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日蓮大聖人・池田大作

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権力との戦い  

1975.2.24 「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集…

前後
 
1  核兵器に対する恩師の遺訓が示された昭和三十二年(一九五七年)は、学会にとっても私自身にとっても波瀾万丈の年であった。
 恩師が会長推戴の席で終生の目標として掲げた七十五万世帯は、三十二年の暮れに見事に達成され、拡大の運動の波はなお上げ潮に乗っていた。
 前年の三十一年七月の参院選には学会の推薦をうけた三人が当選、三人が落選。学会がいろいろな意味で注目されだしたころでもあった。その選挙で私は大阪地方区の最高責任者として臨み、白木義一郎候補が第三位で当選した。当時の新聞は「“まさか”が実現」「予想を覆す」「大番狂わせ」などと報じた。公明党は私が創始したのだが、現在は明確に政教分離している。ともかく、日本の民衆のため、福祉政治の実現のために、党の貢献を期待したい。
 当時、こうして学会の伸長が明らかになると、それを阻止しようとする動きがあったことは確かである。波が大きければ抵抗も大きいという当然の理であろう。三十二年六月のいわゆる炭労事件もその一つで、そのころ、最大の労組であった炭労が労組員のなかに学会員が増えるようになったことを重視し、北海道炭労第十回定期大会で「組織問題として学会と対決する」ことを公然と打ち出してきた。
 炭労側は教宣活動の徹底という名目で学会員の締め出しをはかり、一部には村八分的な処置もとられた。このことは明らかに信教の自由に対する侵害であり、おのずから次元の異なることであろう。
 私は問題の解決のため北海道に赴き、信教の自由を守るために戦った。札幌、夕張で大会を開き、炭労側もやっと柔軟な姿勢を見せ、一応の解決をみたのである。
 この直前、三十二年の四月、大阪では参院大阪地方区の補選があった。私は前回と同様、責任者として指名され臨んだ。三十一年の選挙では、真剣さと不慣れのためか、会員のなかで選挙違反を行った人がおり、こんどこそ違反のない選挙をと、まずこれを徹底した。しかし残念なことに補選でもまたまた違反者が出た。もちろん道義的責任は感じていたが、選挙違反の容疑が私の身辺にまでおよぶとは考えてもいないことであった。炭労事件が一応の決着をみて私は札幌から大阪に赴き、みずから出頭。七月三日である。大阪地検に公選法違反容疑で逮捕されたのである。
 札幌からの途中、乗り換えのため、羽田空港で若干の余裕があった。戸田先生はたいへん心配され、わざわざ羽田まで出向いておられた。七月三日は、奇しくも恩師が終戦直前の二十年の同じ日、二年間の獄中生活を終え出獄された日である。偶然ではあろうが、恩師の出獄と私の拘置の日が重なった奇しき縁を思った。
 拘置は十五日間に及んだ。私に対する検察側のねらいは、戸別訪問教唆をむりやり認めさせることにあったことは、明らかであった。当局が言ういきさつこそ、まったくの勝手なデッチ上げという以外になかった。
 取り調べは苛烈であった。手錠をかけられたままの取り調べもあった。いかに厳しくとも、私はどこまでも耐える以外になかった。
 しかし「認めなければ戸田会長を逮捕する」とか「学会本部の手入れをする」といった脅迫まがいの言辞は断じて許せなかった。無道な当局である。もし戸田先生が逮捕されたらどうなるか、三十二年といえば逝去の前年であった。体はすでに相当に衰弱していたことを、私はだれよりも知っていた。そしてもし学会本部が捜査されたら……なにも真実を知らない会員はどうなるか。一人獄中にいての苦衷は、言葉にはとうてい、言い表せないものがあった。
 私は悩み、考えたあげくS主任検事に面会を求め調書に応じた。まったくいわれない無実の罪であったが、このことは裁判の公開の席でかならず判明するにちがいない。処分未定のままの釈放は十七日昼。起訴は戸別訪問容疑で十九日にされた。大阪拘置所を出たとき、親しい友人が数多く出迎えてくれた。その日の午後、来阪してくれた恩師は「裁判長がきっとわかってくれる」と言われた。
 裁判は四年半の長きにわたった。裁判記録にすべては明白である。大阪地裁の判決公判は会長に就任後の三十七年一月二十五日であった。結果は言うまでもなく無罪である。「被告人池田大作は無罪」の田中勇雄裁判長の判決主文を耳にして、私は当然のことと思ったが、みずからに言い聞かせた。私だからこそここまで戦えた、と。多くの市民は、不当な権力に苦しめられてきた。戦前は、もっと多かったにちがいない。胸がはちきれそうな思いがした。
 私は心の奥底で、生涯、不当な権力に苦しむ民衆を守り、民衆とともに進もうと決意せざるをえなくなっていった。

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