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日蓮大聖人・池田大作

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平和の波を  

1975.3.4 「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第…

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1  最近は舞台が世界に広がり、海外に出ることが多い。昭和四十九年(一九七四年)は一月香港、三、四月北米、中南米、五月の中国、そして九月ソ連、十二月は再び中国を訪れた。また五十年一月にはアメリカを訪問した。これまでの旅で、私はとくに教育交流を目的に、ケンブリッジ、オックスフォード、パリ大学をはじめ、南米最古のペルー・サンマルコス、モスクワ、北京、カリフォルニア州立大学バークレー校、ロサンゼルス校、香港の中文大学などを公式訪問してきた。
 私が世界の各大学への訪問を思い立ったのは、歴史の淵に立つ現代において、いまの世代が後につづく世代にはたしうるものは教育の興隆をおいてない、との私なりの信念からである。教育は歴史展開の地下水脈ともいえよう。各大学での会談では、かねがね提唱してきた仮称「教育国連」や「世界学生会議」「世界大学総長会議」の構想が、時代の要請であることを確認できた。
 五十年一月、ワルトハイム国連事務総長と会談したさい、同氏は「世界平和へのガンは?」との私の問いに、即座に「不信感」と答えていた。まったく同感であるが、人類の前途に立ち向かうこの途方もなく大きな壁を乗り越える作業は、つきつめれば一個の人間対人間の交流に帰すことは、明白であろう。
 この相互交流には政治、経済といった次元での交流も必要だが、それらはともすると利害の論理で動きやすい。そこで文化、教育次元での交流が、より幅広く行われてこそ、民衆間の相互理解と友好を深めることができるのである。
 この信念から私は各国を訪ね、多くの人びとと語り合い、人生の喜怒哀楽のなかに、人間として未来へ生きることの共感を分かち合ってきた。その交歓のなかから、互いに平和へ進む意思をも固め合ったのである。また私の胸中を理解してくれたのであろうか、各国の首脳とも会談する機会をえた。
 それらの席上、私は文化、教育交流の重要性を、まず訴えたつもりである。ソ連のコスイギン首相は「平和に関する、また人間のためのよりよき生活を望む理想は、われわれとまったく同じである」と語っていた。周恩来首相は私の心を射るようなまなざしで「共通の願望へともに努力していこう」と言われ、キッシンジャー米国務長官からは「今後も友人として意見を交換していきたい」とあった。
 もとより私は平凡な一民間人にすぎないし、政治的な行動を意図したものではないが、人間が生き延びるために、平和を求めて行動すること自体、すでに仏法の道にはいっており、そのための人間としての誠意ある行動は、仏法者として当然とるべき姿勢であろう。宗教とは人間のためにあり、宗教のために人間があるのではない。
 私はまた、これまで多くの識者と文明の未来を話し合ってきた。トインビー博士、マルロー氏、故クーデンホーフ=カレルギー伯、ショーロホフ氏など、それぞれ表現こそちがえ、現代が歴史の転換期であることを見つめての、人間行動の緊要なことを指摘していた。ショーロホフ氏は「われわれはみな幸福の鍛冶屋である」と言い、運命変革への努力を語った。マルロー氏は新しい人間の理想像を追求していた。カレルギー伯は、文明の西と東の融合・調和を語った。それにしても私の耳元にいまもトインビー博士から聞いたモットーが離れない。それは「さあ! 仕事をつづけよう」である。
 五十年一月の終わり、私はグアムで開かれた第一回世界平和会議に臨んだ。会議には世界五十一カ国、地域の代表メンバーが集まった。そこで私は創価学会インタナショナルの会長に推された。いまだ、平和への道は遠い。しかし、かすかではあるが、はるかに“平和連峰”の山脈は見え始めている。あいさつで私は、自分自身が花を咲かせようというのではなく、全世界に“平和という妙法の種”をまいて尊い一生を終わりたい、と呼びかけた。これは私のいつわらざる心境である。 ──ともあれ、これからが私の人間革命の履歴書と思っている。私は背伸びをしたり、虚栄を張ったりすることなく、ありのままの人間として生きてきた。人さまざまの軌跡をもった履歴書があると思うが、私は、私の平凡にして自分らしい履歴書を、この世で仕上げていく以外にないと思っている。

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