このように内村が述べているのを、あたかも友は暗んじているかのように、情熱的に語つた。そして、まず自身の「死」の問題を解決するために、キリスト教の信仰に入る決意を、いつしか吐露していたのである。 しかし私は、彼の意見には同調できなかった。なぜなら──友の表情には、心の焦りと悲壮感が漂っているように見えたからである。また、ここで内村が「生命に関する宗教」の必要性を強調しているのは、キリスト教ではなく、むしろ日本の仏教、しかものちに私も信仰することになる日蓮大聖人の仏法について言及しているのを知っていた。 このことは一見、奇異に感じられるかもしれない。内村鑑三といえば、たしかに明治のキリスト者である。その当人が、日本民族にあっての理想的宗教家として「日蓮上人」の名を挙げているのは、何故であろうか。──その疑問に答えるためには、ここで『代表的日本人』の成立事情を検討しなければならないだろう。 4 弱冠二十三歳の青年内村が、溢れる大志を抱いて横浜港を発ったのは、明治十七年(一八八四年)十一月六日のことであった。懐中には、わずか二百円にも足りぬ渡米資金が収められていただけであるという。 内村の渡米の目的は、第一に「人」となること、第二に「愛国者」となることであったと、述べられている。フロンティア・スピリットの溢れる新大陸は、新生明治の青年にとっても、希望の天地であったろう。 サンフランシスコに上陸した内村は、大陸横断鉄道に七昼夜も揺られ、まずペンシルヴァニア州の州立白痴院に勤めることになった。そこで彼は、慈善事業に打ち込み、厳しい自己訓練によって立派な「人」となろうとした。 続いて内村は、ニューイングランドのアマスト大学に赴き、こんどは歴史学、ドイツ語、鉱物学、地質学、へプライ語、心理学、倫理学等を学んでいる。そして、シーリー学長の感化を受けて、ある重大なる回心を遂げたことは、多くの内村鑑三伝が伝えているとおりである。 三年四カ月におよぶ内村のアメリカ体験は、彼の精神に複雑な陰影を刻んだようだ。信仰者としての深化が進むにつれ、彼はアメリカの現実には深い失望感を味わっている。口にはキリスト教徒であるといっても、教えを実践する人は少なく、誰もが拝金主義者となっていると見たのだ。 内村は「余は、基督教外国宣教師より、何が宗教なりやを学ばなかった」と言い、また「余は或時は基督信者たることを止めて純日本人たらんと欲することがある」とも述べている。彼自身の表現によれば、生涯「二つのJ」──Jesus(イエス)とJapan(日本)とのあいだを、激しく揺れ動いていくことになる。 明治二十六年(一八九三年)、内村が英文で著した″How I Became A Christian″(『余は如何にして基督信徒となりし乎』)は、ちょうど振り子がJesusのほうに傾いていたころのものである。 それに対して、翌明治二十七年、同じく英文で″Japan and Japanese″(『日本及び日本人』)と題した著作は、早くもJapanへの愛国者に変貌していたころのものであった。それを後年、明治四十一年(一九〇八年)になって改版を出すさい″Representative Men of Japan″と改題したのが、今日の『代表的日本人』の原型となったのである。 5″日蓮大聖人は偉大″と評価 こうして無教会主義の旗を掲げる内村は、西欧のキリスト教会勢力を激しく批判し、むしろ日本の誇るべき宗教改革者として、日蓮大聖人に学ぶところが多くあるという。 内村は「偉大なる日蓮よ」と呼びかけ、日本における宗教家のうち「前代未聞の人」である理由を述べていく。