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現代を超越する精神 高山林次郎『樗牛全集』

「若き日の読書」「続・若き日の読書」(池田大作全集第23巻)

前後
1  恩師戸田城聖先生との出会いが、私の人生にとって運命的な重みをもったように、書物を通じてではあるが、明治の青年樗牛とめぐりあったことも、私の精神形成に少なからぬ意味をもっている。
 明治三十三年(一九〇〇年)生まれの戸田先生は、最も多感な青年時代に、大正デモクラシーの高まる息吹を呼吸して過ごされたわけだ。ちょうど大正四年(一九一五年)、戸田先生が十五歳のときに博文館から出た普及版の増補縮刷『樗牛全集』は、そのころのベストセラーであった。
 おそらく戸田先生も、青春時代に樗牛を耽読され、若き日の青雲の志を抱かれたにちがいない。先生にお会いし、親しくお話をうかがうようになってからであるが、かつての戸田青年も、また樗牛の熱心な読者であったことを知って、私は驚き、かつ無性に嬉しくもなった。
 そうして、戸田先生の会社に勤めるようになってからも、しばしば樗牛が先生と私との共通の話題になった。
 戸田先生は、よく私に向かって「書いて書いて書きまくれ! 樗牛のように」と激励してくださった。また、あるときは、樗牛が好んで用いた「文は人なり」の言を引かれ、青年の文章は若々しく、情熱的であるべきだ、とも教えられた。まるで樗牛が果たせなかった夢を、私に実現させようとするかのような口調であった──。
2  私が『樗牛全集』を手にしたのは、いうまでもなく戦後のことである。神田の古本屋街には、当時、樗牛の著作は二束三文で売られていたように思う。難なく、意外に安く買うことができた。
 つい先日、昭和二十一年(一九四六年)五月の新聞を縮刷版で読んでいたところ、「朝日新聞」の「天声人語」欄の一節が、偶然、目にとまった。
  
  良い本がドンドン古本屋に出てきた。この事は知識人の生活苦そのものを物語ってゐる。ガラ空の書斎に、やせ細って坐してゐる学徒の姿が想像される。だが買はんと欲すれば高い本も、売らんと欲すれば、定価通りの二束三文である。
  
 当時の知識人の苦しい生活事情を、的確にとらえている。前にも述べたように、皇居前広場では「米よこせデモ」や「食糧メーデー」が繰りひろげられた年だ。富家の人びとも着物を質に入れて、タケノコ生活で糊口をしのいだ。本以外に売る物とてない知識人は、それこそ身を切られる思いで愛読書を手放した人もいたにちがいない。
 そのころ、高山樗牛の本が比較的多くの古本屋に出回ったのには、さらに別の理由もありそうだ。それは戦時中──軍国主義はなやかなりしころ、不幸にも樗牛の著作は、偏狭なる日本主義者によって、さんざんに利用されたからである。悪夢のような戦争が終わってみると、人びとは一変して樗牛を一顧だにしないありさまとなった。
 しかし私は、そのように時代が変わったからといって、捨てるには惜しい宝石の輝きを、樗牛の文章は随所に放っていると思う。それを愛惜して拾いあげたのである。
3  明治の文壇に万丈の気炎
 樗牛高山林次郎は、いわゆる日清・日露の両戦役問の時代に、その浪漫的な情熱の文章によって、一世を風靡した。
 文芸評論家の中村光夫氏によれば「樗牛は我国の近代の批評家のなかでは空前絶後の人気を持った人」ということになる。また、樗午と同時代の友人笹川臨風は、後年「樗牛全集は青年学徒の必ず通過する人生鉄路の停車場」とまで表現している。
 たしかに樗牛は、とくに青年のあいだに絶大な人気をもっていた。彼の文章には、若者の心をとらえて放さない独特の魅力がある。少なくとも明治・大正の青年、そして昭和前半の学徒にとっては、樗牛の文体がもつ絶妙のリズムを忘れることができないだろう。
 試みに、名作『滝口入道』の冒頭の一節を引用しておく。
4   やがて来む寿永じゅえいの秋の哀れ、治承じしょうの春の楽みに知る由もなく、六歳の後に昔の夢を辿たどりて、直衣なおしの袖を絞りし人々には、今宵の歓会も中々に忘られぬ思寝の涙なるべし。
 踊る平家を盛りの桜に比べてか、散りての後の哀れは思はず、入道相国が花見の宴とて、六十余州の春を一せきうてなに集めし都西八条の邸宅。君ならでは人にして人に非ずと唱はれし一門の公達、宗徒むねとの人々は言ふも更なり、
5  これが樗牛二十二歳のとき、東京帝国大学の哲学科一年に在籍中の文章である。わが国の近代文学史上、初めて歴史小説としての芸術性を獲得した作品として、いわば記念碑的な出世作となった。
 しかし樗牛は、最初から職業作家となるつもりはなかったようだ。明治二十六年(一八九三年)暮、「読売新聞」が募集した懸賞小説の入選作であるが、彼はこの『滝口入道』を無署名のまま新聞に発表した後、その生涯を閉じる日まで、他には一篇の小説も書いていない。
 むしろ樗牛は、天性の詩人であったのかもしれない。多芸多才の、ありあまる才能を惜しげもなく発揮して、あるときは気鋭の文芸評論家として、またあるときは歴史文学者として、倫理・美学の研究者として、さらには宗教哲学者として、彼は明治の文壇に万丈の気炎吐いた。
 その間に樗牛は、好んでバイロンを説き、ハイネを語った。ワーズワース、ゲーテ、ホイットマンを紹介し、シェイクスピア、カーライル、そしてゾラにも言及した。ついに渡欧の夢は果たせなかったが、はるかに海を隔ててなお泰西詩人の精神に共鳴する詩魂を、彼は内に秘めていたのである。
 処女作の『滝口入道』によって注目されて以来、樗牛の文筆生活は、十年にも満たない短さであった。
 だが、その間に彼は、なんと多くの著作をなしたことであろう。しかも、わずかな期間に、目まぐるしいほどの思想遍歴を遂げている。仮に四期に分ける説を採用すると──まず哲学的・詩人的傾向の時代から、第二期の日本主義鼓吹の時代へ、そして一転してニーチェイズム宣揚の時代から、第四期は晩年に日蓮研究の生活に入る。
 こうして見ると、なるほど彼は矛盾の人、無定見の評論家の典型のようにも思える。とくにニーチェ主義から日蓮主義への転向宣言には、いかにも世人をして驚倒せしめるものがあったようだ。
6  今の世の凡俗に飽きたるものは、願はくば是の篇を読め。日本は如何に堕落するとも、吾人は其の同胞に日蓮上人を有することを忘るゝ勿れ。彼れの追懐は力也、信念也。諸君、若し学究先生の所説を聞くの余暇あらば、吾人と共に是の一大偉人を研究せざるべからず。
  
 これは明治三十五年(一九〇二年)四月、樗牛が雑誌「太陽」に発表した「日蓮上人とは如何なる人ぞ」と題する一文の書き出しである。
 彼はこの年の十二月に、彗星のように世を去っていくが──もはや病床にあって喀血を繰りかえしながらの執筆である。
 今、あらためて読みかえしてみると、生死の境を往還していた彼は、まるで読者に遺言でも語るかのように、懸命に大聖人の生涯を鑽仰してやまない。そこには、軽薄な言辞は少しも見られなかった。必死の姿勢が全篇を貫いているといってよい。
 思うに樗牛は、生涯求道の人であった。鋭敏なる感覚の持ち主であった彼は、永く一カ所に安住していられなかったのであろう。次々と新思潮を展開していった。
 樗牛の全集には「吾人は須らく現代を超越せざるべかららず」という言葉が、表紙に金文字で箔押しされている。つねに時代に先んずる進取の精神を表現したものといえよう。
 世に出てからの十年間は、ひたすら前進につぐ前進の、挑戦の人生を歩んでいる。坪内遺遁や森鴎外、そして内村鑑三といった大家に対しても、果敢な論戦を挑んでいる。ときには若さゆえの無謀な主張も散見されるが、それは青年の客気がなさしめたものかもしれない。
 最後の一年間は、居を大聖人ゆかりの地である鎌倉に移し、そこで大聖人の「書」を精読したりする明け暮れであったようだ。あるときは、大聖人の種々御振る舞いに感泣しつつ、生命と生命との対話のなかに、宇宙生命の実在の妙法に肉薄していった。
 その果てに彼は、日蓮門下の六老僧のなかでも、日興上人の法統こそ正流であることを、知るにいたった。死の寸前に発表した「予の好める人物」という連載物の最後には、日興上人と日持の事績を挙げている。
 ただ惜しむらくは、この天才的詩人の生命は、もはや燃えつきようとしていた。彼は三十一歳の短くも充実した人生の松明を、高々と掲げて逝ったのである。
7  私もまた樗牛と同じく、二十代に胸を病んで、とても三十まではもつまいと言われた身体。そのことで、いつも戸田先生には、ご心配をかけどおしであった。
 「おまえも長生きできない身体だな。できることなら、私の生命を削って、お前にあげたい──」
 そう先生に言われたとき、思わず胸の焼きつくような想いが、こみ上げてきたものである。
 また、先生が亡くなられる半年まえのことであった。──二十歳のときから先生の側近くに働いて十年間、どうにか私の身体も持ちこたえそうな気配もあった。
 だが、そのとき先生は大患を病み、戦時中の二年間の獄中生活と戦後の激闘のために、いたく憔悴せられていた。時折、遺言めいた言葉を、ふと洩らされた後に、厳しい表情でおっしゃられたのを今でも忘れない。
 「君は妙法の高山樗牛になれ! 彼は三十一歳で死んだが、君は生きぬけ。絶対に、わたしの後継として生きぬけ!」
 そのときから私は、生きぬく決意をさらに強靭なものとした。そして、恩師の遺訓をすべて実現するための闘いを、人知れず胸に秘めて開始したのである。

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