Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

少壮時代の生き方 国木田独歩『欺かざるの記』

「若き日の読書」「続・若き日の読書」(池田大作全集第23巻)

前後
2  此頃「少壮」てふ事に付て多少の思想を得たり、大に考究を積んで見んと欲する也。「少壮」々々、思想に於て、感情に於て人間一代の伝記生命の絶頂なり。希望あり、回顧あり、煩悶あり、夢想あり、喜悦あり、悲愁あり、忽ち歌ひ、忽ち泣き、或る者は終に自殺を企て、或る者は遂に堕落の谷底に陥いる、大人、哲人、聖賢、英雄等の少壮時代を見よ、カーライルは如何、ルーテルは如何、而してなんじ自ら如何、社会、宇宙、人間、生命、死、花、月、星、雨、悉く其の新面目を来たし、新解釈を求め来る、少壮時代は混沌時代也、光明と暗黒の戦ひ也、溶解時代也、大人も聖賢も、大宗教も大哲学も、大詩も大事業も、悉く此時代に定まる、此時代は溶解されたる金属の如し、如何様にも鍛はれ如何様にも鋳らるゝ也。一時一分尤も大切なる時聞にして、時を経過し時を誤らば折角熱騰せる金鉄も遂に冷却して、又如何ともし難きに帰す。少壮時代とは十八九歳より廿四五歳迄を吾は指す也。人間必ずしも此時代に完備成熟せんや、只だ大萌芽は此時代に定まる。
3  これは明治の詩人、独歩国木田哲夫の日記として歿後公刊された『欺かざるの記』の一節である。当時、十八、九歳であった私は、文字どおり独歩の言う「少壮時代」の入り口に立っていたのであろう。との一言一句が、すべて我がことのように思われた。
 おそらく長い引用も苦にならず、一気に書き写したにちがいない。われながら一字一画が躍動し、ノートには、もっと先まで筆写されている。
4  十八九歳頃までは大概の人、只だ少年少児時代の先入思想主となりて其のまゝ茲に到る、されど茲に到れば社会生活の門は前程数歩の中にあり、人世人情の神秘漸くに解せられ感情の焔は其の極度に達し、想像の力は其の縦横の境に達し、先入の信仰は破れて、良心の大信仰は容易に来らず、所謂心緒の乱れて糸の如くなり勝の時代なり。
 此の少壮の時代に十分の鍛練なくんば、何時の間にか宇宙人間としてよりも、社会的人間として変化発育して進む可し。
5  私が手にしたのは、たしか改造社版の二巻本であったはずだが、いま手元にある潮文庫版の塩田良平編『欺かざるの記──上』によってみると、右の文章は明治二十六年(一八九三年)三月十日の条にあった。
 時に独歩は二十三歳──戸籍上では二十一歳であるが──この年の二月に、在野第一党の機関紙を出す自由社の記者となっている。しかし、運命というものは、何たる皮肉であろう──独歩の入社が決定した十三日に「自由」は発行停止を命じられた。自由の天使、ジャーナリスト独歩にとっては、波澗にみちた社会への船出である。
 そのころの独歩は、人生の選択の岐路に立たされていた。新聞記者として立つべきか、政界に躍りでるか、あるいは教育者となるか、さらには宗教家となって道を説くか──大いに悩んだらしい。彼は明治二十六年二月四日に起稿した『欺かざるの記』の副題に、みずから「事実・感情・思想史」と誌して、悩み多き青春の日々の思想・感情を、偽らずに記録している。
 「題して『欺かざるの記』といふ。熱罵あり、冷笑あり、同情の涙あり、事実あり、空想あり、誇りあり、恥辱あり、懺悔の血涙あり」と。
6  今日では、樋口一葉の『一葉日記』と並んで、明治のこの時代を代表する二大日記文学とまで称賛される独歩の日記は、しかし一葉と違って、最初から公開を意図したものであったようだ。だが、内心の記録として、ありのままを書くとしても、ロマンチックな青春の詩魂は、ときに筆も抑えがたく、激した感情を吐露せずにいられなかったにちがいない。田山花袋や斎藤弔花のような親友たちには、つねづね話していたようであるが、公表によって他の人びとに累をおよぼすことを恐れていたのであろう。死の床に就いた晩年にいたるまで、独歩は『欺かざるの記』を肌身はなすことなく、ついに生前には一部を除いて発表しなかったのである。
7  明治の青年の精神史
 私が『欺かざるの記』を愛読したのは、他にも理由がある。戦時中、私は少しでも家計の助けになればと思って、新聞配達もしたが、そのころから、いつか新聞記者か雑誌記者になろうとする夢を抱いていた。あたかも明治の開明期に、苦労してジャーナリストを志した独歩の若き雄姿のなかに、私は知らずして少年のころからの夢を投影して読んでいたのかもしれない。
 独歩は明治二十七年(一八九四年)十月、日清戦争の最中に軍艦千代田に乗り込み、従軍記者として中国へ渡った。そして、すぐれた戦事通信を「国民新聞」紙上に発表している。やがて文筆家としての国木田哲夫の名声は、はやくも一部の読者に知られるようになった。
 しかし彼は、いわゆる好戦的な国粋主義者ではなかった。大同江に上陸して、みずから掠奪をはたらいた行為に深く反省し、また艦上で海軍士官らと衝突、彼らに一片の思想も自己反省の哲学もみられないのを知ると、やがて軍人嫌いになっていく。
 そうした経緯を『欺かざるの記』によって読みとった私は、この明治の青年の精神史に、いよいよ愛着を覚えるようになっていった。
 なるほど独歩の読書領域は、きわめて広い。傾向は異なるが、たとえば同時代の森鴎外、夏目漱石、そして高山樗牛といった文人と比較しても、決して遜色ないほどの読書家である。
 さきに引用した文にもみられるように、カーライルであれば『衣裳哲学サーターリザータス』や『英雄及び英雄崇拝』は、独歩の終生の人生観、世界観、宇宙観を形成した。ワーズワースやバイロンの詩集は座右の書でもあった。これら泰西詩人の詩は、時に数奇な運命に翻弄された独歩の魂を慰めてくれたにちがいない。
 さらに若き日の独歩は、古今東西の英雄、偉人、宗教者の伝記を好んで読んだ。たとえば『欺かざるの記』によると、エマーソンの『代表人論』や『英雄論』『詩人論』、ショーぺンハウェルの伝記、吉田松陰伝、それにカーライルの伝記などを読み、みずからも『フランクリンの少壮時代』『リンコルン』(リンカーン)をはじめ、吉田松陰や横井小楠について一文を草してもいる。彼は、それによって先人の少壮時代の生き方に学ぼうとしたのであろう。
 のちに文学者として立った、独歩の文学的素養もまた、彼の少壮時代に得た該博なる読書体験に支えられていることは、いうまでもない。『平家物語』『源平盛衰記』『竹取物語』といった日本文学の古典、井原西鶴の町人物、近松門左衛門の世話物、ゲーテの『ファウスト』、トルストイの『アンナ・カレニナ』、ユゴーの『レ・ミゼラブル』、そしてシェイクスピア、ツルゲーネフの作品など、挙げればきりがない。
 こうして『欺かざるの記』は、明治の一青年の誠実な自己観照の記録でもあるが、他面、独歩にとっての「読書ノート」であり、かつまた交友録でもあった。
 徳冨蘇峰、矢野龍渓、内村鑑三田山花袋、柳田国男といった錚々たる面々と、ときに客気にあふれた激論を交わし、いかにも青年らしい交友を重ねている。そこには、極東の日本の将来を担って立つ気概が横溢していた。
8  私もまた昭和二十年の廃墟のなかに、新生日本列島の建設の槌音を聞きながら、わが少壮時代を懸命に過ごした。
 独歩の『欺かざるの記』に出てくる読書リストは、ある意味で私の青春の読書の道案内ともなった。そして、ザラ紙の「読書ノート」は、たちまちにして最後まで埋めつくされてしまい、その後、やがて「日記」をつけ始めたのも、独歩に影響されてのことであったかもしれない。

1
2