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日蓮大聖人・池田大作

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苦闘の日々  

1975.2.20 「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集…

前後
 
1  いつ冬が来て、いつ春が訪れたのか──それさえも判然としない苦闘の日々がつづいていた。大森のアパートへの帰宅は、ほとんど深夜であった。そこは私の青春の軌跡の日々を刻んだ場所である。
 体がいよいよおもわしくなくなった私は、頬がこけ、あご骨が出た顔を、兄のかたみとなった鏡の破片に映しては、よく母を思ったものだった。母は私が家を出たあとも、家の者に言って外食券を届けてくれたり、配給の品や菓子などを持ってきてくれた。洗濯物はどうか、などと陰でなにかと心を配ってくれたようである。
 給料ももらえず、アパートの一室でたくあんだけの夜食をとり、靴下のほころびをつくろう。熱にうなされ、目がさめる。発熱して腕にキラキラと光る汗をかいた夜が、いくたびもあった。これが二十二、三歳の私の青春の一面でもある。
 一日の快い疲労を願ってもかなわぬ体で、アパートの一室へ帰った私の、当時のひそかな楽しみは、読書であり、またあまり音のよくないレコードの曲に独り静かに耳を傾けることだった。ホイットマンの『草の葉』をよく読んだ。神田の書店でなけなしのお金をはたいて求めたものである。新世界をうたうこの民衆詩人との対話に、私は慰めよりも勇気を求めた。「寒さにふるえた者ほど太陽の暖かさを感じる。人生の悩みをくぐった者ほど生命の尊さを知る」(梶山 健 訳)とのホイットマンの一句は、私の心境でもあった。
 狭い一室に「運命」の交響曲が響きわたる。私はその荘厳ともいえる音律のまっただなかにわが身をまかせて聴き入った。清々しい凛然とした思いが五体に噴き出るような感じを、私は愛したのだった。体の不調と戦い、事業の苦境とさし向かう健気な毎日だったといえるが、私の若き精神の空間は、このとき、北向きの狭い四畳半の一室を越えて、未来十年、二十年の希望の明日を呼吸していたのである。
 しかし現実は厳しく、状況は遅々として好転しなかった。昭和二十五年(一九五〇年)の十一月、創価学会の第五回総会で戸田先生は理事長を辞退していた。信用組合の業務停止から三カ月、事態は好転せず、恩師は事業の失敗の責任が、学会に及ぶことを深く憂い、辞任されたのであろう。しかし、どうなろうと私にとっての師は先生しかいなかった。 私はせめてもの決意を歌に託して先生に差し上げた──。それが「古の奇しき縁に 仕えしを 人は変れど われは変らじ」であり、私の唯一の励みは、先生の返歌「色は褪せ 力は抜けし 吾が王者 死すとも残すは 君が冠」であった。
 戸田先生も考えていたようであったが、私も心ひそかに三十歳まで体がもたないのでは、と危惧することがあった。体が弱くては、これからの労作業には、道が開けない。これが最大の悩みであった。あるとき、血を吐いたことを先生に見つかってしまったのである。先生は真剣な顔で私の体をさすってくださった。「若いのだから、生き抜くのだ。死魔と戦うのだ」と言われた。いま思えば、こう厳しく叱咤することによって、私の弱々しい心を打ち破ってくださったにちがいない。
 このころは、先生の生活も窮しており、お好きな酒も、財布を気にしながら、焼酎のコップ酒ですまされていた。ある日、来客があり先生は久しぶりに日本酒を多く飲まれたことがある。私にも飲めという。私は酒は大の苦手で、いまでもそうである。このあいだの訪ソのさい、作家のショーロホフ氏と対談したが、氏が飲むようにと頑としてきかず、大いに弱ったものである。
 私は、思いきって息をつめてグイと飲んでしまった。あとで聞いたところ、先生は「肺病というのは十分に寝て食欲を旺盛にすればかならず治る。飲めば自然に眠くなって休めるし、食欲もわくだろう」と、話されていたという。ありがたい師匠であった。
 いつのまにか冬が来て二十五年は暮れ、二十六年となった。その間、戸田先生は新たに大蔵商事という会社を設立された。私はその営業面を担当した。西神田から新宿の百人町に移った事務所の小さな庭にも、若芽が出るころとなった。冬は一挙に春になった。
 学会はこの年、いよいよ飛躍のときを迎えたといってよい。信用組合の整理が好転し、四月には機関紙「聖教新聞」が創刊された。五月三日、戸田先生は第二代会長に就任する。そして七月の男子部、女子部の結成となり、その若い力が運動の進展を担った。まさに新生の夜明けが到来し、私も広宣流布という平和文化運動に颯爽と出発したのである。

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