無人島の洞穴のなかで熱病に襲われたときに、手元の聖書をひもとく。
 以後は、彼の信仰告白が、何回となく繰りかえされる。見方をかえて読むと、作者はプロテスタントの倫理観を説くために、この本を著したとも思われるほどだ。そのため、子ども向けの省略本や非キリスト教国などでは、翻訳にあたって、その部分が意図的に削除される例もある。
 しかし、水滸会では、むしろロビンソンの信仰観、運命観を真正面から討議した。
 ──運命は神がつくったもので、どうにもならない神の摂理であると作者は見ている。そこにキリスト教思想の反映がある。
 次々に発表する会員の意見が、どうやらこの辺に落ち着きそうなころ、戸田先生は厳然と言われた。
 「宿命をどう扱うかによって、宗教の正邪がわかる。──運命はない、すべて努力によって解決するのだ、という努力説もある。しかし、人間誰しもいかに努力しても、解決できない運命をもっているものだ。運命の根本を知らないで、今世だけの性格がつくりだすものと思っているのは誤りである。
 人間は子どものときから、運命をどう解決していくかを考えているものだ。しかし、どうしでも解決できないので、宗教に求める。だが、まちがった宗教は逆に宿命を悪い方向にもっていくように手伝っている。この小説でも、キリスト教の諦めの運命観によって、島の生活を諦めている。ここに幸福観をもたせようとしている」
 ロビンソンは運命に抗し、運命を呪い、そして不可視な運命に伏した。それは、作者デフォーの運命観でもあったろう。
 戸田先生は、運命や信仰について語るときには、ひときわ語気を強められた。それは、いうまでもなく、宗教こそ、人間の幸不幸を左右する根本法理であるとの強い信念からである。

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