Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

正本堂  

1975.3.2 「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第…

前後
 
1  昨年暮れ、北京を訪れたさい、中日友好協会の林麗ウン理事と再会した。林さんは「関西文化祭の映画を拝見しましたよ。若者たちの目がとてもきれいですね」と感想を言われていた。
 これは昭和四十一年(一九六六年)九月、兵庫県・西宮の甲子園球場で開かれた雨中の「関西文化祭」のことである。断続的に降る雨のなか、出場した若人たちが泥まみれになりながらも、女子のダンスに、男子のマスゲームにと団結の美を繰り広げた敢闘精神は、八万の観衆の胸を打った。
 当日は、台風の余波で、降ったりやんだりの雨模様に、決行するかしないか、判断に苦しむ状況であった。多くの人びとの意見を聞き、断を下したのは私である。雨のなか、泥のなか、危険も考え、大いに心配であった。しかし、この日をめざして、仕事の余暇を見つけては練習をつづけてきた関西各地の数千の若人たちの熱情と息吹を、感ぜざるをえなかったのである。
 創価学会の運動に関心を寄せ、レンズの鋭い目をとおしてその姿を見てこられた写真家の三木淳氏も、この日撮った一カットを「私の推すこの一葉の写真」として推薦されていた。その感動を「私は両眼から涙がわき出るのを禁ずることができなかった。新生日本の若人たちの真摯な姿は、私の心を激しく揺るがせた」と記されている。たしかに、この雨のなかの関西文化祭におけるひたぶるな青春の情熱は、創価学会にみなぎる生命のしぶきであった。新生中国の建設に心を砕く林さんらの心を打ったのも、このひたむきな姿勢とエネルギーであったにちがいない。
 四十五年には、いわゆる言論問題が起きた。じつは、その前年の暮れ、かなり強行スケジュールの旅をし、無理をしたこともあり、私は四十度を超える熱を出し、従来の結核と肺炎が結びついたかたちで、体力を衰滅させてしまっていた。その以前から、なるべく創価学会の運営面については、副会長制を敷いていっさいを任せ、私は、執筆活動などに打ち込みたいと念願していた。四十五年一月、この件を総務会にはかり、副会長制が実施されることになったわけである。
 私が一歩引いたときに、きわめて予想外のところから事件が起きていた。それが言論問題である。
 私は、事の真相が初めわからなかった。よくよくその本源を追求していったときに、これは創価学会の体質にかかわることであることを知った。そのことについては、四十年ごろから考え始めていて、なんとかしなくてはいけないと思っていたところであった。それが、意外なところから噴出したわけである。
 四十五年の四月ぐらいまで、まったく熱が下がることはなかった。しかし、これは私が解決しなくてはいけないと思った。私は五月三日の第三十三回本部総会の席上、創価学会と公明党の政教分離の徹底、量より質への転換を示す数々の指針を示した。これが契機となって、創価学会は、強固な創価学会より強靭な創価学会へ変転していったことは、まぎれもない事実である。
 四十七年十月、八百万余の人びとの熱誠によって富士の麓に正本堂が生まれた。日の光がほほえみ、そよ風は老杉の巨木を駆け抜け、澄みきった青空に舞う。はるか南には駿河の海が金波、銀波を躍らせ、東には富士が白雲を従えてそびえ立つ。西の山々は悠々と峰を連ね、北には太古の文化を秘めた千居の原が広がる。
 この宗教建築は、庶民から生まれた庶民の施設である。宗教的権威を象徴するのではなく、人類の恒久平和と世界文化の健全な進歩・発展を、民衆が主体者となって祈願する場である。工事にかかってから四年、建立計画を発表してから八年余の歳月を経て、正本堂はその姿を見せた。
 昭和三十九年春に、恩師の遺訓に基づいて、この建立構想を発表し、正本堂建設委員会が発足。私は、その委員長として推進を図った。設計は卓越した建築家・横山公男氏が担当し、施工は六社によるジョイント・ベンチャー方式によった。この建立資金には、四日間で三百五十億円を超える貴い浄財が八百万余の人びとから寄せられたのである。私はこの人びとの真心に応えるためにも、一円のお金もむだにすることはないように、建設委員長として力のかぎりを尽くした。
 正本堂完成の日、日本の各地はもとより、遠く海外五十カ国から約三千人のメンバーの友人たちが集まってきた。人種、民族、風俗・習慣の差を乗り越えて、友情の輪は広がっていく。私は、これで、宗門の体制はすべて整ったという実感がした。いよいよこれからは海外である──私の胸中の焦点の光は、世界の同志へと向けられていった。

1
1