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日蓮大聖人・池田大作

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運命的な師との出会い 内村鑑三『代表的日本人』

「若き日の読書」「続・若き日の読書」(池田大作全集第23巻)

前後
1  私が、恩師戸田城聖先生に初めてお会いしたのは、忘れもしない──昭和二十二年(一九四七年)八月十四日のことであった。
 それは、あの日本の未曾有の悲惨な命運を決定づけた、敗戦記念日の前日にあたる。まだ焼け野原の散在する城南一帯は、夜になっても蒸し暑い日々が連日つづいていた。
 その夜、私は小学校時代の友人にさそわれるままに、二人の読書グループのメンバーと連れだって、戸田先生の話を聞きにいったのである。めざす家の玄関を入ると、二十人ばかりの人びとを相手に、度の強い眼鏡をかけた五十に近い人が、潤達な口調で皆を笑わせたり、時折、真剣な表情になって、仏法哲理を説いて聞かせていた。
 会合も終わり、やがて先生は、微笑しながら「幾つになったね」と尋ねられた。そのとき、私は十九歳であった。──その夜の情景や、戸田先生との初対面の印象については、すでに『私の履歴書』にも記したので、これ以上は繰りかえさない。
 ただ、今にして思えば、そのころの私は、いつしか心の奥深くで生涯の師とすべき人物を求めていたのかもしれない。働きながら夜学にかよい、焼け跡に向学の火を燃えたたせていたのも、いわば人生の指標を示してくれる師との出会いを待つ模索の期間であった。
 また当日の夜、私と一緒に戸田先生に、お会いした二人の青年は、近くに住む二十代の若者たちでつくっていた読書サークルの仲間である。そこで私たちは、偉人の伝記を読み合ったり、日本の将来の動向や経済体制について、それこそ真剣な討議も重ねていた。
2  懐かしい森ケ崎海岸での対話
 私の「読書ノート」は、その会合のための討議資料ともなった。今、あらためて読みかえしてみると、未熟ながらも当時の師を求める心象風景が、泌々と想いおこされるのである。
 内村鑑三の『代表的日本人』を岩波文庫で読んだのは、奇しくも恩師と邂逅する直前のころであった。
 私のノートには、次のような一節が写し取られている。
  
  あの実に重要なる死の問題、──それは凡ゆる問題中の問題である。死のあるところ、宗教はあらねばならぬ。それは我我の弱さのしるしであるかも知れぬ、併し其にも拘らず、我我の高貴なる生れなると、我我の衷に死なざるもののあることとの徴でもある。
  
 この一節をめぐって、私は読書グループの友人と森ケ崎海岸を散策しながら、生と死の問題を突っこんで議論した記憶がある。
 それは、月光の冴えわたる真夏の夜のことであった。打ち寄せる波は金波、銀波と輝き、磯の香をのせた微風は、議論の果ての紅潮した頬に心地よかった。
 文学を語り、哲学を論じ合った末に、私と友との語らいの落ちつく先は──「死」とは何か、人間にとって宗教は必要であるか、否か。必要とすれば、いかなる宗教が求められるべきか──そうした一点に絞られていった。
3   宗教は、人間の最も主たる関心事である。宗教なき人間は、考へることができない。この不思議なる人生にありでは、我等の能力の大なるだけ我等の欲望はそれより大であり、我等の希望は此世の与ふる又は与へ得る一切のものを凌駕してゐる。弦に於て此等の不調和を除去するために、何事かが為されねばならぬ、──我等の行為に於てにあらずんば、少くとも我等の思想に於て。
  
 このように内村が述べているのを、あたかも友は暗んじているかのように、情熱的に語つた。そして、まず自身の「死」の問題を解決するために、キリスト教の信仰に入る決意を、いつしか吐露していたのである。
 しかし私は、彼の意見には同調できなかった。なぜなら──友の表情には、心の焦りと悲壮感が漂っているように見えたからである。また、ここで内村が「生命に関する宗教」の必要性を強調しているのは、キリスト教ではなく、むしろ日本の仏教、しかものちに私も信仰することになる日蓮大聖人の仏法について言及しているのを知っていた。
 このことは一見、奇異に感じられるかもしれない。内村鑑三といえば、たしかに明治のキリスト者である。その当人が、日本民族にあっての理想的宗教家として「日蓮上人」の名を挙げているのは、何故であろうか。──その疑問に答えるためには、ここで『代表的日本人』の成立事情を検討しなければならないだろう。
4  弱冠二十三歳の青年内村が、溢れる大志を抱いて横浜港を発ったのは、明治十七年(一八八四年)十一月六日のことであった。懐中には、わずか二百円にも足りぬ渡米資金が収められていただけであるという。
 内村の渡米の目的は、第一に「人」となること、第二に「愛国者」となることであったと、述べられている。フロンティア・スピリットの溢れる新大陸は、新生明治の青年にとっても、希望の天地であったろう。
 サンフランシスコに上陸した内村は、大陸横断鉄道に七昼夜も揺られ、まずペンシルヴァニア州の州立白痴院に勤めることになった。そこで彼は、慈善事業に打ち込み、厳しい自己訓練によって立派な「人」となろうとした。
 続いて内村は、ニューイングランドのアマスト大学に赴き、こんどは歴史学、ドイツ語、鉱物学、地質学、へプライ語、心理学、倫理学等を学んでいる。そして、シーリー学長の感化を受けて、ある重大なる回心を遂げたことは、多くの内村鑑三伝が伝えているとおりである。
 三年四カ月におよぶ内村のアメリカ体験は、彼の精神に複雑な陰影を刻んだようだ。信仰者としての深化が進むにつれ、彼はアメリカの現実には深い失望感を味わっている。口にはキリスト教徒であるといっても、教えを実践する人は少なく、誰もが拝金主義者となっていると見たのだ。
 内村は「余は、基督教外国宣教師より、何が宗教なりやを学ばなかった」と言い、また「余は或時は基督信者たることを止めて純日本人たらんと欲することがある」とも述べている。彼自身の表現によれば、生涯「二つのJ」──Jesus(イエス)とJapan(日本)とのあいだを、激しく揺れ動いていくことになる。
 明治二十六年(一八九三年)、内村が英文で著した″How I Became A Christian″(『余は如何にして基督信徒となりし乎』)は、ちょうど振り子がJesusのほうに傾いていたころのものである。
 それに対して、翌明治二十七年、同じく英文で″Japan and Japanese″(『日本及び日本人』)と題した著作は、早くもJapanへの愛国者に変貌していたころのものであった。それを後年、明治四十一年(一九〇八年)になって改版を出すさい″Representative Men of Japan″と改題したのが、今日の『代表的日本人』の原型となったのである。
5  ″日蓮大聖人は偉大″と評価
 こうして無教会主義の旗を掲げる内村は、西欧のキリスト教会勢力を激しく批判し、むしろ日本の誇るべき宗教改革者として、日蓮大聖人に学ぶところが多くあるという。
 内村は「偉大なる日蓮よ」と呼びかけ、日本における宗教家のうち「前代未聞の人」である理由を述べていく。
  
 一個の注目すべき人物、全世界に於ける彼の如き人物のうちにて最も偉大なる者の一人が、我我の前に立つのである。これ以上に独立なる人を、余は我が国人の間に考へることはできない。実際、彼は彼の独創と独立とによって、仏教を日本の宗教たらしめたのである。
6  ここに明らかなように、内村の価値判断の基準の一つに「独立」という概念がある。彼は熱烈な愛国者でもあったが、同時に「自由と独立」のために闘う外国人をも「同胞」あるいは「兄弟」と呼んで、決して排外的なナショナリストにはならなかった。
 その意味で彼の日蓮観は、国家権力からの自由と独立の側面に意義を見いだそうとする。伊豆と佐渡への両度の流罪、そして「竜の口の法難」についても「日本宗教史上、最も有名な出来事」として、とくに詳細なる描写を加えていく。さらには、西洋における宗教改革者マルテイン・ルターと対照させ、権力の迫害にも屈しない実践行を、高く評価しているのだ。
 むろん私は、初めて『代表的日本人』を読んだ際には、まだ信仰の道には入っていなかった。しかし、戦時中の国粋的な日蓮主義者たちの主張とは、およそ正反対の日蓮観を、すでに鑑三の著作から得ていたのかもしれない。
 ただし、それによって直ちに日蓮大聖人の仏法に興味を抱いていったのではない。あくまで、戸田城聖という一個の稀有な仏法者に接して、初めて師とすべき人物を見いだし、やがて私も信仰者の道を歩むことになったのである。
 戸田先生にお会いして十日後の八月二十四日、私は正式に入信の手続きをとった。そのときから数えて三十回目の入信記念日を迎え、まことに光陰矢の如しの感を深くする。この三十年間──あるときは、恩師より親しく薫陶を受けつつ、激闘の合い聞に、少しでも時間を見いだして、東奔西走の車中に活字をひろい読みしたこともある。机に向かっての長時間の読書は、ほとんどなくなったが、戸田先生はよく「青年よ、心に読書と思索の暇をつくれ」と激励され、特別に読書グループもつくってくださった。
 それがのちに、創価学会青年部の有志を集めた教育機関ともいうべき「水滸会」、また女子部の「華陽会」へと発展していくのだが、次回からは、無類の読書家でもあった恩師の折々の指導も紹介しつつ、わが青春の読書歴を綴ることにしたい。

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