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青春のロンと友情 ヘルダーリン『ヒュぺーリオン』

「若き日の読書」「続・若き日の読書」(池田大作全集第23巻)

前後
1  ここに、一冊の本がある。決して高価な本ではないが、私にとっては無二の、懐かしい青春の書である。
 この本も、はやくも三十年の光陰が過ぎ去った。しかし、粗末なザラ紙に印刷された思い出の書は、今なお私に、青春の詩の高貴な魂を、気高くも語りかけてくるようだ。
 黄ばみかけた白地の表紙には、深緑色の草花模様が一面にあしらわれ、その中央の窓のなかにオレンジ色のインクで、書名、著者名、訳者名が印刷されている。
  ヒュぺーリオン
  ヘルダーリン
  吹田順助訳
 初めてこの本を手にしたとき、下方に「青春の書7」と記された五文字が目に光った。まぶしいぐらいに輝いて見えた。
 奥付を見ると、定価金六十円、株式会社鎌倉文庫、昭和二十二年三月三十日初版発行とある。──このとき、私は十九歳の春であった。
 鎌倉文庫──なんと懐かしい名前であることか。二十数年以上も昔に店じまいした出版社である。今では知る人も少ないであろうが、活字というものに飢えていた当時の文学青年たちにとっては、決して忘れることのできない版元である。
 戦後の若い編集者たちにも、尽きせぬ憧憬をいだかせたようだ。日本橋白木屋に間借りしていた鎌倉文庫の編集室へ行けば、川端康成や高見順といった作家に、いつでも会えたという。
 ちなみに、この敗戦直後の文芸出版界をリードした出版社について、その発祥を調べてみると、それは戦時中のことにさかのぼるらしい。里見弴、小林秀雄、久米正雄、大佛次郎、中山義秀といった錚々たる面々の鎌倉文士たちが、戦時下の生活の糧を得るためでもあろうか、ささやかな貸本屋を聞いた。それが戦後の鎌倉文庫の、そもそもの出発であったという。
2  ドイツの若き詩人──ヨハン・クリスティヤーン・フリードリヒ・へルダーリンは、ドイツ文学を専攻する学生などは別にして、日本では最初、ゲーテやシラーほどには温かく迎えられなかったようだ。
 しかし、三木清の『読書と人生』によると、彼が留学したころのドイツでは、むしろニーチェやキェルケゴールとともに、一種のへルダーリン・ブームを呈していたという。その輝かしい詩業に対する再評価の波は、第二次大戦以後にはさらにまた高まり、日本にも押し寄せてきた。今では、ドイツにおける最もすぐれた叙情詩人の一人に数えられているという。
 わが国でも、十年ほどまえには河出書房新社から『へルダーリン全集』が出ている。
3  ヒュペーリオンよりベラルミンへ
 なつかしき祖国の地は、再び私に悦びと悲しみとを与えてくれる。
 私はこの頃は毎朝、コリントの地峡イストムスの山上に来ている。そうすると花から花へとびめぐる蜜蜂のように、私の魂はよく、陽の光に焼けている周囲の山々の麓を洗う右方、左方の海の間をあちこちと飛びめぐるのである。
4  全篇が書翰体を、なしている小説『ヒュペーリオン』の、これは冒頭の第一信である。宛名のベラルミンは、かつてギリシア独立戦争の時代(一七七〇年前後)に人となったヒュぺーリオンが、生国を遁れてドイツへ亡命したときに見いだした親友という設定である。
 愛する祖国へ帰還したヒュペlリオンは、青春の都市コリントの輝く地峡に立って、火と燃える南国の太陽の下、花から花へ飛びかう蜜蜂のような軽やかな心情を、その友に吐露せずにいられない。
 詩人へルダーリンの唯一の小説『ヒュベーリオン』こそは、まさしく青春の歓喜と憂愁の悲哀を、高く、深く、そして荘重な詩の調べに託して歌いあげたものといってよい。
5   人生の行路を辿りゆくうちに、若い時分に早くも高貴なる人物に遭遇した人は、幸いなるかな!
  そうだ、それは、愛の悦びと楽しい鞅掌おうしょうとに充満せる、忘れることのできない黄金時代である!
6  へルダーリンは、十八世紀後半の一七七〇年三月二十日、ネッカール河畔の小さな町に生まれた。この平和な美しい自然のシュワーベン地方には、おなじ年にへーゲルも生まれている。
 彼らは十九歳のとき、かの炎のフランス大革命に遭遇した。五歳年少の哲学者シェリングも加えて、チュービンゲンの学生であったへーゲルとへルダーリンは「自由の樹」を植え、その下を革命歌を高唱しながら踊りまわったという。のちにドイツ観念論の時代精神を代表する三巨人である。
 ちょうどそのころ、イマヌエル・カントは立て続けに著作を公刊し、ドイツ理想主義の頂点に屹立していた。また『若きウェルテルの悩み』で、その名声は鳴り響くかのようであったというゲーテ、そしてへルダー、同郷の先輩詩人シラー、イエーナ大学に赴任してきたフィヒテ──いずれも当時の世界精神を一身に体現したかのような人物と、若きへルダーリンは個人的にも相識っている。
 さらに詩人は、その十代から二十代にかけて、ノイファー、マーゲナウ、そしてシンクレーアといった、す、ぐれた友人を得ている。
 詩人が二十七歳のときである。かつての同窓へーゲルのために、彼は職を世話したという。その年の復活祭に、コッタ書店から『ヒュペーリオン』第一巻が出たのである。
 たしかに、若い時代に良き友を得ることは、青年にとって生涯の財産となろう。純粋なる精神の真っ白いカンバスには、互いに切瑳琢磨しあう「感情」と「情熱」の絵の具が、幾重にも多様なる彩りをそえていくものだ。
7  「人類の理想に寄せる讃歌」
 愛は生気溌剌たる人間に充ち満ちたる幾千年を生んだが、友情がまたかくの如き幾千年を再び生み出すことも可能であろう。民族のその昔の出発点は童子の調和であったが、諸々の精神の調和は新しい世界史の始まりと、なるであろう。無為にして化する草木の幸福から人間は門出して成長し、段々成熟するに至った。それから人間は内面からも外面からも醸酵をつづけ、今や人類は無限に分解されて、一つの混沌のような状態にある。
8  ここには詩人の人間観──愛と友情と精神の調和、さらには自然と世界と民族との全一的な成熟にいたる人類成長の哲学とが、いかにも直載に表明されている。哲学者のディルタイは、これらへルダーリンの精神と詩を称して「人類の理想に寄せる讃歌」と呼んだとされるが、至当なる表現であろう。
 また、へルダーリンの観念は、古代ギリシアの世界に遊びつつ、人類の歴史と文化の帰趨にも思いを馳せていった。詩人は夢見る心の持ち主である。
 だが、彼はへーゲルとともに哲学者でもあった。いかに時代に対処すべきかを奥深く真剣に考えている彼の詩は「時代の霊」を重く視て、その時代の嵐の意味するものを真正面から受けとめ、勇気凛々と歌いあげる。
  
  ヒュペーリオンよりベラルミンへ
  人生には偉大なる時があるものだ。私達は未来や古代の巨大な形姿を仰ぎみるように、それらの時を仰ぎみる。私達はそれらの時と壮烈な戦いをつづける。そして私達がその戦いをやり過すなら、それらの時は姉妹のようになり、永久に私達を見捨てないのだ。
9  さて、われらの愛すべきヒュベーリオンは、精神の調和と女性美の極致ともいうべきディオティーマと相識り、熱烈な恋におちいる。彼は、夢とうつつのなかで、つかのまの平和の喜びにひたる。
  
  そうだ、人間は恋するときには、一切を見、一切を浄化する一つの太陽である。恋せぬときには、人間はくすぶれる豆ランプのともっている薄暗い部屋である。
  
 ヒュペーリオンは自由の戦士でもあった。祖国の独立と、自由と共和のために、ふたたび立ち上がったアラバンダらの要請に応え、雄々しくも新たな戦線に従軍していく──。
 「愛は世界を生んだ。友情はまた世界を生れ変わらせるであろう」──ヒュペーリオンは、こうして愛と友情の昇華と調和を図ろうとする‥‥。
 彼はチェスマの戦いに参加したが、運命の女神はこの青年に対して、あまりにも峻烈なる試練を課した。ヒュペーリオンは負傷して、人事不省におちいり、ディオティーマは若くして帰らぬ人となったのである。
10  小説『ヒュぺーリオン』の結末は、詩人が日ごろ愛したギリシア悲劇の世界を、そのまま十八世紀のギリシアに移していった感がある。作者自身も、荒れ狂う、怒涛さかまくドイツの革新的な雰囲気を、胸深く呼吸して生きた。やがて晩年には、その精神の薄明のうちに悲劇的な生涯を閉じたという。
 それから百年後の十九世紀後半──ヘルダーリンと同様の精神の軌跡をたどり、やはり悲劇の運命に遭遇したニーチェ──この二人の精神の薄明は、何に由来するものであろうか。その疑問に私なりの解答を得たのは、しばらくして信仰の道に入った以後のことである。

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