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天才詩人の光と影 石川啄木『一握の砂』

「若き日の読書」「続・若き日の読書」(池田大作全集第23巻)

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1  こころよく
 我にはたらく仕事あれ
 それを仕遂げて死なむと思ふ
 いい詩である。気取りもなく、なんのてらいもない。素直に、若葉のように自分の志を述べている。
 啄木の歌には、むつかしい表現は少しもない。誰が読んでも理解できる。さりげなく、いかにも平明に、その日その日の生活のなかに詩の題材をとっている。
 今では、中学や高校の教科書にも採用されているので、啄木の歌を二つ一二つ、暗誦できる人も多い。彼こそ民衆詩人であり、近代日本に稀な国民歌人ともいえよう。
  
 頬につたふ
 なみだのごはず
 一握の砂を示しし人を忘れず
  
 たはむれに母を背負ひて
 そのあまり軽きに泣きて
 三歩あゆまず
  
 はたらけど
 はたらけど猶わが生活くらし楽にならざり
 ぢっと手を見る
  
 歌集『一握の砂』に収められた歌である。あまりにも有名である。これらの歌は、誰でも知っているであろう。啄木が、漱石、鴎外に匹敵する読者層をもっという説も、なるほどと頷けるのである。
2  十代後半の私も、一時期、啄木の歌とともに毎日を生きた。──嬉しいにつけ、哀しいにつけ、わが青春の悩みと歓びの胸の底には、いつも啄木の歌のリズムが鳴り響いていた。
 歌集では『一握の砂』のなかの、とくに気にいった歌をえらんで暗誦したものだ。『悲しき玩具』などは、ほぼ全篇を誦んずることができた。
 処女詩集『あこがれ』も、また『呼子と口笛』も、私には、いかにも親しいものであった。そのほか、啄木のものであれば、小説も、評論も、そして戦後に公刊された日記も──これは二十代になってからではあるが、すべて読んでいる。
  
 こころよき疲れなるかな
 息もつかず
 仕事をしたる後のこの疲れ
  
 前にも書いたように、当時の私は、西新橋の小さな印刷会社に勤めていた。むろん給料は安い。そのうえ、夜学にも通っていた。医師にも「二十六歳まではもつまい」と宣告された身体である。
 そんな時である。自宅に近い蒲田工業会の、ある親しい知人が、私をその事務員書記に紹介してくれた。──この蒲田工業会というのは、昭和二十一年の春に、蒲田周辺の中小企業を振興するために設立されたものである。──まだ微熱が続き、血痰も出るような状態だったが、書記の仕事なので、こんどは身体を労りながら働くことができた。
 私は冒頭に引いた啄木の歌が、無性に好きになった思わず、わが「読書ノート」に記したものである。
3  「わが天職は詩人なり」
 石川啄木は、生涯、定職をもたなかった。強いて言えば「わが天職は詩人なり」との気概をもっていたようだ。
 明治三十五年(一九〇二年)十月、文学をもって身を立てようとした彼は、盛岡中学を中退して、単身上京している。まだ、十六歳の少年である。在籍中に投書した一首が、初めて「明星」の十月号に載ったので、詩人として自信を得たのであろう。
  
  血に染めし歌をわが世のなごりにてさすらひここに野にさけぶ秋
  
 あこがれの東京──希望に胸をふくらませた啄木は、真っ先に新詩社を訪れた。「明星」の発行所である。
 当時、与謝野寛・晶子夫妻は、新詩社を通じて全国の青年子女に圧倒的なる人気を博していた。のちに鉄幹(与謝野寛)は、啄木との初対面の印象を記している。
 率直で快活で、上品で、敏慧びんけいで、明るい所のある気質と共に、豊麗な額、莞爾として光る優しい眼、少し気を負うて揚げた左の肩、全体に颯爽とした風采の少年であった。妻は今日でも「森鴎外先生と啄木さんの額の広く秀麗であることが其人の明敏を象徴している」と云って讃めるのである。
4  少年詩人啄木は、チャールス=ラムの『シェイクスピア物語』やバイロンの詩集を買い求め、トルストイの『我懺悔』や、アンデルセンの『即興詩人』などを読んで、文学修業の第一歩を踏みだしたという。
 だが、世間の風は冷たい。早くも病に倒れ、生活の糧を失った彼は、わずか三カ月あまりの東京生活を切りあげざるをえなかった。
 故郷の渋民村では、啄木は「ぶらり提灯」などと揮名されていたようだ。子どものころから「神童」ともてはやされ、親にも甘やかされて育てられた。まだ風雪に耐えられるだけの強靭さをもっていなかったのである。
 啄木の二度目の上京は、明治三十七年(一九〇四年)十月である。処女詩集出版のためであった。
 この年、彼は「明星」「帝国文学」「時代思潮」「太陽」「白百合」などに続々と詩作を発表し、二十歳まえの気鋭の新進として注目された。豊かな才能と、きらびやかなイメージの光輝く明星のごとき存在であった。
 彼は元旦の日記に書いている。
  
  あゝ新らしき年は来りぬ。永き放浪と、永き病愁と、永き苦悩の泪にうち沈みたる我精神はかくて希望の大海に舟出せんとするの時をえたり。
5  明治三十八年(一九〇五年)五月三日──小田島書房より詩集『あこがれ』が出版された。上田敏の序詩、与謝野寛の跋文を得て、扉には「此書を尾崎行雄氏に献じ併て遥に故郷の山河に捧ぐ)」とある。
 しかし運命の女神は、弱冠二十歳の天才詩人に対して、またも微笑むことはなかった。初版と再版とをあわせて一千部を刷ったが、ほとんど売れず、借金のみ残った。彼はふたたび東京を後にせざるをえない。
 またも帰郷した啄木は、明治三十九年(一九〇六年)四月から、母校渋民尋常小学校の代用教員になっている。月給は八円を貰ったという。
  
 余は日本一の代用教員である。(中略)
 余は遂に詩人だ、そして詩人のみが真の教育者である。
  
 このように日記に書いて、意気さかんなところを見せている。たとえ代用教員でも、われこそ日本一たらんとする。その言や善し、である。だが彼は、詩歌よりも創作を志し、小説『雲は天才である』に取りかかった。彼は自作について「これは欝勃うつぽつたる革命的精神のまだ渾沌とんとんとして青年の胸に渦巻いてるのを書くのだ」とも予告する。
 なるほど、主人公の代用教員は英雄気取りで、昂然と胸を張って歩く。当たるところ敵なしだ。校長と訓導を向こうにまわして、生徒に革命的精神を吹きこもうとする。作品そのものは未完成だが、ことには青年の進取の気概が溢れている。
6  死か然らずんば前進、唯この二つの外に路が無い。前進が戦闘たたかひだ。戦ふには元気が無くちゃかん。だから君は余り元気を落しては可けないよ。少なくとも君だけは生きて居て、そして最後まで、壮烈な最後を遂げるまで、戦って呉れ給へ。血と涙さへ涸れなければ、武器も不要、軍略も不要、赤裸々で堂々と戦ふのだ。この世を厭になっては其限それっきりだ、少なくとも君だけは厭世的な考へを起さんで呉れ給へ。
7  生命を燃焼した歌の美しさ
 さて、日本一の代用教員たらんとした啄木の決意も、一年と続かなかった。父一禎は家出し、ストライキを起こした啄木は免職──一家は離散した。
 明治四十年(一九〇七年)五月、二十一歳の啄木は、妹と一緒に北海道へ渡り、さいはての地に新天地を求めている。
  
 函館の青柳町こそかなしけれ
 友の恋歌
 矢ぐるまの花
  
 北海道時代の啄木は、画館、札幌、小樽、釧路と漂泊を重ね、職も商工会議所の臨時雇いを振りだしに、小学校の代用教員、地方新聞の記者などをして糊口をしのいだ。挙げ句の果ては、新聞社の内紛に巻きこまれ、暴力をふるわれたこともある。
  
 椅子をもて我を撃たむと身構えし
 かの友の酔ひも
 今は醒めつらむ
  
 そして明治四十一年(一九〇八年)四月──二十二歳の啄木は、家族を函館に残し、もはや決死の覚悟で海路東京をめざした。三度目の挑戦である。
 五月四日、生涯の友、金田一京助の好意によって、本郷は菊坂町の赤心館に寄寓することができた。一カ月あまりのうちに五つの作品──「菊池君」「病院の窓」「母」「天鷲絨ビロード」「二筋の血」を、あわせて三百枚以上も書きあげる。
 しかし、自信をもって書いた小説は、ただの一篇も売れなかった。当時の代表的な総合雑誌「太陽」に掲載されるのを期待していた作品も、六月二十七日にきた長谷川天渓の手紙によってみると、断念せざるをえなかった。
 啄木は、もう生きる望みを失ったのであろうか。──その日の日記に書いている。
 ああ、死なうか、田舎にかくれようか、はたまたモツト苦闘をつづけようか、? この夜の思ひはこれであった。何日になったら自分は、心安く其日一日を送ることが出来るであらう。安き一日!?
8  死への衝動に落ちこんでいた啄木を救ったのは、かつて愛した歌作である。彼は六月二十三日の夜十二時から暁までに五十五首、翌二十四日の午前に五十首、さらに二十五日の夜二時までに百四十一首と、あわせて二百四十六首もの歌を、立て続けに作った。
  
 東海の小島の磯の白砂に
 われ泣きぬれて
 蟹とたはむる
  
 のちに『一握の砂』の劈頭へきとうに据えられた、この歌は、そのときにできたものである。生命を最高に燃焼し、昇華された歌の美しさが輝いている。啄木は「おれはいのちを愛するから歌を作る」と述べているが、まさに彼は歌作によって生きかえった。
 啄木は晩年──といっても、まだ二十四、五歳の青年であるが、東京朝日新聞の校正係に職を得て、月給二十五円を貰うようになった。明治四十三年(一九一〇年)九月には、新たに設けられた「朝日歌壇」の選者にもなっている。
9  おれが若しこの新聞の主筆ならば、
 いろいろの事!
  
 この歌は『悲しき玩具』に収められている。青年啄木の望みは高い。だが、脚下の生活は依然として苦しかった。
 父母妻子を本郷弓町の理髪店二階の下宿に迎えると、啄木一家は忽ち生活に窮した。記念すべき歌集『一握の砂』の稿料も、生まれて間もなく死んだ長男の薬餌となって消えた。
  
 やや遠きものに思ひし
 テロリストの悲しき心も──
 近づく日のあり
  
 これも『悲しき玩具』にある。かつて「わが抱く思想はすべて金なきに因するごとし」(『一握の砂』)と歌った彼は、いよいよ生活に困窮すると、徐々に、やがて性急にも社会主義思想に傾斜する。とくに明治四十三年にはじまった幸徳秋水らの事件(いわゆる大逆事件)には、強い衝撃を受け、無政府主義者の心情にも共鳴していったようだ。
  
 寝つつ読む本の重さに
  つかれたる
 手を休めては、物を思へり。
  
 母親の発病に続いて、妻の節子も、そして啄木も、家族三人が枕を並べた。薬を買う金もない。衣類も本も売った。その日の食事にさえ事欠いた。──一家の全滅、この世の敗北と地獄である。
 死の床についた啄木にとって、もはや歌だけが生きる支えであった彼は、深淵に落ちこむ絶望の心をみずから汲みあげて、いのちの一秒を歌に刻んだ。その必死の発条の歌が、遥かに半世紀以上もの時代を隔ててなお、今の若い人びとの共感を呼ぶのであろうか。
 明治も終わりのころの四月十三日──わが啄木石川一は、一身を燃焼させて不帰の客となった。天才詩人啄木の生涯をいろどる光と影は、栄光と悲惨の交錯する時代の一断面を、はからずも浮き彫りにしているようだ。

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