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思想・人物・時代を読む 尾崎士郎『風霜』

「若き日の読書」「続・若き日の読書」(池田大作全集第23巻)

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3  思師の鋭い人物寸評
 戸田先生の読書法では、第二に登場人物の性格等をよく見きわめることが、肝要であるとされた。その点、『風霜』の主人公である高杉晋作、久坂玄瑞の二人は好対照をなす。その性格の違いも、よく描かれていると思う。
 いうまでもなく、二人は松下村塾の双壁であり、逸材である。高杉の動に対して、久坂は静。晋作が豪放磊落であるのに対して、玄瑞は実直で真面目な性格であった
 吉田松陰が家で寝ているとき、彼の代講をしていたのは玄瑞である。もし間違ったりしたときには、松陰が隣室から指摘したこともあるという。
 それに対して高杉晋作は、時には同志から不審に思われるような行動に出ることもあった。平然と「三千世界の烏をころし主と朝寝がしてみたい‥‥」などと、宴席で話うこともある。だが、それでいて稀にみる読書人でもあった。幕末の志士のなかでは、最も多く本を読み、同時に剣の達人でもあった彼は、よく徳川方の勝海舟と比較されたこともあるという。
 わが水滸会では、こうした戸田先生の人物寸評を聞きながら、各自が思い、おもいの意見を述べた。なかで、ある会員が「高杉晋作が、もう半年生きていたならば、時代は変わっていたでしょうね」と質問したのに対し、先生が答えられた内容は、今でも印象深いものである。
 「たしかに、少しは変わったかもしれない。しかし、彼は、平時の人ではない。立派な人物だが、革命期の人物ではあっても、平時には向かないだろう。
 むしろ伊藤博文などは、松陰門下では若輩で、『俊輔、イモ買ってこい』と言われていたが、平和になれば力を発揮して、明治第一の政治家にまでなった。たいへん面白いことだ。
 したがって、君たちのなかにも、いろいろな性質の人がいるが、どんなに立派な人物でも、時代と場所を得て力が出るのです。どうか諸君も、自分の特質を生かして将来に備えてもらいたい」
 このように、作品の時代的背景をとらえながら読むということは、戸田先生が一貫して強調された点である。
 「どんな人間も、時代の動きから免れることはできない。時代の外にはいけないものだ。乱世の英雄も、もし泰平の時代に生まれたとしたら、酔生夢死に終わるかもしれない。また、平和な時代の碩学も、乱世に生まれたとしたら、流浪の徒として終わるかもしれないだろう」
 そう言って戸田先生は、時代の底に渦巻く激流の動向を、的確に見とおす洞察力がなければならないとする。
 たとえば『風霜』に描かれる周布政之助は、西国長州藩における政治家だ。彼は、一貫して松陰とその門下生の理解者だが、中央政界の動向にも通じた時代感覚をもっていた。
 血気にはやる青年志士が、時に暴発しかねない行動を、彼は監督している。下手に制止すれば、周布自身が血祭りにあげられかねないときでも、彼は単身、浪士のなかに身をひるがえして入っていく。
 「周布政之助は、他人からとやかく言われながらも、ともかく青年を愛し、高杉たちを応援した。活動資金を周布先生が工面して出したので、彼らが思う存分に働けたのだ。周布は偉い人物だ」
 これが戸田先生の見方である。
 もちろん人によっては、周布が青年を利用して政治をとったのだ、と見るのも可能であろう。だが彼は、藩から高杉や桂小五郎に通じているものと見なされて、時には自身の地位がおびやかされることも度重なった。
4  文久三年(一八六三年)六月──防長二州の危急存亡のときにあたり、周布は藩論を押し切って世子を説得する。弱冠二十三歳の高杉晋作を、馬関総奉行手元役・政務座役・奇兵隊総監といった重職に就かせるためである。
 「士気をふるいたたしむるの道は、時務を行うに足る機略縦横の人材を登用することにある。選ぶに人を得れば士気は期せずして昂揚いたすであろう」
 尾崎士郎えがくところの『風霜』の一節だ。実際は、晋作が呼び出されるまでに、なお紆余曲折があったものと思われるしかし、ともあれ時機到来である。待ちにまった晋作の出番がきた。彼は、その名も「奇兵隊」という、いかにも奇抜な発想の軍を率いて立つ。
  
  奇兵隊の義は、有志の者相集り候につき、陪臣・雑卒・藩士を撰ばず、同様に相交り、専ら力量をば貴び、堅固の隊に相調へ申すべしと存じ奉り使。
  
 奇兵隊に応募する者は、陸続として跡を絶たなかったという。陪臣とか藩士の資格を問わない。われこそ「力量」あらんと思う有志は、だれでも参加できる軍隊であった。
 彼らは正規軍ではない、遊軍だ。そこには三百年ちかい武家中心の階層社会を、根底から覆すほどの新しい萌芽が、一斉に簇生した感があった。
 晋作の呼びかけに応じたのは、名のある藩士ではない。無名の農民や町人も、われ先に武器をとって入隊してきた。松陰の言葉を借りれば「草莽の崛起」ということになるが、現代風にいえば「民兵」とか「人民軍」とでも呼ぶ以外にないだろう。
 その奇兵隊を指揮した人物は、女物の被衣をかぶって三味線をひく男であった。その男こそ、じつは「総監」の位にある高杉晋作であったのである。
 「面白いじゃないか。こんなふうに悠々と指揮した晋作は、よほどの大人物であった。われわれの人生も、すべて晋作のように、悠々と生きたいものだ。
 もし歴史上の人物に会えるものなら、ぜひ高杉晋作には会ってみたいな」
 車座になった青年たちを見渡しながら、そう言って戸田先生は呵々大笑されたものである。

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