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日蓮大聖人・池田大作

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貧しい人びとへの共鳴 ユゴー『レ・ミゼラブル』

「若き日の読書」「続・若き日の読書」(池田大作全集第23巻)

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2  『レ・ミゼラブル』は、十九世紀はじめのフランスを舞台にした大河小説である。
 ルイ十六世が処刑され、王制が崩壊して、ナポレオンが登場する。全ヨーロッパ席捲を夢見るこの英雄は、ロシア遠征に失敗し、再起むなしくワーテルローの戦いで、ウェリントンの率いるイギリス軍に敗れている。──こうした十八世紀末に端を発する、激動期の歴史が克明に描写され、作品の要所に挿入されている。
 時代は王制から帝政へ、さらに共和制へと、その鼓動を高めつつ推移していく。だが、ここで考えねばならぬことは、時代がどのように展開しようと、政体が、いかに理想に近づこうと、いつの世にも、社会の片隅に押しやられ、懸命に生き続ける「みじめな人びと」がいるという事実である。
 『レ・ミゼラブル』とは「みじめな人びと」という意味であるが、ユゴーのぺンのきっさきは、こうした貧しい人びとの心情に共鳴しつつ、悲惨を凝然と見つめ「人為的に文明社会のなかに地獄をつくだしている、さまざまな社会悪を糾弾してやまない。
3  物語の粗筋は、すでに多くの人に知られている。
 たったひときれのパンを盗んで牢に入れられ、脱走と反抗の罪が加わり、十九年の牢獄生活を強いられた主人公ジャン・ヴァルジャン。刑期を終え、出獄した彼に、人間精神の気高さを身をもって教えたミリエル司教。
 猟犬のようにジャン・ヴァルジャンを追いかけまわす警官ジャヴェール。不幸な境遇にあって、母性のすさまじさをみせるファンチーヌ。彼女の死後、ジャン・ヴァルジャンにひきとられ、美しく成長する娘のコゼットと、その恋人マリユス青年。
 無頼の徒のような性格を憎々しいまでに演ずる宿の主人テナルディエ。修道院の庭番で、ジャン・ヴァルジャンをかくまうフォーシュルヴァン老人。
 ユゴー得意の二元的筆致が冴え、登場人物は皆、それぞれ鮮烈な個性を輝かせる。人間内面の善性と魔性が白日の下に顕にされる。
 ミリエル司教に救われ、回心したジャン・ヴァルジャンは、マドレーヌと変名し、モントルイユ・シュル・メールという小さな都市で事業に成功する。みずからは質素を保ち、貧しい人びとには最大の愛の援助を惜しまない。この徳行で彼は市長に推され、愛と善行に終始する日常は輝くばかりであった。
4  そんなある日、市長は「ジャン・ヴァルジャン」が隣の町で捕まったという報告を、ジャヴェールから受ける。彼は、自分とまちがって捕われたシャンマチウという人の冤罪を晴らすため、真夜中、馬車を駆って裁判所へ行く。シャンマチウの冤罪は晴れた。かわって、ジャン・ヴァルジャン自身がふたたび牢に入る。
 ──彼の罪というのはこうだ。
 かつて、ミリエル司教の館を辞去した後、貧しい少年プチ・ジェルヴェの四十スーの銀貨が足元にころがってきたのを踏みつけて奪ってしまう。まったく無意識、魔のささやきとしかいいようのない一瞬であった。
 まもなく正気を取り戻したジャン・ヴァルジャンは、犯した罪の重大さに気も狂わんばかりになって少年の姿を追うが、発見することができない。彼は、この罪によって終生、逃亡の人生を送らねばならなくなる。
 再犯の罪の重さは誰よりも知っているしかし、自分の罪を他の人が償うという欺瞞に生きることは、彼自身、堪えられなかったのである。
 ジャン・ヴァルジャンに、人道の極致を教えたのは、ミリエル司教であった。この高徳の司教は、司教館の生活費は最小限にきりつめて、貧しい人びとへの援助に回している。
 ジャン・ヴァルジャンが司教の銀の食器を盗んで捕まったとき、それは差しあげたものだと庇い、銀の燭台も持って行くようにと渡す。みずからは粗衣粗食に甘んじ、貧しい者が貧しさ故に犯す罪には寛容の精神を忘れない。このミリエル司教の限りない慈愛にふれ、ジャン・ヴァルジャンは愛と同情に満ちた人生行路を見いだすのである。
5  空より大きな眺めは人間の魂
 彼らの対極にテナレディエがいる。
 貧しいファンチーヌは、幼い娘コゼットを、テナルディにあずけて働きにでなければならなかった。テナルディエに送る養育費を捻出するため、彼女は娼婦にまで身をやつす。ととろが、テナルディエはフアンチーヌからの送金を、すべて懐に入れてしまう。自分の娘には人形も買い与えるが、コゼットは食べ物さえ差別される。小さな女の子は誰でも人形を欲しがるものだ。人形のないコゼットはサーベルを布にくるんで、人形にして遊んでいる。
 このずるがしこい人間は、世の中が混乱するにつれて、ますます魔性に魅入られ、無頼の徒におちぶれていく。
 ジャン・ヴァルジャンとテナルディエ──この二つの魂は、まったく異質な光を放っている。一方は真昼の太陽のようであり、他方は奈落の闇の色である。
 とうしたユゴーの非凡な想像力が生みだした登場人物について、ボードレールは「あの小説に出てくる連中は人間ではない」と評する。たんなる批判と見るべきではあるまい。この評の根底に、かえって私はユゴーの人間洞察の深さを見る。
 『レ・ミゼラブル』の登場人物は、彼の内面の心象風景の投影であろう。ジャン・ヴァルジャンはユゴーの良心の結晶であり、テナルディエは魔性の顕現ではなかったか。それはユゴー自身が「この本は無限なものを主役とする一つのドラマである。人間はわき役なのだ」と書いていることからも推量されるのである。
 無限という聖なる魂が、ジャン・ヴァルジャンという有限の人格に宿り、彼の無私の行動のなかに、無限が有限へ見え隠れしながら立ちあらわれているように思われるのである。
6  大洋よりも壮大なながめ、それは空である。空より大きなながめ、それは人間の魂の内部である。
7  これは作中の一節だが、『レ・ミゼラプル』は人間の魂の内部にわけ入った作品であることを暗示している。そうした意味においては、作者みずからが吐露するように、まさに「宗教的な作品」であるといえよう。
8  私の恩師は朝礼の訓話で、しばしばジャン・ヴァルジャンの人物像を語りながら、仏法者のあるべき人生というものを教えられていた。
 私も、仏法を実践する一人として、同志の人生を見るような思いで『レ・ミゼラブル』を読んだ。同時に、人間の内面を真摯に見つめ、そのなかに善の光明を探究し続けたユゴーという作家に、私は何か親しみさえ覚えるのである。
 悲惨を鳥瞰するのではない。『レ・ミゼラプル』は、貧しい人びとへの共感によって描かれたものである。人物を描いても、歴史を探っても、町の様子を書いても、ユゴーの視座は一寸も動かない。彼は、つねに底辺から如実に観察し続ける。
 たとえば、ワーテルローの真の勝利者はウェリントンではなく、無名の兵士カンプローであるというように。また、パリという都市を描写するのに、彼は貴族の豪邸には眼もくれず、下水道を見て歩くといったように──。
 『レ・ミゼラプル』には歴史の記述が多い。これは一見、ストーリーとは無関係な気まぐれの配剤のようであるが、決してそうではない。歴史という大状況と、レ・ミゼラプル(みじめな人びと)という小状況とが、じつに鮮やかに連関を保っている。歴史を描写することによって、ミゼラブルな状況が、より鮮明になるという計算しぬかれた作者の企図が成功している。
 ユゴーは『レ・ミゼラブル』に十数年の歳月を費やした。ジャン・ヴァルジャンにはピエール・モーランという実在のモデルがおり、その事件は一八〇一年に起こっているから、それから起算すると六十年間の労作ともいえる。
 ジャン・ヴァルジャンの数奇な人生は、ユゴーの一面に似ている。ユゴーは一八四五年に貴族院議員になったが、のちに共和主義者となり、一八五一年十二月に起こったルイ・ナポレオン(三世)のクーデターに反対する。抵抗者への虐殺が始まり、身の危険を感じた彼は英仏海峡のガーンジー島に亡命する。以後、ガーンジー島に蟄居しつつ『レ・ミゼラブル』の完成を急ぐのであった。
 モントルイユ・シュル・メールの市長となったジャン・ヴァルジャンの姿は、ユゴーの心のなかで、みずからの人生と一体化していたのではないだろうか。ジャン・ヴァルジャンは墓に名を刻むことを拒否して死んでいったが、ユゴーも遺体は貧者の枢車に乗せて、貧しい人びとに囲まれながら死んでいくことを、生前から望んでいた。
 ヒューマニズムを体現化したジャン・ヴァルジャンこそ、ユゴーの理想像であったろう。みずからが生みだした作品の主人公に、死の寸前まで一体化することを欲していたように、私には思われるのである。

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