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日蓮大聖人・池田大作

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恩師逝く  

1975.2.25 「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集…

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1  二月は厳寒の季節──。この凍りつくような月の十一日は、戸田先生の誕生日である。先生逝いて、十七年、いまも私の家では、毎年、この日に赤飯などを炊いて祝う。私にとっても、また妻にとっても、生涯にわたる師であるからである。
 四月二日は、先生の命日。昭和三十三年(一九五八年)のこの日は、私の人生にとって、決して忘れることのできない、永遠の歴史の日となった。体が極度に衰弱された先生は、総本山の大講堂落慶の式典で指揮をとっておられたが、四月一日、富士宮から帰京され、日大病院へ入院された。二日夕刻、私は信濃町の旧学会本部で、首脳と連合会議を開いていた。
 午後六時四十五分、私に、病院から先生の子息・喬久君より電話との知らせ。私は立った。受話器の向こうから、落ち着いた語調で「ただいま、父が亡くなりました」と──。愕然。この一瞬の思いは、筆舌には尽くせない。師の逝去──こんな悲しみが世の中にあろうか。断じて先にも後にもない。また、これからも、決してないであろう。厳父であり、慈父であり、私にとってはいっさいであった。
 「先生、お休みなさい。お疲れだったことでしょう」。ご遺体にあいさつ。私の脳裏には、師がなくなる前日四月一日の刻々の状況が、走馬灯のように浮かんでは消えていった。
 午前一時四十分、先生を総本山から東京にお連れする準備。午前二時、宿坊の二階より出発。フトンのまま。「先生、出発いたします。私がお供いたします」と申し上げると、「そう、眼鏡、眼鏡」と言われた。担架にて車に。奥様と医師同乗。二時二十分、月おぼろにして、静寂な田舎道を、沼津駅へ。
 三時四十五分、沼津駅に到着。四時十五分発急行「出雲」に乗る。「先生、これで安心です」と申し上げたところ、「そうか」との微笑が忘れられない。早朝、六時四十五分、東京駅着。一睡もせず。日大病院へ……。そして、二日を迎えて──。
 師は逝き、残った弟子たちは、寂しく、悲しんだ。自分たちのはてしない悲しみに思いをいたし、茫然とするのも当然であったにちがいない。しかし、私は次の時代展開への誓いをはたさねばならなかった。
 戸田先生は、亡くなる少し前の二月、私を自宅に数回呼ばれ「私の後をいっさいやるように」と言われた。そこで三十三年三月一日より、私は学会本部に常勤するようになり、以後、実質的な指揮をとらざるをえなくなっていた。 初七日のとき、詠んだ歌は──。「恩師逝き 地涌の子等の 先駆をば われは怒涛に 今日も進まむ」。この色紙は、いまも自宅に掲げている。思えば、二十二年から十一年間、朝となく夜となく、それこそたたき込まれるようにして薫陶を受けた。その指導は峻厳であり、惰弱を許さなかった。あの調子であと二、三年つづいたら、私自身がまいってしまったかもしれない。
 先生は、よく朝早く起きて、フトンのなかで、一時間、二時間の思索に耽っておられた。ある日などは、朝の四時ごろ、電話がかかってきて、すぐ来るようにということである。タクシーにとび乗って飛んでいったものだ。四六時中、思索をされていたのであろう。
 お酒は好きであったので、忘年会などの宴も半ばになると、洋服を裏返しに着て、ノリヒゲをつけ、帽子を逆にかぶり、ほうきを持って踊られた。皆は大喜びで喝采をしていたが、その直後、まったく次元の異なったことなのであろう、毅然と眼光鋭く、なにやら一人で思索をされている厳しい姿もよく見られた。辛労のかぎりを尽くして、未来の構想に心を砕かれていたにちがいない。
 戸田先生と恩師・牧口常三郎初代会長とのあいだを仏法が結んだ師弟の道は、強靭な永遠の絆であった。先生が、師の遺志をはたすべく、敢然と権力の魔性に挑まれたのは──獄中で、判事から、牧口会長の獄死を聞かされたときかと思われる。私も、及ばずながら恩師の死を機に、師の偉大な構想を実現することを誓った。私は、私なりに全魂を尽くして、一直線に進んできたつもりである。

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