Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第三代会長  

1975.2.26 「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集…

前後
 
1  「わしの死んだあと、あとは頼むぞ」との戸田先生の遺言が胸奥に轟き、響きわたる。恩師から受けたかぎりなき薫陶は、私にとって、なにものにも代えがたい。思索に思索の針はとまらず、遅くまで起きている日もつづく。六月、創価学会の初の総務に。そして学会建設への激務と激動が、日々の回転のなかに織りこまれていった。ともかく布教と組織拡大に全国を駆けずり回ったことは言うまでもない。
 風、月、緑の北海道。大波のなかに浮かぶ佐渡。詩情あふれる京都へ。また炭鉱のボタ山に現実社会の貧しさを思う九州へ。豊橋、大津、福井、福知山、岐阜と五日で駆ける日程。はてしなき強行軍はつづいた。大阪、名古屋、仙台……。一日、一日が大事であった。
 こうして一年が過ぎ、二年が過ぎようとしていた。私にとっては、困ったことが起きてきた。周囲から、創価学会の第三代会長にとの声があがってきたのである。私は、何回も断った。
 しかし、結局は、押しきられてしまった。昭和三十五年(一九六〇年)当時の日記には、その間の事情が記されてある。「全幹部の意向なりと、また機熟したので、第三代会長就任を望む話あり。……我侭なれど、きっぱり断る。疲れている」(三月三十日)。「本部にて、遅くまで臨時理事会を開催。第三代会長の推戴を決定の由、連絡を受く。丁重にお断りする」(四月九日)。「午後、……第三代会長就任への、皆の強い願望の伝言あり。私は、お断りをする」(四月十二日)。
 十四日になって、とうとう断ることができなくなり、やむなく、承認の格好となってしまった。この日の日記には「万事休す。……やむをえず。やむをえざるなり」とある。
 五月三日、東京・両国の日大講堂で創価学会第三代会長に就任。会長になることはいやでいやでたまらなかったが、就任した以上は、全責務を全うしなければならない。だが、体がどこまでつづくか。この日の総会に出席された第六十六世日達上人から、大きな期待の祝辞をいただいた。当時三十二歳の私に課せられた課題はあまりにも大きかった。
 その夜、大田区小林町の自宅に帰ったところ、ささやかながら赤飯でも炊いていてくれるのかとも思っていたが、何も用意はされていなかった。「きょうからわが家には主人はいなくなったと思っています。きょうは池田家の葬式です」というのが妻の言い分であった。実際、妻や三人の息子たちにとっては、五月三日は“葬式”といってもよかろう。かつては、月に一度か二カ月に一度ぐらいは、妻を連れて映画などに出かけることもできたが、そんなことはできなくなった。夕方、家に帰り、ひとフロ浴びて家族団欒の夕食をともにすることも人生の楽しみの一つとは思ってはいるものの、あれやこれやと、なかなかくつろいだ機会はもてなくなった。三人の男の子の教育は、妻まかせであるが、幸い皆、健康に伸びのびと育ってくれているようである。
 旅先の京都から、小さいカブトを長男におみやげとして買ってきてやったことがあるが、毎年、節句の日には、そのおもちゃのようなカブトがわが家には飾られていた。子どもたちは、留守がちな父親が知らないうちに、いつのまにか大きくなっていた、というところである。
 それでも、父親の面目を大いにほどこしたことがある。長男が幼稚園にあがるときである。妻のおふくろが、道を歩きながら、聞いた。「家のなかでだれが一番好きか」と。おばあちゃん子なので、かなり自信があっての問いであったらしい。ところが、長男が答えるには「パパ」ということであった。「その次は」には「ママ」。三番目にやっと「おばあちゃん」という答えが出てきて、こんなに朝から晩までかわいがって面倒みてやっているのに、と妻のおふくろがたいへん悔しがっていたと聞いた。
 現在、上の二人が大学へ、下の一人が高校へ行っている。子どもの意思をそれぞれ尊重していくというのが父親の教育方針であり、母親は平凡でも健康で暮らしていってもらいたいと願っているようだ。
 ある婦人雑誌の正月号(四十九年)に「子どもに託して」と題して一文を寄せたが、最後に私は書いた。「彼らにもやがて恋人ができ、結婚するでしょう、そのときに私はただ一言いいたいのです。『パパのことはいい。ママだけは大切にしてあげてくださいよ』と」。それは、“五月三日”を、“わが家の葬式”と感じ、以来、いつも微笑を絶やさないで尽くしてきてくれた妻への償いの心である。

1
1