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日蓮大聖人・池田大作

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宇宙生命との対話 徳冨健次郎『自然と人生』

「若き日の読書」「続・若き日の読書」(池田大作全集第23巻)

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5  家は十坪に過ぎず、庭はただ三坪。誰か言う、狭くして且ろうなりと。家陋なりといえども、膝を容るべく、庭狭きも碧空仰ぐべく、歩して永遠を思うに足る。
 神の月日は此処にも照れば、四季も来り見舞い、風、雨、雪、さんかわるがわる到りて興浅からず。蝶児来りて舞ぃ、蝉来りて鳴き、小鳥来り遊び、秋蛩しゅうきょうまた吟ず。静かに観ずれば、宇宙の富はほとんど三坪の庭に溢るるを覚ゆるなり。
 わが「読書ノート」に写し取られた一節である。これも、手元にある潮文庫版の『自然と人生』で探してみると、同書一一九頁に「吾が家の富」と題して「写生帖」の六番目に掲げられている。
 自然と人生の関係を、健次郎は、まったく新鮮な眼をもって凝視する。四季折々の自然の変化を、静かに観ずるならば──わずか三坪の庭にも「宇宙の富」が溢れていると見る。そこには、雄大なる宇宙との語らいの交響曲シンフォニーがあり、生命をいとおしむ真摯な感情の詩が響いているようだ。
 ここで想起されるのは、さきにも触れた国木田独歩と、徳冨健次郎の自然観についてである。
 「山林に自由存す」と謡った独歩は、自然や宇宙の真理を探究しようというのではない。彼の代表作の一つである『牛肉と馬鈴薯ばれいしょ』に見られるように、独歩は宇宙生命の不思議に驚きたいという感情をもつ。才気換発なる彼は、その想源をカーライルから得て、宇宙のありのままの実存に、心底から打たれたいというのである。
 対するに蘆花は、自然を素直に写生していくうちに「宇宙の富」を発見し、それを天の恵みとして受けとめる。『自然と人生』を公刊するにあたり、著者みずから書いた広告文には、次のようにある。
 「題して自然と人生と云ふも、地人の関係を科学的に論ずるにあらず、畢竟著者が眼に見耳に聞き心に感じ手に従って直写したる自然及人生の写生帖の其幾葉を公にしたるものゝみ」と。
 おそらく健次郎は、このころロシアの文豪トルストイの自然観、人生観、そして宇宙観の影響を受けていたにちがいない。というのも、彼は二十一歳にして兄猪一郎の主宰する民友社に入社し、そこで「国民新聞」に海外事情の紹介記事を書いていたことがある。そのとき、トルストイの『戦争と平和』を英訳で読んで以来、彼はトルストイへの傾倒を深めていったからである。
 明治三十年(一八九七年)一月に逗子へ転居してからは、民友社の企画した十二文豪シリーズの一篇として『トルストイ』を完成させた。いうまでもなく『自然と人生』は、その直後の仕事である。
 ちなみに健次郎は、明治三十九年(一九〇六年)七月、若き日の憧憬の人であったトルストイを、ヤスナヤ・ポリヤナに訪ねている。すでに肉食を断ち、菜食主義者となっていた健次郎は、その人道主義の生き方には共鳴したが、日露戦争に関しては愛国心による故か意見が対立し、大激論を交わしたらしい。ただトルストイが、健次郎に向かって「農業に生きよ」と言った忠告には耳を傾けている。帰国後、彼は武蔵野も奥まった北多摩郡千歳村(今の世田谷・蘆花恒春園)に農園を開拓し、半農生活を送っているからである。
6  国破れ、山河のみ残された戦後──こうして蘆花の『自然と人生』は、私の愛読書の一つとなった。そして後年、創価学会の初代会長であった牧口常三郎先生の『人生地理学』を読み、ある不思議な、めぐりあわせのような思いを抱いたものである。
 それは、いずれも二十代から三十代にかけての明治の青年──独歩や健次郎が自然を謳歌し、宇宙生命との対話をなしつつあるとき、ちょうど三十歳になったばかりの若き牧口常三郎も、いわゆる「地人関係」についての二千枚におよぶ草稿を書きためていたということである。
 牧口青年が、その原稿を柳行李いっぱいに詰めて津軽海峡を渡り、はるばる上京して来たのは、明治三十四年(一九〇一年)の春であった。やがて地理学者、志賀重昂の推輓すいばんを得て、大著『人生地理学』を上梓したのは、明治三十六年(一九〇三年)十月、奇しくも著者三十二歳のときである。
 「地を離れて人なし。人を離れて事なし。人事を論ぜんとせば、まず地理を究めよ」とは、同書に引かれた吉田松陰の言葉である。

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