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日蓮大聖人・池田大作

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海外への旅  

1975.3.3 「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第…

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1  私が初めて海外の地を訪ねたのは、昭和三十五年(一九六〇年)の秋であった。早いもので、いまからもう十五年前のことである。海外旅行が現在ほど便利になっておらず、外貨の持ち出しもたいへんなころであった。ちょうどその年の五月に会長に就任、五カ月後の十月二日、アメリカなど九都市への旅に出発した。
 主な目的は、仏法がようやく小人数とはいえ世界へと広がりを見せ、海外メンバーが各地で信仰するようになった折でもあり、その人たちへの激励であった。当時、仕事や留学などで渡航する人がいると、私はかならず応援に行ってあげる旨を約して励ましていたものである。それと、時代の流れというのは“世界”というグローバルな視座に立っての思考と行動をいよいよ要請することになろうと、私自身ひそかに痛感していたことによる。ともかく均一な文化圏の島国・日本を出て、“世界”というものを考えてみようと思ったからである。
 最初にハワイに着いた。ところが出迎えにきてくれるはずだったジョージ・M・ウィリアムス氏がきていない。彼は当時は帰化する前で、旧名は貞永昌靖氏、留学のため渡米した青年であった。
 出迎えていないところをみると、どうやら連絡の手違いらしい。ともかくホテルにと、すでに取り壊しが決まり、半分ほど解体されていた、ある小さなホテルに落ち着いた。翌朝、ウィリアムス氏がホテルをやっと探し出し、駆けつけてきてくれて、ことなきをえた。旅にそれほど慣れていなかった当時の、いまは懐かしい思い出である。
 五十年の新春早々から私はアメリカを訪れた。ニューヨークで国連を訪ねワルトハイム事務総長と会談、ワシントンではキッシンジャー国務長官を表敬訪問し会談したほか、議会図書館に一万冊の贈書を行い、コロンビア、シカゴの両大学と教育交流に当たった。私はメンバーの諸行事に参加したが、シカゴを十五年ぶりに訪れた。
 十五年前、このミシガン湖畔の街に着いたとき、出迎えてくれたメンバーは十六人であった。ケンタッキーやニューオーリンズからやってきた友を含めてである。十五年の歳月をへて、このシカゴは七千人のメンバーを数えるまでになり、コミュニティー・センター(会館)のオープニングも行われた。すべての運動にとって同じであろうが、先駆者たちには想像を超える苦闘と呻吟があるものである。このシカゴで健在の親しき友と再会し、私は深い感慨を禁じえなかった。
 三十五年に最初の旅をしてから、私の海外への旅はこれまで二十二回にわたり、訪問国は三十六カ国になった。とくに二回目の旅では総本山の日達上人を案内し、インドへ赴いた。インドは周知のとおり仏教発祥の地であり、仏教が人類の精神に与えた影響は計り知れないものがある。もの悲しい落日を迎えた現代文明の危機の回避のため、東洋の英知に注視の目が集まっているのも、時のしからしむるところであろう。
 私たちは釈尊が悟達の時を刻んだブッダガヤーを訪ね、仏教消長の歴史に思いを馳せながら法華経の方便品、寿量品を誦し、記念の願文を境内に埋蔵した。木々のあいだからもれる光に、私は新生の船出を思った。
 幾多の障害を超えアジアの各地に及んだ仏教は、歴史的に文化の興隆をもたらしたが、その仏教がいま、三千年の流れのなかで新たな生命力をえて人類の精神に新鮮な蘇生の光を与えようとしている。いまでは事実、世界の八十数カ国に仏法信仰の友がいる。仏法は世界宗教としての普遍性をはらみつつ、グローバルな平和創出の共通の精神基盤をつくりつつ、ナショナリズムの良さを生かし、止揚もしつつ、深さと広がりと動きをもって、その国、その地の繁栄のために貢献し始めている。この稿を書いている夜半にも、人間賛歌の“魂の曲”を歌いつつ活動する多くのメンバーが、地球のどこにもいるにちがいない。
 四十九年十月、私は、海外での活動、小説『人間革命』をはじめとする執筆、全国各地への激励、学会を訪れる来賓の応対等で多忙なことから、学会の責任役員会の議決と総務会議の了承をへて、三十五年五月から私が務めてきた代表役員の職責を北条浩理事長に代わってもらった。国内のことは私の信頼する北条理事長に統括してもらうことにして、このことを本部幹部会で発表した。私は世界平和をめざす仏法理念の流布のために、思う存分、いよいよの活動を期している。

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