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教育に賭ける情熱 ぺスタロッチ『隠者の夕暮・シュタンツだより』

「若き日の読書」「続・若き日の読書」(池田大作全集第23巻)

前後
1  つねに貧民とともに生き、孤児とともに泣き、そして生涯、弱者の味方となって人類に奉仕した教育者──ぺスタロッチの碑は、アルプスの山々に抱かれた平和な国スイスのイベルドンに立つ。その塑像の台下に刻まれた銘文には、このように記されている。
  ハインリヒ・ぺスタロッチーここに眠る。
  一七四六年一月十二日チューリヒに生まれ、
  一八二七年二月十七日ブルックに歿す。
  ノイホーフにおいては貧しき者の救助者。
  『リーンハルトとゲルトルート』の中では人民に説き教えし人。
  シュタンツにおいては孤児の父。
  ブルクドルフとミュンヒェンブーフゼーとにおいては国民学校の創設者
  イヴェルドンにおいては人類の教育者。
  人間! キリスト者! 市民!
  すべてを他人のためにし、
  己れには何ものも。
  恵みあれ彼が名に!
2  今は懐かしい少年雑誌──『少年日本』の昭和二十四年十月号をあけてみると、そこに「大教育家。ペスタロッチ」と題した一文がある。最初に右の碑銘を掲げ、未来からの使者である少年読者に対して、この偉人の苦闘の生涯を簡潔に、わずか十枚にも満たない枚数で紹介した筆者は、山本伸一郎とある。
 この筆者名ペンネームが、二十一歳のときの私のものであることを説明するまえに、若干の経緯を記しておかなければなるまい。
 当時、私は戸田先生の経営する日本正学館という小さな出版社に勤めていた。入社して半年も経たないうちに、まだ『冒険少年』と称していた雑誌の編集を、まかされることになってしまった。
 前にも書いたように、雑誌の編集者となるのは、私の少年時代からの夢であった。その夢を図らずも実現してくれた戸田先生のもとで、私は思う存分に働き、日本一の少年雑誌をつくろうと決意したのである。
 しかし戦後の出版界は、このころから大手資本による雑誌が続々と復刊し、新興の雑誌群はたちまち押され気味となった。敗戦直後の一時期を画した新生の雑誌も、次々と廃刊を余儀なくされ、消えている。
 戸田先生の出版社も、そうした時代の波をもろにかぶって、悪戦苦闘の真っ最中であった。私が担当した『冒険少年』も、誌名さえほとんど知られていなかった。「冒険‥‥」という名前がどうしても限定的になってしまうことも考慮し、親しみやすく、明るい名前をという観点から検討された結果、十月号からは『少年日本』と改題されたのである。
 表紙には「面白く為になる」「大躍進号」などと刷り込まれ、起死回生の意気込みが窺われる。だが、予定していた作家の原稿が締め切りに間に合わないときには、編集者の私自身が筆をとることも多くなっていた。
 たまたまぺスタロッチの伝記を書くときに使ったのが、山本伸一郎の筆名である。それを見て戸田先生が、微笑しながら認めてくださった言葉を、つい昨日のことのように思い出す。
 「山に一本の大樹が、一直線に、天に向かって伸びてゆく──。なかなか、いいじゃないか」
3  実践裏づけに理念へと昇華
 ぺスタロッチの『隠者の夕暮・シュタンツだより』を最初に岩波文庫版で読んだのは、たしか自宅近くの読書サークルに参加していたときのことである。新生日本の民主教育のあり方について、友人と夜を徹して議論した記憶もある。
 そのときの「読書ノート」や、友人たちとの議論をもとにして、私はぺスタロッチの生涯をスケッチしたのである。なにしろ校了間際の短時間のうちに、一気に書き上げてしまったものだ。今では到底、公にはできない出来ばえであるが、これが活字となった初期の短文として、私には思い出深いものとなっている。
4  さて『隠者の夕暮』は、作家としてのぺスタロッチの処女作である。彼はノイホーフにおける貧民教育の実践を裏づけにして、崇高な教育理念へと昇華させていった。
  
 人間よ、汝自身、汝の本質と汝の諸力との内的感情とそ陶冶する自然の第一の主題である。
 併し汝は地上において自分一人のために生きてゐるのではない。だから自然は汝を外部との関係のために、また外部との関係に依って陶治する。
 人間よ! 此等の関係は汝に近ければ近いだけ汝の使命を達するやう汝の本質を陶治するのに大切である。
5  ペスタロッチによれば「人間の本質をなすもの、彼になくてはならないもの、彼を高めるもの」を明らかにしていくことが、教育の第一の主題である。貧富の差を問わず、貴賎上下の別なく、すべての人びとに平等な「人間性の内部に秘められている純粋の智慧」を見いだし、向上させ、それをもって普遍的教育の理念として確立することが、彼の人間教育の理想であった。そのために彼は、みずから貧民となって、弱者の苦しみを自分の苦しみとしていったのである。
 続いて三十五歳のときに著した『リーンハルトとゲルトルート』は、碑銘にもあったように、彼がいだく教育理念を平易に物語化して説いたものである。これを書くとき、彼は無一文であった。道端に捨てられた紙きれを拾っては、その裏に人間教育の情熱の文字を、石に刻む思いで書きつけていったこともあるという。
 はたして、この書の読者の感動の波は、たちまちにして全ヨーロッパに波及し、洛陽の紙価を一時に高めることになった。王侯貴族、富豪の賛辞も相次ぎ、わざわざ使者が向けられてきた。
 ドイツの哲学者フィヒテは、この書を一読して感激さめやらず、夜も眠られなかったという。彼の獅子吼『ドイツ国民に告ぐ』のなかには「余はペスタロッチー自身の書を読みかつ熟慮して、そこから教育上の全概念を構成した」と語られている。
 また、ゲーテと並び称される文学者へルダーも、「余はぺスタロッチーにおいてドイツ的な哲学的天才の誕生をみる」と称賛した。彼は、『リーンハルトとゲルトルート』を評して「その内面力において、おそらく第一の書」とまで述べている。
6  私は彼等と共に泣き、彼等と共に笑った。彼等は世界も忘れ、シュタンツも忘れて、私と共にをり、私は彼等と共にをつた。彼等の食べ物は私の食べ物であり、彼等の飲み物は私の飲み物であった。私は何ものも有たなかった。私は私の周囲に家庭も有たず、友もなく、召使もなく、ただ彼等だけを有つてゐた。彼等が達者な時も私は彼等の中にゐたが、彼等が病気の時も私は彼等の傍にゐた。私は彼等の真中にはいつて寝た。夜は私が一番後で床に就き、朝は一番早く起きた。
7  ことに「彼等」というのは、シュタンツの孤児院に学ぶ児童たちのことである。ときに五十三歳のペスタロッチは、一切の名声を抛って貧しい孤児の父親となった。
 だが、その孤児院は、開院後わずか半年にして世間の非難の集中砲火を浴び、閉鎖のやむなきにいたっている。その半歳の経験のなかに昇華した教育方針を、彼は一友人に宛てた手紙として執筆した。それが『シュタンツだより』となったのである。
 その後、ペスタロッチは八十一歳の生涯を閉じる日まで、各地を転々としながら、著作と学園経営に没頭している。彼は教育の理想のみを追究したのではない。みずから泥にまみれ、ときには農夫となって田園を耕し、生活の糧を得た。
 著作によって得た印税は、すべて学園の経営に注ぎこんだ。理想と現実の葛藤の茨を切りひらいて進んだが、幾度となく失敗を繰りかえしている。そのつど非難中傷の矢は雨のように浴びせられたが、己の信ずる道を決して曲げることはなかった。
 しかし存命中は、祖国スイスでは冷遇されたようだ。むしろ、この国を訪れる幾千の人士がペスタロッチの学園に殺到するのを見て、人びとは不思議に思いさえした。
 彼の教育理念は、まず隣国のプロシア、すなわち今日のドイツにおいて重く用いられる。近世以来、ドイツは教育立国をもって国是としてきたからである。
 やがてオランダ、デンマーク、スウェーデン、フランス、そしてイギリスの多くの都市からも、はるばるぺスタロッチの学園に学ぶ教育志望者がやってくる。彼らは何カ月も学園に滞在し、新教育を研究して帰っていった。
 こうして祖国スイスの厳しい風雪に耐えた一粒の種子は、まずプロシアの大地に移植され、そこから全ヨーロッパの各地に広がっていった。ぺスタロッチの学園に学んだ弟子の一人は、その種子をアメリカの新大陸の地にも運び、近代教育の発芽としていったのである。
8  教育こそ一国の死命を制するほどの大事業である。戦前の日本は、皇国史観による軍国主義教育によって、大きく道を踏みはずしてしまった。それによる犠牲──失われた多くの若い生命は、決して取り返すことはできまい。
 第二次大戦によって、ドイツもまた日本と同様に、敗戦国の憂き目をみた。だが、教育制度に関しては、占領軍によって押しつけられた政策を、きっぱりと拒絶したといわれている。
 「ドイツは、自分の国の教育は、自分たちでやるといって突っぱねた。えらい、このくらいの襟度があってしかるべきだ」
 かつて教育者でもあった戸田先生は、当時の青年たちと懇談の折、よくこのような話をされたものである。
 未来社会を担うものは、いうまでもなく青年であり、その後に陸続と続くであろう少年少女であることはまちがいない。生涯、苦難のなかを、誰よりも青年を愛し、人間教育の得がたい財宝を残してくださった戸田先生のなかに、ぺスタロッチのイメージがつねにダブって私の脳裡にうかぶのである。

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