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宇宙生命との対話 徳冨健次郎『自然と人生』

「若き日の読書」「続・若き日の読書」(池田大作全集第23巻)

前後
1  国破れて山河在り
 城春にして草木深し
 時に感じては花にも涙を濺ぎ
 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす
 烽火 三月に連なり
 家書 万金に抵る
 白頭 掻けば更に短く
 揮べて簪に勝えざらんと欲す
 これは、あまりにも有名な、盛唐の詩人杜甫の「春望」と題した詩である。至徳二年(七五七年)、杜甫四十六歳の作とある。二年まえに起きた「安禄山の乱」によって、玄宗皇帝は長安を逐われ、かの楊貴妃が殺された翌年のことだ。
 さしもの旭日の隆盛をきわめていた大唐帝国の都も、いまや打ち続く戦乱によって廃墟と化していった。詩人の心は、悠久の自然に比するに、人間の矮小と人世の哀しさを歌ったものにちがいない。
2  日本の歴史はじまって以来の惨憺たる敗戦──あけて昭和二十一年(一九四六年)の春がめぐってくると、人びとは誰いうとなく杜甫の詩を口ずさんだものだ。
 もはや取り返しのつかない幾多の尊い犠牲を払って、ようやく日本民族は、千二百年も昔の詩一篇を、心底から実感として受けとめたのであろう。
 たしかに、国破れた日本は、美しい山河のほかには、なんの物資もなかった。来る日も来る日も飢餓の毎日である。痩せ細った人びとは、外食券食堂の前に列をなし、一椀の雑炊ありついた。夕刻ともなると、パン屋のまわりに長蛇の列が続き、焼きたてのコッペパン一個を、食券と引き換えにもらうのである。
 今の若い人たちには、とうてい想像さえつかないかもしれない。昭和二十一年五月、戦後第一回の復活メーデーには、五十万もの労働者が宮城前広場──当時はまだ皇居前広場のことを、そう呼んでいる──に結集し、食糧問題の解決を訴えた。五月十二日には、こんどは世田谷区民による「米よこせ大会」が宮城前へデモを敢行し、皇居の、なかに雪崩れこんだりしている。
3  当時、十八歳になったばかりの私が、蘆花徳富健次郎の『自然と人生』を読んだのは、そのころのことである。
 人びとは、あすの食糧さえ手に入れる当でもないのに、むつかしい哲学書が飛ぶように売れた。神田の岩波書店から西田幾多郎の本が再刊されるや、朝早くから店頭に数百メートルもの行列ができたという話も、戦後を語る風物の一つとなっている。
 神田に出ることの多かった私も、一時は西田哲学にひかれたものである。また当時、敗戦の年の九月に哲学者三木清が獄中死を遂げたこともあって、彼の著作はベストセラーになった。私も『哲学ノート』や『人生論ノート』、それに『読書と人生』などを買って読んだ記憶がある。
 たまたま三木の『読書と人生』を読んでいると、そこに収められた「読書遍歴」という文章の、なかに、蘆花の『自然と人生』が紹介されていた。
 三木清は、龍野中学に在学中、国語教師から副読本として『自然と人生』を与えられ、たちまち熱烈なる蘆花ファンになってしまった、という。──「私は草花が好きになり、この本のいくつかの文章は暗誦することができた」と書いている。
 戦後生まれの青年には、もはや蘆花のものは読まれないようだが、私どもが子どものころは、まだ蘆花といえば『不如帰ほととぎす』、ホトトギスといえば健次郎と、すぐ頭に浮かんできた。「武男」と「浪子」の名は、あまねく全国に知れわたり、子どもたちは手鞠をつきながら、二人の悲恋を歌ったものだ。
 その蘆花の『自然と人生』は、明治三十三年(一九〇〇年)八月、兄猪一郎(徳冨蘇峰)の経営する民友社から出版された。奥付を見ると、定価金貳拾五銭とある。おなじ年の一月に民友社から出版された『不如帰』とともに、当時のベストセラーになったという。著者の健次郎は、まだ三十二歳の若さであった。
4  色彩感覚豊かな文字の絵の具
 心あらん人に見せたきは此頃の富士の曙。
 午前六時過ぎ、試みに逗子の浜に立って望め。眼前には水蒸気渦まく相模灘を見ん。灘の果てには、水平線に沿うてほの闇き藍色を見ん。もしその北端に同じ藍色の富士を見ずば、諸君おそらくは足柄、箱根、伊豆の連山のその藍色一抹の中に潜むを知らざるべし。
 海も山も未だ睡れるなり。
 ただ一抹、薔薇色しょうびいろの光あり。富士のいただき弓杖ゆんずえばかりにして、横に棚引く。寒を忍びて、しばらく立ちて見よ。諸君はその薔薇色の光の、一秒一秒富士の巓に向って這い下るを認むべし。丈、五尺、三尺、尺、而して寸。
 富士は睡りより醒めんとすなり。
 今醒めぬ。見よ、巓の東の一角、薔薇色になりしを。
 雄壮なる大日蓮華山の朝ぼらけである。湘南逗子に住んでいた健次郎は、朝六時まえに起きて渚に立ち、刻々と変わりゆく富士の朝焼けを、色彩感覚ゆたかに、文字の絵の具をもって写生した。
 「此頃の富士の曙」と題した右の一篇は、明治三十一年(一八九八年)一月二十五日の「国民新聞」に掲載され、たいへんな評判を呼んだようだ。
 のちに未完の大河小説『富士』を書いたときの回想によれば、おなじころ『今の武蔵野』(のちに『武蔵野』と改題)を発表した国木田独歩が、さっそく眼にとめて絶賛したという。健次郎は「自然の日記を書いたら面白かろう」と独歩が言ったという話を、人づてに聞いている。その独歩から賞賛を得たとすれば、おそらく健次郎は内心、わが意を得た思いであったにちがいない。
 こうして、翌明治三十二年(一八九九年)の元日から大晦日まで、彼は一日も欠かさずに自然の見聞を書きとめた。『自然と人生』のなかの「湘南雑筆」は、そのうちの四十七篇をえらんだものという。かつて独歩が新婚生活を送ったこともある逗子の柳屋が、若き健次郎の執筆の仕事場ともなった。
5  家は十坪に過ぎず、庭はただ三坪。誰か言う、狭くして且ろうなりと。家陋なりといえども、膝を容るべく、庭狭きも碧空仰ぐべく、歩して永遠を思うに足る。
 神の月日は此処にも照れば、四季も来り見舞い、風、雨、雪、さんかわるがわる到りて興浅からず。蝶児来りて舞ぃ、蝉来りて鳴き、小鳥来り遊び、秋蛩しゅうきょうまた吟ず。静かに観ずれば、宇宙の富はほとんど三坪の庭に溢るるを覚ゆるなり。
 わが「読書ノート」に写し取られた一節である。これも、手元にある潮文庫版の『自然と人生』で探してみると、同書一一九頁に「吾が家の富」と題して「写生帖」の六番目に掲げられている。
 自然と人生の関係を、健次郎は、まったく新鮮な眼をもって凝視する。四季折々の自然の変化を、静かに観ずるならば──わずか三坪の庭にも「宇宙の富」が溢れていると見る。そこには、雄大なる宇宙との語らいの交響曲シンフォニーがあり、生命をいとおしむ真摯な感情の詩が響いているようだ。
 ここで想起されるのは、さきにも触れた国木田独歩と、徳冨健次郎の自然観についてである。
 「山林に自由存す」と謡った独歩は、自然や宇宙の真理を探究しようというのではない。彼の代表作の一つである『牛肉と馬鈴薯ばれいしょ』に見られるように、独歩は宇宙生命の不思議に驚きたいという感情をもつ。才気換発なる彼は、その想源をカーライルから得て、宇宙のありのままの実存に、心底から打たれたいというのである。
 対するに蘆花は、自然を素直に写生していくうちに「宇宙の富」を発見し、それを天の恵みとして受けとめる。『自然と人生』を公刊するにあたり、著者みずから書いた広告文には、次のようにある。
 「題して自然と人生と云ふも、地人の関係を科学的に論ずるにあらず、畢竟著者が眼に見耳に聞き心に感じ手に従って直写したる自然及人生の写生帖の其幾葉を公にしたるものゝみ」と。
 おそらく健次郎は、このころロシアの文豪トルストイの自然観、人生観、そして宇宙観の影響を受けていたにちがいない。というのも、彼は二十一歳にして兄猪一郎の主宰する民友社に入社し、そこで「国民新聞」に海外事情の紹介記事を書いていたことがある。そのとき、トルストイの『戦争と平和』を英訳で読んで以来、彼はトルストイへの傾倒を深めていったからである。
 明治三十年(一八九七年)一月に逗子へ転居してからは、民友社の企画した十二文豪シリーズの一篇として『トルストイ』を完成させた。いうまでもなく『自然と人生』は、その直後の仕事である。
 ちなみに健次郎は、明治三十九年(一九〇六年)七月、若き日の憧憬の人であったトルストイを、ヤスナヤ・ポリヤナに訪ねている。すでに肉食を断ち、菜食主義者となっていた健次郎は、その人道主義の生き方には共鳴したが、日露戦争に関しては愛国心による故か意見が対立し、大激論を交わしたらしい。ただトルストイが、健次郎に向かって「農業に生きよ」と言った忠告には耳を傾けている。帰国後、彼は武蔵野も奥まった北多摩郡千歳村(今の世田谷・蘆花恒春園)に農園を開拓し、半農生活を送っているからである。
6  国破れ、山河のみ残された戦後──こうして蘆花の『自然と人生』は、私の愛読書の一つとなった。そして後年、創価学会の初代会長であった牧口常三郎先生の『人生地理学』を読み、ある不思議な、めぐりあわせのような思いを抱いたものである。
 それは、いずれも二十代から三十代にかけての明治の青年──独歩や健次郎が自然を謳歌し、宇宙生命との対話をなしつつあるとき、ちょうど三十歳になったばかりの若き牧口常三郎も、いわゆる「地人関係」についての二千枚におよぶ草稿を書きためていたということである。
 牧口青年が、その原稿を柳行李いっぱいに詰めて津軽海峡を渡り、はるばる上京して来たのは、明治三十四年(一九〇一年)の春であった。やがて地理学者、志賀重昂の推輓すいばんを得て、大著『人生地理学』を上梓したのは、明治三十六年(一九〇三年)十月、奇しくも著者三十二歳のときである。
 「地を離れて人なし。人を離れて事なし。人事を論ぜんとせば、まず地理を究めよ」とは、同書に引かれた吉田松陰の言葉である。

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