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日蓮大聖人・池田大作

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天下の大事を担うもの 山田済斎編『西郷南洲遺訓』

「若き日の読書」「続・若き日の読書」(池田大作全集第23巻)

前後
2  私は敗戦直後|一切の価値観が未曾有の混乱を呈していたころ、たまたま山田済斎編の『西郷南洲遺訓』を読んだ。
 当時は西郷に対する評価も極端に低かった。戦前の軍国主義教育では、彼は武人の鑑にされていたが、むしろ、それが裏目に出たのであろうか。戦後になってからは、とくに若い人びとには見向きもされなかったようだ。
 ところが『南洲遺訓』を読みすすめるにつれ、私の胸中には、諸家の西郷論とは違うイメージが、くっきりと浮かび上がっていた。そこには、世間の毀誉褒貶など意に介さない西郷の、淡々として赤裸な人生観、処世訓、そして死生観が述べられている。
3   事大小と無く、正道を蹈み至誠を推し、一事の詐謀を用ふ可からず。人多くは事の指支さしつかゆる時に臨み、作略さりゃくを用て一旦其の指支を通せば、跡は時宜次第工夫の出来る様に思へ共、作略の煩ひ屹度生じ、事必ず敗る』ものぞ。正道を以て之を行へば、目前には迂遠なる様なれ共、先きに行けば成功は早きもの也。
  
 これらの遺訓は、明治三年(一八七〇年)、奥羽の荘内藩主酒井忠篤とともに鹿児島を訪れた、菅実秀、三矢藤太郎、石川静正らが、西郷の言行録を荘内に持ち帰って編んだものである。
 維新までは徳川方であった荘内藩にとって、西郷は敵軍の将である。やがて、世は明治の代となり、荘内藩が奥羽征討の官軍に降伏したとき、きわめて寛大な処置をとってくれたのが、西郷であった。そのため、荘内藩は一藩をあげて西郷の崇拝者となっていったのである。
 なるほど、かつての西郷は「詐謀」を用いたかもしれない。維新回天の事業を達成するまでには、京・大坂(当時)において、あるいは江戸市中に、おいて、西郷や大久保利通が機略縦横の策を多彩に展開したことは、周知のとおりである。
 しかし西郷は、荘内藩士の眼には、まさに正道の人、至誠の大人として映じていたのである。ここに西郷という人物の、不思議な魅力の一端がひそんでいたにちがいない。明治十年の西南戦争には、はるばる東北の旧荘内藩からも、西郷の陣列に馳せ参じた者がいたと記されている。
4  主君の遺志継ぐ「無私」
 西郷は文政十年(一八二七年)十二月七日、鹿児島城下の下加治屋町において、平士西郷吉兵衛の長男として生まれた。おなじ町内からは、のちに維新史の群像として並びたつ大久保利通をはじめ、大山巌、村田新八、さらに東郷平八郎といった錚々たる面々を輩出している。十七歳のとき、西郷は郡方書役助こおりがたかきやくたすくとして初めて役に就き、以後十年間、孜々として農政に従事する下役人であった。
 無名の西郷を歴史の檜舞台に引き上げたのは、英邁な開明藩主島津斉彬である。彼は江戸への参観出府のとき、初めて西郷を見て、その非凡な才を発掘したのである。
5   南洲守庭吏しゅていりと為る。島津斉彬公其の眼光炯々として人を射るを見て凡人に非ずと以為おもひ、抜擢して之を用ふ。公かつて書を作り、南洲に命じて之を水戸の烈公に致さしめ、初めより封緘を加へず。烈公の答書たふしょも亦然り。
  
 これは南洲の『手抄言志録』中、第二十八の「信を人に取るは難し。人は口を信ぜずして躬を信ず。躬を信ぜずして心を信ず。是を以て難し」とある条に対して、秋月古香が加えた評である。
 西郷は二度、遠島流罪にあっているが、幽囚の身でありながらも、読書三昧にふけった。そして、佐藤一斎の『言志四録』一千三十余条のなかから、とくに百一条を抄出し、座右の誠としていった。右に引用したのは、そのなかの一条である。ちなみに、私の「読書ノート」によってみると、そのころ『南洲遺訓』と相前後して、おなじく岩波文庫で『言志四録』を読んでいる。三十年まえの私は、この維新史の英雄の精神を、知らぬうちに、その形成期にまで遡って追究していたのである。
 さて、若き日の西郷は、こうして藩主斉彬の守庭吏(庭方役)に抜擢された。今でいえば、秘書官のような役である。ときには特別補佐官の任務も果たしたことであろう。事実、西郷は斉彬公の信任に応え、国事に奔走していった。
 安政五年(一八五八年)、西郷三十二歳のときである。彼は重大なる密命をおびて上京中、主君斉彬の急死を知った。悲報を受けた西郷は、ただちに鹿児島へ帰って藩公の墓前に、追腹を切って殉じようとする。──それを、熱誠こめて諌めたのが、のちに西郷とともに錦江湾に入水して果てた、僧月照であった。
 その後の西郷は、もはや一命を捨てた境地に立って、主君と師の遺志を実現するために、生涯にわたって「仁」を貫いたという。
6   命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。此の仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。
  
 これも『遺訓』の第三十条にある。いわば、西郷は「無私」の人であった。幾度か死線を通りぬけた志士たちも、彼の覚悟が尋常でなかったことを証言している。
 たとえば、土佐藩出身の中岡慎太郎がいる。彼は西郷と会見するとき、場合によっては刺殺する決意を意中に秘めていた。おそらく西郷にも、その殺気は伝わっていたにちがいない。
 会談が始まると、いつしか中岡の気勢も殺がれ、西郷の誠意に感動していく。気がついてみると、彼も西郷の同志となり、協力を約す仲に変わっていた。
 中岡は、死の二年まえに記している。
7   当時洛西の人物を論じ候えば、薩摩藩には西郷吉之助あり、人となり肥大にして(中略)古の安倍貞任などは斯の如き者かと思われ候。此の入学識あり胆略あり、常に寡言にして最も思慮深く、雄断に長じ、たまたま一言を出せば確然人の肺腕を貫く。且つ徳高くして人を服し、しばしば艱難をへて事に老練す。
  
 勝海舟もまた、西郷を恐るべき人物と見た。それは、前回紹介した『氷川清話』などの座談にも明らかである。
  
  おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠と西郷南洲とだ。
  
 ここにいう横井小楠は、幕末のすぐれた思想家である。だが、惜しいかな彼は、明治二年(一八六九年)正月、京都で暗殺された。
 海舟は初めて西郷と面会した際、彼こそ小楠のような思想家の理想を実践する人物と見た。そして、やがては西郷が「天下の大事を負担するもの」と考えて、江戸開城の談判に臨んだのである。
8   人の一生遭ふ所には、険阻有り、担夷有り、安流有り、驚瀾有り。是れ気数の自然にして、ついに免るる能はず。即ち易理なり。人は宜しく居つて安んじ、もてあそんで楽むべし。若し之を趨避すうひせんとするは、達者の見に非ず。
  
 おそらく西郷は、この一節を『言志四録』のなかに見いだしてから、その生涯を閉じる日まで、さまざまな感懐をもって反芻したにちがいない。その身を「気数の自然」にまかせて、淡々と生死を超越した心地にまで達していたのであろうか。
 維新を達成するまでの西郷は、たしかに機勢の高まる波に乗っていた。大久保の繊密な戦略と、世界情勢に通暁した海舟の助言、さらに豊富な情報と雄藩の協力も得て、果断に行動することができた。
 しかし、時流というものは、激しく、また恐ろしいものである。維新政府の矢継ぎ早な改革に、ひとり西郷のみ置き去りにされたきらいもある。むろん彼自身、創業の人ではあっても、守成の政治家ではないことを、あるいは承知していたかもしれない。
 戊辰戦争が終わると、さっさと薩摩へ帰ってしまった。すでに「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ」という心境の西郷にしてみれば、あえて上京するまでもなかったにちがいない。南国の田園に暮らして晴耕雨読の、悠々自適の生活を送っていれば、赫々たる革命家の晩節も全うされる、と見えたのだ。
 だが、西郷は明治四年(一八七一年)正月、ふたたび、三たび立ち上がった。ときに四十三歳──はや人生の半ばを越えている。時折、心臓の鼓動に不安を覚えることはあったが、それでも、あえてみずからの運命に身をゆだねていったのである。
 はたして西郷の再挙は、維新につぐ連続革命を企図したものであろうか。あるいは壮図むなしく、不平士族の反乱軍と化していったのだろうか。福沢諭吉の見るように、それは「抵抗の精神」によるものか。──歴史の評価は、なおしばらく左右の振幅を繰りかえすかもしれない。
 しかし私は、かつて西郷の人間性には魅かれたが、はたして彼に百年の遠謀深慮があったかどうか──今では疑問に思っている。彼には、土着性に根ざす人情の豊かさはあっても、新しい未来の光源となりうる理念の輝きは見られないからである。
 なお後年、私の恩師は、西郷が未来への使命に生きゆく多くの青年を死地に追いやったことの非を、厳しく批判されたことがある。真の指導者というものは、次代の有為な青年たちを決して犠牲にするものではないとの心情が、恩師の指摘には溢れているようで、私の脳裡からは瞬時も離れないのだ。

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