Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

核廃絶  

1975.2.23 「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集…

前後
 
1  学会における活動が多忙を極めるようになってから、私は実家へほとんど帰れなかった。なにしろ全国各地を回ることが多く、自宅すらも、なかなか帰れなかったのである。昭和三十一年(一九五六年)の暮れも押し詰まった師走の十日であった。父が亡くなった。六十八歳。心臓の老衰である。
 訃報を聞いて、その夜は十年ぶりに実家に泊まった。ことのほか寒く、長く感じられる夜だった。父は横になって皆とテレビを見ているとき、眠るようにして亡くなったという。そんな話を聞きながら、こたつを囲んで兄弟ともども、一夜を明かした。近隣の人びとや学会の友が弔問にこられた。庭には赤々と薪が燃やされていた。
 正直のところもう少し長生きしてもらいたかった。家を出て以来、息子らしいことはなに一つできなかったように思えた。ただ一言「自分は長く不動の信仰をしてきたが、大さんのやっている法華経のほうが高いようだね」と父がもらしたことが、いまなお私の耳朶から離れない。亡くなる三年前の二十八年、父はやはり心臓が悪くなり寝こんだ。いったんは危篤となり、親戚が集まり、葬儀の手はずも整えられたほどであった。それが見事に持ち直し、すっかり元気になって、自分で櫓をこいで好きな海に出るまでになった。
 亡くなった父の顔には、笑っているような安らかさがあった。大正時代の少壮のころは家業の海苔業は隆盛を極め、東京の高尾山の信者だった一家は、そこに池田家の石碑を建てたほど余裕もあった。
 北海道の数十町歩の開拓に夢を燃やし、事業に飛び回った。その後、没落し、戦争がそれを決定的にしたが、父は強情と言われ、真っ正直と言われながらも、精いっぱいに人生を生きた。晩年の日々は平凡ではあったが、安らぎがあった。私は心ゆくまで回向の題目をおくりつつ、父と最後の別れをした。庭の薪が、パチパチと燃え尽きるまで音をたてていた。
 告別式の日、戸田先生は「私の友人が亡くなったんだ。皆で行ってあげなさい」と言われたそうで、多くの先輩、友人がきてくださった。母はそれら弔問の客に心づくしの膳を出した。
 さすがに気丈な母も、入棺のときは慟哭した。私は美しい涙と思った。長い、楽しくもあり苦しくもあった人生の旅をともにしたその妻の姿に、私は、せめてもの母への孝養を心に期したものである。
 明けて三十二年は恩師が亡くなられる前年だけに、忘れ難い年である。なかでも五万の男女青年が集まった九月の横浜・三ツ沢競技場における「若人の祭典」の席上での、戸田先生の原水爆に対する遺訓を、終生、忘れることはできない。
 当時は原水爆反対の世論が巻き起こっているときだった。二十九年の三月、焼津のマグロ漁船第五福竜丸が、ビキニ環礁での水爆実験による“死の灰”を浴び、同年九月、無線長の久保山愛吉さんが死去された。唯一の被爆国としての使命と責任のうえからも、原水爆反対運動の高揚は当然であった。しかし、戸田前会長は、それら運動の根底にぜひともなくてはならない視座の確立を考えていたのである。
 それは原水爆、核兵器を使用するものは、人間の生存の権利を侵す魔の行為者であるということであった。つまり、人間の心、内なる世界にひそむ魔性が権力という装いをもって核兵器の使用に走らせるという、人間生命の深層を鋭く看破した先生は、そのことを「原水爆禁止宣言」として三ツ沢競技場で強く訴えたのであった。
 静かに目をつぶると、あのときの光景が鮮やかに浮かんでくる。その日は台風一過の素晴らしい秋空であった。若人の多彩な競技が終わって、閉会式のさい、戸田先生は強い、しかも肺腑にしみ入るような語調で「諸君らに今後、遺訓とすべき第一のものを発表したい」と言われたのであった。その宣言は、まさに民衆の生存の権利を侵す、核兵器使用の奥に隠された悪魔の爪を明らかにするものであった。
 以来この宣言は、私の耳元から離れることはない。後年、中国を訪れ周恩来首相、鄧小平、李先念副首相とまず語り合ったことも核廃絶への方途であり、そのことは、訪ソの折のコスイギン首相との対談でも強調した。
 私はただただ恩師の遺訓のままに、世界の平和にこの身を粉にして行動する以外にないと決めている。単純であろうが、この決意こそ、だれよりも強いことを、私は知っているつもりである。
 五十年一月、私は国連本部を訪ね、ワルトハイム事務総長と会談した。そのさい、核廃絶を願う一千万署名を手渡した。これは私が青年、学生に託して運動を進め、多大な共鳴と賛同を得たもので、この運動は唯一の被爆国、日本に住む人間の義務でもあり責任でもあると信じている。

1
1