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日蓮大聖人・池田大作

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百年の後に知己を待つ 勝海舟『氷川清話』『海舟座談』

「若き日の読書」「続・若き日の読書」(池田大作全集第23巻)

前後
1  人生には、いくつかの節がある。厳しい冬の寒さに耐えなければならないときもあれば、春の陽光を燦々と浴びて、すくすくと伸びゆく若木のように、まっすぐに成長するときもある。とりわけ二十歳前後の青年は、知識の養分を満身に吸収して、見るみるうちに頭角をあらわしていくものだ。
 読書においても、この時期に読んだ本は、その人の血となり肉となって、終生忘れることはない。すぐには役に立たなくても、いつか人生の節目に直面したときなど、突然記憶の底から呼びおこされ、ダイヤモンドのように光り輝く貴重な財産となろう。
 私が二十歳前後のころ読んだ本の多くは、廉価版の文庫本であった。当時の私の経済力では、それが精いっぱいだったし、仕事の往き帰りの電車の中など、十分、二十分の時間を惜しんで、気軽にポケットから取り出して読めたからである。
 文庫本ブームといわれる現在では、書物の選択に迷うほど種類も多い。だが、私が親しんだ時代は、文庫本といえば、岩波文庫と改造文庫が中心であった。そこには、粒選りの古典、名著が収められ、わずか二、三十円で、東西古今の知識の泉を汲むことができたのである。
 私の「読書ノート」を開いてみると、岩波文庫では、ダーウィン『種の起原』、プラトン『ソクラテスの弁明・クリトン』、巌本善治編『海舟座談』、山田済斎編『西郷南洲遺訓』、内村鑑三『代表的日本人』、長与善郎『竹沢先生と云ふ人』など、改造文庫では、プレハノフ『我等の対立』、パクーニン『神と国家』、幸田露伴『頼朝』などを読んだことが想いおこされる。
2   世に処するには、どんな難事に出会っても臆病ではいけない。さあ何程でも来い。おれの身体が、ねぢれるならば、ねぢって見ろ、といふ了簡で、事を捌いて行く時は、難事が到来すればするほど面白味が付いて来て、物事は雑作もなく落着してしまふものだ。なんでも大胆に、無用意に、打ちかゝらなければいけない。(勝海舟)
  
 これも「読書ノート」に記されている一節だ。
 何から引用したものかを調べたところ、岩波文庫の『海舟座談』には出ていない。すると、おそらく吉本襄の編纂した『氷川清話』であろうと見当をつけ、あらためて読みなおしてみると、案の定、彼が「世人百態」として分類したなかにあった。
 たしか三十年まえの私は、まず『海舟座談』を読んで『氷川清話』の存在を知り、海舟という人物に興味を抱いていったのである。早速、神田の古本屋街へ行って、改造社版の『海舟全集』を何冊か買った覚えがある。
3  「外交の極意は誠心正意」
 周知のように、海舟勝安房守義邦は、大江戸の旗本勝小吉の息子である。父子の厳しくも気高い交流は、往年の映画ファンなら、おそらく阪妻(阪東妻三郎)の熱演を覚えているにちがいない。
 幕末維新の動乱期に人となった海舟は、数多くの偉業を成し遂げ、明治三十二年(一八九九年)まで生き続けた。その七十七年にもおよぶ生涯の基盤は、十代から二十代にかけての克己勉励によって築かれたことはいうまでもない。剣をとっては達人の域に達し、漢学の素養も深く、オランダ語をはじめとする外国語にも堪能であったという。
 彼は七年ごとに人生の節目を迎えている。ペリーが黒船を率いて来航したとき、海舟は三十一歳であった。──来るべきときが来たことを知って、少しも動揺しなかった、といわれる。
 その七年後の三十八歳のときには、みずから威臨丸の艦長となって太平洋の荒波を越え、日本人としての第一歩をアメリカの地に印した。やがて次の七年後、海舟四十五歳のとき、三百年の治世を誇った徳川幕府が、ついに崩壊したのである。
4   一体、政治家は、機勢の変転というものを見なければならぬ。新井白石が、読史余論に、幾変転と言うて論じたのは、アレはあとから言うたことだが。マー機の移り変りの工合を知らなければならない。それは証拠をあげて言えば、直に分るものだ。徳冨〔蘇峰〕にでも書かせてやろうかと思ったのだが、誰かが書けば、直に分るのだ。ソノ工合をチャンと知っていると、政治の塩梅が雑作ないのだ。ワシはもと西洋人の言うた七年一変の説ネ。アレを信じているのだ。どうも七、八年ないし十年にして人心が一変するよ。
  
 これは『海舟座談』にある。
 明治三十年(一八九七年)七月十五日、巌本が、赤坂氷川町の勝邸において聞きとったものだ。いかにも江戸っ子らしい、歯切れのいい語り口である。
 勝は、わが日本史に赫々たる無血革命の″江戸城明け渡し″──徳川幕藩体制から近代国家への繋明を告げる一大変革を、「七年一変の説」を内に秘め、「機勢の変転」をみながら成就したのであろう。
 慶応四年(一八六八年)三月十三日、翌十四日の両日──勝と西郷隆盛は、芝田町の薩摩屋敷で一対一の談判におよんだ。
5   当日おれは、羽織袴で馬に騎って、従者を一人つれたばかりで、薩摩屋敷へ出掛けた。まづ一室へ案内せられて、しばらく待って居ると、西郷は庭の方から、古洋服に薩摩風の引っ切り下駄をはいて、例の熊次郎といふ忠僕を従へ、平気な顔で出て来て、これは実に遅刻しまして失礼、と挨拶しながら座敷に通った。その様子は、少しも一大事を前に控へたものとは思はれなかった。
 さて、いよいよ談判になると、西郷は、おれのいふ事を一々信用してくれ、その間一点の疑念も挟まなかった。「いろいろむつかしい議論もありませうが、私が一身にかけて御引受けします」西郷のこの一言で、江戸百万の生霊も、その生命と財産とを保つことが出来、また徳川氏もその滅亡を免れたのだ。
6  歴史的な会見である。
 勝の双肩には、江戸百万の民衆の運命がかかっていた。西郷の背後には、勤王討幕の志士の鋭い眼光が注がれている。選択は二つに一つであった。
 勝は後年「外交の極意は、誠心正意にあるのだ」と言っている。また西郷が、談判の最中にも「始終座を正して手を膝の上に載せ、少しも戦勝の威光でもって、敗軍の将を軽蔑するといふやうな風が見えなかった」のを、海舟は感心して称賛する。いわば西郷の「至誠」と、勝の「誠心正意」の一念が相呼応し、一触即発の内戦の危機を救ったのであろう。
 談判が始まるまえには、すでに官軍は三方から江戸城へと進撃を開始していた。ところが、会見が終わり、海舟が歩いて城へ帰りつくまでの短い時聞に、ぴたりと進撃中止の命令が全軍に行きわたっていたのである。
7  こうして日本は明治維新を遂げ、極東の海に旭日が昇るかのような、近代国家への歩みを始めた。しかし、その最大の功労者ともいうべき海舟にとって、新政府の行き方は必ずしも満足できるものではない。一度は参議兼海軍卿に列せられはしたが、彼の建策や構想は容れられず、いかにも不遇な晩年であった。
 勝が手塩にかけて育てた坂本龍馬は、そのために命まで賭けた「維新回天」を目前にして、凶刃に舞れた。同じく門弟榎本武揚も、勝が長年育成した幕軍艦隊を率いて東北へ逃れ、やがて北海道箱館(当時)の五稜郭に立てこもり、官軍と一戦を交えている。そして、勝が誰よりも敬愛した西郷南洲も、明治十年(一八七七年)には西南戦争で「逆臣」の汚名をきせられ、儚くも散っていった‥‥。
8   全体大きな人物といふものは、そんなに早く顕れるものではないヨ。通例は百年の後だ。今一層大きい人物になると、二百年か三百年の後だ。それも顕れるといったところで、今のやうに自叙伝の力や、何かによって顕れるのではない。二、三百年も経つと、ちゃうどそのくらゐ大きい人物が、再び出るぢや。其奴が後先の事を考へて見て居るうちに、二、三百年も前に、ちゃうど自分の意見と同じ意見を持って居た人を見出すぢや。そこで其奴が驚いて、成程えらい人間が居たな。二、三百年も前に、今、自分が抱いて居る意見と、同じ意見を抱いて居たな、これは感心な人物だと、騒ぎ出すやうになって、それで世に知れて来るのだヨ。知己を千載の下に待つといふのは、この事サ。
  
 これは『氷川清話』の「人物評論」と題した項の最初に出ている。海舟の義弟にあたる佐久間象山をはじめ、横井小楠、西郷南洲、藤田東湖、木戸孝允、大久保利通、島津斉彬、山岡鉄舟、渡辺畢山、高野長英、岩倉具視など、幕末維新期をいろどる群像が、歯に衣を着せず、忌憚なく論評されている。百年後の今日読んでも、的確なる人物批評の眼を養うのに十分参考となろう。
 海舟はまた、明治三十一年(一八九八年)十一月三十日、すなわち死の一カ月あまりまえ、巌本善治に対して次のように語っている。
  
  玄徳〔三国志、蜀の劉備のこと〕だってそうだ。たツた、孔明一人を見抜いて、「あれに」というので、ヤイヤイ引張り出した。孔明でも、一人で出て行って、どうか、こうか、やったじゃアないか。昔から、みンな、同じ事で、チャンときまってるよ。百年の後に、知己を待つのだ。なにが、分るものか。昔から、大功の有った人は、人が知らないよ。久しうして後に分るのだ。それが、大変好きで、昔から、それを守ったよ。
9  東洋との善隣友好を主張
 敗戦直後私が『海舟座談』を読んだころは、まだ海舟が死んでから五十年と経っていなかった。ところが、マッカーサー占領軍による間接統治を目して、江戸の無血開城になぞらえる意見もあった。
 のちに知ったことだが、そのころ、作家の子母津寛は、ある新聞に小説『勝海舟』を書きついでいたという。──その連載開始は、戦時中の昭和十六年(一九四一年)にさかのぼる。しかも、第四巻までは『勝安房守』と題して、われらの恩師戸田城聖先生が、入獄前に経営していた大道書房から出版されたものだ。
 子母津寛の本名は梅谷松太郎といい、その祖父十次郎は、彰義隊くずれの旧幕臣であった。箱館(当時)の五稜郭に拠って、官軍との決戦に敗れた梅谷ら七人の侍は、明治三年(一八七〇年)春、アイヌ語で「荒海の浜」という意味の厚田村に落ちのびたのである。
 幼いころの子母揮は、その祖父から雪深い冬の夜ごとに、江戸の昔語りや、勝小吉・麟太郎親子にまつわる話を聞いて育ったにちがいない。それが後年、彼の名作『父子鷹』『勝海舟』など、一連の幕末維新物として結晶していったものと、私は思っている。
 戸田先生の実兄は、その子母津と厚田村で遊び友達であった。そんな関係から、やがて先生は、この同郷の作家とも親交を結ぶにいたったと聞く。ちなみに大道書房というのは、昭和十五年(一九四〇年)五月、戸田先生が子母津の小説『大道』を出版するとき、社名を作品からとったことに由来するという。
 その後、私は信仰の道に入り、戸田先生の近くに師事することになるが、先生はよく青年に対して、あたかも海舟の言行録を掌中のものとし、的確なる人物評を下していたように見受けられた。
10  じつは『氷川清話』については、もう一つの後日譚がある。
 それは一九六八年のこと──いわゆる「七〇年安保」を目前にひかえて、わが国は左右激突の騒然たる様相を呈し始めていた。大規模な学生運動の嵐が、各大学のキャンパスに巻きおこり、ベトナムの戦火も収まらず、日本は安保防衛問題をめぐって、袋小路におちいっていた時期である。
 私は、そのような時代状況を横目に見ながら、ふと勝海舟が構想していた外交方針を想いおこした。ちょうど、その年は「明治百年」にもあたり、その記念出版として『氷川清話』が『勝海舟自伝』と題して復刻されてもいた。
 あらためて読みなおしてみると、海舟は日清戦争に反対し、時の伊藤博文内閣に対して、強く和平の議を建言している。彼は、東洋の民族が相食む戦争を否定し、中国、朝鮮の民衆と善隣友好の関係を保つべきであると主張したのである。
 私は、その卓抜なる先見の明に学び、わが学生部の第十一回総会の二万名参加の席上、未来を託すべき青年諸君の英智に向けて、中国問題に関する発想の転換を呼びかけた。おそらく中国にも、日本の明治時代に隠れたる具眼の士がいたことを、知る人もあったにちがいない。はたして、私の提唱に対して、海の向こうから確かな手応えがあったのも、今にして思えば不思議なめぐりあわせである。

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