Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

布教  

1975.2.22 「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集…

前後
 
1  戦後の混乱のただなかにいる不幸な人間群に、折伏という布教方式で向かっていく、戸田先生の姿があった。世間の誤解と故意の中傷を耐え忍び、雄大な構想の一歩一歩を進められていったといってよい。たしかに大勢のなかには、真剣さのあまり、非常識のそしりを受けるような行動もあったにちがいない。草創期とはいえ、反省すべきは、反省しなければならないと私はいつも思っている。
 昭和二十八年(一九五三年)一月二日、私は男子部の第一部隊長に就任。メンバーは約三百人であった。そのころ、昼は社に勤務しながら、夜は学会の青年部の中核として活動しつつ、大阪、仙台など地方にも本格的な行動を開始したのである。四月十九日には、第一回の男子部総会を開催。四月二十八日には、五重塔の修復記念大法要が静岡の総本山で行われた。
 ちょうどこの日の午後であった。前日から出産の兆候があった妻は実家に帰っていたが、総本山にいる私あてに長男が産まれたとの電報をよこした。
 戸田先生に早速報告すると、ことのほか喜んで和歌を書いてくださり、「博」と「正」の二字の横にマル印がついていた。博く学んで、正義の人に育つようにと、「博正」と命名してくださったわけである。お祝いに、太刀を一振り贈ってくださった。この長男も、いまは慶応大学に在学している。妻にも、良い母になるようにと「かね」から、「香峯子」に変えては、と名をいただいた。
 名前のことといえば、私のもともとの名は「太作」である。昔気質の親が太く大きく丈夫に育ってもらいたいとの願いをこめてつけたらしい。
 だが、小学校のころから、兄弟や友だちが私のことを「ダイ!」「ダイちゃん!」と呼ぶようになった。身体の小さかった私に「ダイ(大)」と、正反対の言葉をいい、多分にからかう気があったように思われる。いずれにしても自然のうちに「ダイサク」で統一されてしまっていた。
 たまたま戸籍謄本を取り寄せることがあって、名を見ると「太作」とある。これで「ダイサク」と読むのも読みにくいというわけで、戸籍でもいまの「大作」に改名したしだいである。
 東奔西走の日がつづいた。体の調子が悪く、極度の疲労がつづく日々であった。このころの日記には体の具合が悪いとよく出てくる。「背中に、焼けたる鉄板を一枚入れたるが如し」とか「焼けたる木を、一枝、胸中に入れたる感じなり」(二十八年二月四日)、などと書いてある。
 翌二十九年にもこの状態はつづき、「身体の調子、頗る悪し。……激痛、続く」(四月五日)。だが、私は、自己との妥協はできない情勢になっていた。
 地方へ出かけていく回数も多くなっていった。北海道は、戸田先生の故郷。私が初めて千歳の空港に降りたのは、昭和二十九年八月十日である。先生に同行して二人しての空の旅であった。当時、機内では禁酒とのこと。先生は、苦しいな、とニッコリされていた。
 八月中旬のある日、札幌の旅館を正午近くに、ハイヤーで出発。先生と奥様と私が同乗。山道を砂ぼこりをもうもうとあげながら進んで約三時間。石狩川を渡り、海岸沿いを走り、小さな漁村へ。ここが戸田先生が幼少期を過ごされた故郷であった。
 四十八年、私は厚田を訪ねたが、道路は整備され、札幌からは一時間に短縮されている。一人、村のあちこちを訪ね歩いた。晴れた空に、金色の輝きが目を射る。波は白くほほえみ、都会の喧噪もこの北海の浜辺にはない。大いなる自然は、悠久の静けさを秘めて、旅人の心を慰める。私は厚田港の岬に立って、恩師が語り、心を砕く海のかなたのアジアに思いをはせ、虐げられてきたアジアの人びとへ幸せの光はいかにしたら届くか、と思索し、決意を固め、海に向かって叫んでいた。
 その夜、一泊し、石狩鍋をごちそうになりながら、いろいろなお話をうかがった。厚田の村は、小樽湾に面した小さな漁村であるが、かつては、鰊漁でにぎわい、砂浜に産卵しにきた鰊の大群で、海が幾十里にもわたって白く波立ったとも……。このころより、私は、『人間革命』の構想を、少しずつ考えざるをえなくなっていた。恩師の存在──それは、私の至極の原点であるからだ。
 二十九年、三十年、三十一年と、創価学会の布教運動は深く広く展開されていった。

1
1