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日蓮大聖人・池田大作

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若い結婚  

1975.2.21 「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集…

前後
 
1  妻が、私の目の前に一人の若い女性として急に浮かび上がってきたのは、昭和二十六年(一九五一年)の夏である。新潟鉄工所時代、荏原中学校の学徒動員できていた白木という学生がいた。その後、彼の家が戦前からの会員であることを知った。ある会合の帰路、彼は「妹です」と言って、彼女を紹介したのである。当時、彼女は都心の銀行に勤めていた。やがて幾度となく顔を合わせることが多くなった。七月のある日の夕暮れ、私は学会員宅で予定されていた会合に飛び込んだ。そこには彼女が一人だけいた。戸外では雷鳴が遠く近く鳴りひびき、静寂な部屋の中は二人だけの沈黙が支配していた。
 二十三歳という青春の脳細胞の仕業であったのであろうか、私は、かたわらにあったワラ半紙に、一片の抒情詩を書いて渡した。
 「吾が心 嵐に向かいつつ
  吾が心 高鳴りぬ……」
 夢中だったにちがいない。紙片が広げられようとしたとき、私はそれを押し止め、「あとで……」と言い添えた。彼女はハンドバッグに素直にしまいこんだ。
 彼女との文通が始まった。活動の場が近かったということもあって、多摩川の堤を二人でよく歩いた。夕焼け雲は赤く、微風は心爽やかであった。矢口の渡しから対岸へ一艘の舟が向かう。静かな川の流れは、波打つ岸辺の草を洗い、小鳥たちが宿を探して飛んでいく。日が暮れ、宵闇が迫ってくる。
 だが、遊戯的な安易さはなかった。アンドレ・モーロワの結婚訓に「結婚に成功する最も肝要な条件は、婚約の時代に永久的な関係を結ぼうとする意志が真剣であることである」(『結婚・友情・幸福』河盛好蔵訳、新潮社)とあるが、二人とも幾多の苦難の坂も励まし合って進もうと語り合った。私は聞いた。生活が困窮していても、進まねばならぬときがあるかもしれない。早く死んで、子どもと取り残されるかもしれない。それでもいいのかどうか、と。彼女は「結構です」と、微笑みながら答えてくれた。
 私ども二人の心中を訊かれた戸田先生は、双方の親への了解をとってくださることになった。夏が過ぎ、秋も去った冬の寒いある日である。戸田先生は、一人で蒲田の私の実家をわざわざ訪問してくださった。頑固一徹の父は、初対面であったが、家を出た息子が師事しているという磊落な紳士を尊敬して迎えたようである。私はその場に居合わせなかったが、戸田先生は「息子さんを私に下さらんか」と言われたという。父はしばらく考え込んでいたそうだが「差し上げましょう」と答えた。
 この父の返事は珍しい。というのは、私は、小さいころから五、六軒の家から養子にくれと言われたことがあったようだが、そのつど、強情さまの父は、一言のもとに「とんでもない」とはねつけてきたからである。きっと戸田先生の人格が、自然に父から快諾の言を引き出してしまったのであろう。戸田先生が、そこで「じつは、良い縁談があるのだが……」と切り出されると、父は「息子はいまあなたに差し上げたばかりです。どうなりと」と返した。
 話は進み、市谷にあった創価学会の旧分室の近くの寿司屋の二階で、双方の親を呼んで、見合いをしてくださった。話は進行していたのであるから、これは「見合い」というより「家族同士の顔合わせ」といったほうが正確であるかもしれない。強情さまは、息子の“嫁”がなかなか気に入ったようであった。 昭和二十七年──この年は戦後七年にして偏頗な単独講和ながらも講和条約が発効された年である。五月一日、皇居前広場では、いわゆる「血のメーデー事件」が起こり、世情は騒然としていた。その二日後、快晴の五月三日であった。この日は、ちょうど一年前、戸田先生が会長に就任された意義ある日であった。私たちは、中野の寺院で式を挙げた。ごく近しい身内のものだけで、五十人もいなかったと思うが、簡素な式であった。私は二十四歳、妻は二十歳になったばかりである。
 恩師は心温まる祝辞を下さった。「男は力を持たねばならない。妻子に心配をかけるような男は社会で偉大なる仕事はできない。また、新婦に一つだけ望みたいことがある。それは、主人が朝出掛けるとき、晩帰ったときには、どんな不愉快なことがあっても、にっこりと笑顔で送り迎えをしなさい」と。妻は、いまにいたるまで、この日の言いつけを守ってくれているようで私は感謝をしている。
 目黒の借家の一室に住むようになったが、後に私が地方へ行ったりして家をあけがちなので、妻の実家である白木の家に近いほうがいいということになった。それで大田区大森の山王にアパートを借りて一時住むようにしたが、やがて、小林町(現在、大田区)にささやかな家を月賦で購入し、そこで十数年を送るようになった。高価な家具などなに一つなかった。その後、環状八号線拡張による区画整理のため、この小林町の家も大部分とり払われることになったので、四十一年九月、新宿区信濃町の本部近くに転居した。一昨年(四十八年)、会合からの帰途、昔のわが家に寄ってみた。ほとんど車道になっていてその跡はなかったが、懐かしかった。

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